やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第15回 落語『金明竹』の巧妙なる構造

前回は、観客のまばたきを測定した実験の結果、いわゆるヤマ場やダレ場のある見方をしている人ほど、没頭体験が強いことを見た。

今回は、古典落語『金明竹(きんめいちく)』を具体例にして、観客による理解や記憶に着目して噺(はなし)の構造について論じていく。理解や記憶は、言うまでもなくヒトの知性の中核的な機能である。

古典落語を認知科学の眼で眺める

落語『金明竹』に出てくる旦那(だんな)は古物商で、中橋(なかばし)の加賀屋佐吉(かがやさきち)の仲買、弥一(やいち)に売掛の品を預けてある。弥一の使いとしてやって来た上方の商人は、「先度(せんど)、仲買の弥一が取り次ぎました道具七品のうち」と早口に切り出す。

このときの品の数は、七品だ。何でもないように思える七品という数は、認知科学の視点から見ると大変に興味深い。

なぜ、弥一に預けたのが七品であったほうがいいのかは、じつは人の記憶の性質によってうまく説明がつく。

さらにいえば、なぜ「買わず(蛙)飛び込む」がサゲになるのかについても、同じように説明できる。

それでは、さっそく『金明竹』の世界を認知科学の眼で覗いてみよう。

口上は再認される

噺を誰に教わったのか、また噺家の流派によって多少の差があるが、噺で登場する上方の商人の口上はだいたい次のようなものだ。わかりやすように、七品に番号をつけてみた。

(1)祐乗(ゆうじょう)、光乗(こうじょう)、宗乗(そうじょう)三作の三所物(みところもん)ならびに備前長船(びぜんながふね)の則光(のりみつ)四分一拵え(しぶいちごしらえ)横谷宗珉(よこやそうみん)小柄(こづか)付きの脇差し、あの柄前(つかまえ)はなぁ、旦(だん)はん古鉄刀木(ふるたがや)言てはったが埋木(うもれぎ)じゃそうで。木ぃが違うておりますさかい、念のためちょっとお断り申します。

次に(2)のんこうの茶碗、

(3)黄檗山(おおばくさん)金明竹の自在鉤(じざいかぎ)、

(4)寸胴(ずんど)の花活(はない)け、この花活けには遠州宗甫(えんしゅうそうほ)の銘がございます。

(5)織部(おりべ)の香合(こうごう)、

(6)『古池や蛙(かわず)とびこむ水の音』と申しまして、あれは風羅坊正筆(ふうらぼうしょうひつ)の掛け物(かけもん)で、

(7)沢庵(たくあん)、木庵(もくあん)、隠元禅師(いんげんぜんじ)張混ぜの小屏風(こびょうぶ)、あの屏風はなぁ、わての旦那の檀那寺(だんなでら)が兵庫におましてな、そこの坊主のえろう好みます屏風じゃによって表具へやり、兵庫の坊主の屏風にいたしますとなぁ、かようお言付け願います」

噺をよく聴く方でもこの口上の細かいところまでは覚えていないだろう。まして初めて聴いた客なら、古道具についての知識がないこともあいまって、なおさら何を言っているのかはわからない。

だが、噺の展開上4度ほど繰り返される時には、同じ内容を言っているのだということはわかっている。ヒントがあれば思い出せる状態なので「再認」と呼ばれている(ちなみに、自力で思い出すことができることは「再生」と呼ばれている)。

ここでは再認が生じているからこそ、与太郎(よたろう)やおかみさんが何度言われても覚えられない様を楽しむことができるのだ。

即時記憶のマジカルナンバー

人がその場で覚えようとして一度に覚られることの数は7個程度である。

たとえば、単語を見せて後で思い出せるかやったとすると、覚えた単語の上限は7個程度ということだ。

アメリカの認知心理学者ジョージ・ミラーは、これをマジカルナンバー(魔法の数字)7±2と呼んだ。つまり、即時記憶の容量はせいぜい5から9ほどしかない。

とはいっても、これはあくまで統制した実験に基づいて導き出されたものである。今回の口上のように付加的な情報が豊富にある場合には、もっと少なくなる。

つまり、道具七品というのは、人が確実に覚えられないラインをうまく攻めている。これは、与太郎やおかみさんにとってもそうだが、聞いている観客にとっても同様である。

『金明竹』に隠されたアトラクタ

さらに『金明竹』という噺が巧妙なのは、処理できないたくさんの情報の中に2か所だけ聞き手の予備知識にあることを織り交ぜ、その部分に一瞬で注意を引きつけるという点にある。

一つ目の注意のアトラクタ(引き付ける要素)は、柄前の木の種類が違うことを指して「木ぃが違うております」のところだ。

これは、これまでに聞いたことがある「気が違う」と似た音なので関連づけて記憶に残りやすい。

おかみさんのしどろもどろの説明の中でも、「弥一さんが気が違ったとか」という説明が初めに出てくるのも、この語が再三強調されて、観客にも共有されているからだ。

二つ目のアトラクタは、もちろんオチにつながる芭蕉(ばしょう)の有名な句「古池や蛙飛び込む水の音」だ。

この句は、ほとんどの人が噺を聞く前から覚えている。なので、噺のどの部分で出てきたかはわからなくても、口上の中にあったことは確かに振り返ることができる。

つまり、よく知った句には、他の(意味がわからない)情報との対比効果でより強く注意が向けられる。じつに巧みだ。

もし、よく知った句がたくさんある中に「古池や…」が入っていても、この対比効果は得られない。

このように考えてみると、『金明竹』では、巧みに選定された道具七品の記憶のしやすさ(と記憶のしにくさ)が情報処理の向かうべき道筋を方向づけ、観客をオチに向けてちゃっかり導いていっているということになる。

噺の構造自体の仕込みが済んでしまっているので、 噺家は口上でいかに観客を乗せるかという仕事に集中できる。

落語愛好家の方は、その乗せ方が気になるのかもしれないが、たまには認知科学の視点から噺の構造を眺めるというのもよいのではないだろうか。

次回も、引き続き具体的な噺や小咄(こばなし)を例に挙げ、それを認知科学の観点から見ると、どんな新たな側面が見えてくるのかを論じていくことにする。

2015年7月19日更新 (次回更新予定: 2015年8月20日)

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