第60回菊池寛賞受賞! 医師・近藤誠とは?

 書籍『放射線被ばく CT検査でがんになる』やクラウドBOOK『問題解決の科学 第1号 放射線被ばく』著者で、慶応大学医学部放射線科講師の近藤誠氏が、第60回菊池寛賞を受賞しました。

受賞理由は、「乳房温存療法のパイオニアとして、抗がん剤の毒性、拡大手術の危険性など、がん治療おける先駆的な意見を、一般人にもわかりやすく発表し、啓蒙を続けてきた功績」。

近藤医師は、どのような経緯でどのような活動をしてこられ、受賞に至ったのでしょうか。

ここでは、近藤氏のこれまでの事績をまとめました。

*参考文献:近藤誠・著『大学病院が患者を死なせるとき』講談社プラスアルファ文庫

 

——————————————

 

研修医時代

1973年、慶応大学医学部卒業後、慶応大学医学部放射線科に研修医として勤務しはじめる。そこで、死を目前にしているがん患者たちの姿をまのあたりにし、ショックを受ける。当時はがん患者に病名を伝えることはタブーとされていたため、事実を知らずに亡くなっていく患者が多数だった。またこのころ、末期がんの患者に対して副作用の大きい抗がん剤や手術などの治療を施すことは、逆に患者に負担をかけ、死期を早めているのではないか、という疑問を抱きはじめる。

 

アメリカの最新医療を知る

1979年4月、最新の放射線治療研究に参加するため、アメリカのロスアラモスへ留学。アメリカの医療では、医者は患者に病名を隠すようなことはせず事実を話し、聞かれれば余命まですべて答える、ということや、日本では多用される抗がん剤は実験以外ではあまり使わない、ということを知る。
また、実験に従事していた放射線治療に重大な欠陥があることを指摘するも無視され、実験が続行されたことから、医者が行う臨床試験について、医師自身の主観や希望、あるいは保身のために、出た結果が必ずしも科学的に正確になるとは限らない、という事実に気づく。

 

帰国、病院改革へ

1980年3月、帰国し慶応大学医学部放射線科に復帰。アメリカで学んだ放射線治療の経験を活かし、日本でも放射線治療を積極的に推進。また、患者への情報公開(インフォームド・コンセント)を進め、たとえ子どもであっても事実を隠さずに患者本人に伝える、ということを徹底させる。さらには末期がん患者への終末医療の方法も変え、無理な蘇生治療をやめるなど、病棟改革に取り組んだ。1983年3月、慶応大学病院の病棟医長、7月には専任講師に就任。また、このころ独自の追跡調査などにより、抗がん剤への不信感が決定的となる。

 

乳房温存療法のパイオニア

帰国後は、上記の病院改革に加え、欧米で好成績を示している乳房温存療法を、日本でも実施していった。同時に、温存療法について社会の理解を得るために情報発信を行い、新聞などでも報道されるようになる。しかし、当時「乳がんは乳房切除が当然」という「信念」を持っていた外科医と対立し、慶応大学病院で「院内戦争」状態となる。1987年2月、病棟医長を解任される。

 

ひとり闘い続ける医師

1988年、手術や抗がん剤などの日本のがん治療を批判した初の単行本『がん最前線に異状あり』(廣済堂出版、のちに『「がん」ほどつき合いやすい病気はない』に改題し講談社文庫より刊)を出版。同年5月には、「文藝春秋」に論文「乳がんは切らずに治る」を発表し、みずから所属する慶応大学病院を含めた医療現場での乳がん治療の実態を告発。以降、医療現場からの情報公開を、マスコミを通じて推進していく。1996年に刊行した『患者よ、がんと闘うな』はベストセラーになり、医学界では近藤氏の「がんもどき理論」をめぐって「がん論争」と呼ばれる大論争を巻き起こした。

 

以降、「患者本位の医療」「科学的であること」を徹底的に追及しつづけ、さまざまな媒体で情報発信を続けている。

 

——————————————

 

「がんもどき理論」をはじめとした「近藤理論」については、この記事や、記事からリンクされている「新刊JP 近藤理論のポイント」に詳しく記述されています。ご参照ください。