やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第16回 小僧・定吉が維持リハーサル

前回は、落語『金明竹(きんめいちく)』を具体例にして、観客の知性の機能である理解や記憶に注目しながら、噺(はなし)の構造を見ていった。

今回は、落語『平林(ひらばやし)』を例にとって、短期記憶の特徴をうまく使った噺の構造があることを指摘しよう。

音韻ループによる即時的な記憶保持

『平林』は、旦那(だんな)から手紙を平林さんに届けるように言いつけられた小僧の定吉(さだきち)が、忘れないように宛名を繰り返し口に出しながら歩いていく道中を描いた噺である。

字の読めない定吉は、途中で話しかけられ、「ひらばやし」という本来の読み方がわからなくなって、あとで人に聞いた読み方を大声でわめいているところでオチになる(いろんな事情があって、オチの説明は省く。各自調べていただきたい)。

定吉が忘れないように繰り返し口に出すというのは、心理学や認知科学では「維持リハーサル」と呼ばれている行動だ。繰り返している数秒の間だけは、頭の中にその響き(音韻ループ)が残っているので維持される。

これに対して、意味を考えたり、すでに知っていることと関連づけて整理したりすることは、「精緻化リハーサル」と呼ばれている。

当然のことだが、誰のバージョンの『平林』でも、定吉は精緻化リハーサルをしない。ちゃんと覚えてしまっては噺にならないからだ。悲しいかな定吉は、いつも何かの邪魔が入って口に出して繰り返すのを中断してしまい、途端になんと読むのか忘れて、思い出せなくなってしまう。

みな体験があるように、これは日常生活でもよくあることだ。

たとえば、相手の住所や電話番号を書き取るときに、口の中で反復することで維持しようとするはずだ。いかんせん、今は電話番号ならスマホに残るし、物なら写真を撮ってしまえばいいので、住所や番号を書き写すなんてことはしなくなったが。

いずれにしても、口に出しているとき、音は音韻ループと呼ばれるところで即自的な記憶として保持されているが、口に出すのをやめると覚えきれなくて(つまり長期記憶にならなくて)、すぐに忘れてしまうのだ。

『平林』の矛盾と違和感

この『平林』という噺はいわくつきで、初めて聴くのならいざ知らず、何度か聞いたことがある客は、この噺にどうも違和感を覚えるという。その疑問は、簡単にいえば、次のようなものだ。

なんで「ひらばやし」が覚えられないのに、その後の「一八十の木木(いちはちじゅうのもくもく)」や、「一つと八つで十っ木っ木(ひとつとやっつでとっきっき)」を一度で覚えられるのか。しかも、忘れずに繰り返すことができるんだろうか。

これらの疑問は、どう見たって、あとに覚えるもののほうがひねくれていて難しいじゃないか、というニュアンスを含んでいる。

実際のところ、聴いている客だけではなく、演(や)っている噺家自身の口からも、「この噺は、ここんとこに矛盾があるよ」と聞くことも多い。

この疑問自体については、本当は筆者自身も同意している。だが、「まぁ、これは落語的な飛躍だよ」と安直に理解するのを一時やめたとき、何か説明は考えられないだろうか。

もし、定吉が何らかの理由で複雑なもののほうを覚えられるのなら、それはなぜか。認知科学者としてその一つの可能性をここに提案してみよう。

子どもには子どもの道理がある

それは、人の記憶の再生(recall)の仕方に関わっている。

より正確にいうと、再生ではない。この噺においては、定吉の手元には「平林」という文字の手掛かりがあるので、このような場合は再認(recognition)と呼ばれる。

考えうる可能性はこうだ。

定吉は、平や林という文字の連なりは知らない。結果として、「ひらばやし」と、すっと覚えることはできない。しかし、定吉はあくまで商家に奉公に来ている小僧なのだ。数字くらいは目にすることもあるだろう。また、木くらいの単純な字は見たことがあるのかもしれない。

とすれば、一と書いたとき、それを「いち」と読むことや「ひとつ」と読むことがあることくらいは知っているのではないか。他の数字や木についても同じだ。

この仮定に基づけば、定吉が「一八十の木木(いちはちじゅうのもくもく)」や「一つと八つで十っ木っ木(ひとつとやっつでとっきっき)」と読めるのも不思議ではない。

なにせ、手元には思い出す手掛かりが書いてあり、部分ごとの読み方は町の人が教えてくれたのだ。一つひとつの部分を追っていけば、すでに知っていることの組み合わせだけで読めることになる。

こんなふうに大人の眼から見ればかえって複雑で効率が悪いように思えることでも、子ども(記憶する者)にとってみれば、逆に容易だということは実は多い。

大人には大人の道理があるように、子どもにも子どもなりの道理がある。『平林』は、そんなことを思い出させてくれる。

幼い子どもが、自分で本を読みたいが、漢字が読めずに、ひらがなだけ一生懸命拾い読みするのを見たときのほほえましさが感じられないだろうか。

認知科学的な解釈

とここまで書いたが、やっぱりこれは深読みしすぎかもしれない。少なくとも言える範囲は、人は字が読めなければ、部分だけを読んでいくということだ。

嘘だと思ったら古典落語の『目薬(めぐすり)』という噺を思い出してほしい。

目を悪くした旦那が、もらった薬の処方箋(しょうほうせん)には、「めしりにつけへし」と仮名で書いてある。

ところが、最初の「め」という文字が何と読むんだったか思い出せない。

う~ん、と唸っているうちに、湯屋(ゆや)に掛かっている暖簾(のれん)に書いてある字だと気づく。そうだ「女」という字だ。そう勘違いして女の尻に、つまり、女房の尻に目薬をつける。実にくだらなくていい。

ここでも同じように、自分の知っていることを使って読めるところまで読んで、書いてあるものを手掛かりにして読み方を探っている。

こう考えると、『平林』という噺も、認知科学的な解釈から言えば、そんなに大きな矛盾はないのかもしれない。その判断は、読者にゆだねよう。

今回は、古典落語『平林』を取り上げ、その謎を説明する一つの可能性を提案した。

次回も、落語や小咄(こばなし)を取り上げ、認知科学の観点から噺の構造について迫っていこう。

2015年8月19日更新 (次回更新予定 : 2015年9月20日)

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