やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第24回 落語の場で作用する力の正体についての推察

前回は、落語の場を左右する要因の一つとして、観客どうしの互いに引き込み合う効果の表れ方が、観客がベテランか初心者かによって異なることを見た。今回は、ウェブ連載の締めくくりとして相互作用の正体について考えてみよう。落語の場に物理的実体はあるのか、もしあるとすればそれは何か、を考えていこう。

演者-観客、観客-観客の関係への問い

ここ2回(第22回、第23回)の連載で取り上げたように、落語の場にはどうやら次の二つの力が作用しているようだ。それはすなわち、(1)演者‐観客の関係から生じる注意サイクルにおけるパターン形成、そして、(2)複数の観客‐観客の関係から生じる注意パターンの相互引き込みである。

実験を通して検証されたこれらの知見は、落語についての探究を終わらせるというより、また新たな問いを生ものである。

というのも、もし仮に演者‐観客の関係が作用するとしても、観客はいつも異なり、それぞれの背景をもって落語を聴きに来ている。それなのになぜ、熟達した噺家は高い確率で注意パターンをガイドすることができるのか。

これが熟達者のわざなのだと、いったんは納得してしまうことはできる。だが、噺家が熟達することで、より高い確率で観客を引き込めることについては、熟達者と初級者の比較から導出された暫定的な結果があるのみだ。一人の噺家が熟達していく様子を調べるためには、数十年に渡る長期の縦断研究が不可欠である。

一方の観客‐観客の関係については、もっと入り組んだ問題が残されている。

これまで実証研究は、研究室に再現された寄席の状況で行われてきた。そこでは、通常の寄席と同じように、高座の方を見ている。これは、ある観客が他の観客の顔を見ることはできず、いつまばたきをしたのかを知るすべがないということを意味する。それにもかかわらず、実験では観客どうしが注意のタイミングを引き込み合う現象が観察された。

観客の相互作用を可能にするもの

何がこれを可能にしているのだろうか?

心理学者なら、シンプルにこういうかもしれない。「相手の意図を暗黙の裡に感じ取ってしまったからにちがいない」と。だが、意識や前意識(普段気には留めていないが、注意を向けようとすれば向けられる意識)の作用によって説明する前に、実はもっと別の説明が可能かもしれない。

著者は、もっと原初的なレベルでの説明が可能かもしれないと考えている。観客どうしで注意サイクルを互いに伝え合う媒質があるというアイデアだ。

観客どうしが影響し合うというと、多くの読者が最初に思い描くのは「笑い声」だろう。笑い声なら遠くまで届くし、おもしろがっているという意味がきちんと伝わる。笑い声はヒトが、原始ユーモア(proto-humor)と呼ばれる楽しみを得たころにはすでに遺伝子に組み込まれたと考えられている。有力な候補である。

しかし、この説明だけでは現象を十分に説明ではない。なぜなら、これまでの研究で、笑い声が起こらない場面でも、まばたきが同期することが確認されているからだ。

また、理論的にも笑い声による伝達では十分に説明できない部分が残る。それは、笑い声は音声として伝えられる。したがって、笑い声を聞いた周囲の観客が次の情報処理を行うとすれば必ず時間遅れが生じるというものだ。これはむしろ、まばたきが生起するタイミングに、「決して解消されない時間差」を生み出すことになる。

では、他に候補はないか。物理学にはこれまで4つの力があるとされているが、寄席の場面でも感じ取ることができるのは、引力と電磁気力の2つだけだ。引力は質量に比例するので、そう簡単には変わらない。とすれば、どう考えても、電磁気力が作用している。

電磁気力と言えば、イメージしにくいが、具体的にいえば、「空気」や「振動」が媒質となって、注意サイクルを観客どうしに伝えている可能性が考えられる。共振したり、共鳴したりするといった、物理的な面での影響も一つの候補として考えてみてはどうだろうか。ヒトの身体が物質として空間に占めるという事実が、注意のタイミングの引き込み合いに関わっている可能性を再考してみてはどうだろうか。

ここまでが、著者が現時点で述べられる最大限の推測である。今後の実証が待たれる。

落語を通して見るヒトの知性

落語は日本の文化に醸成された伝統的な芸能である。しかしこの落語も、俯瞰してみれば、口演するのも噺を聴くのも同じくヒトであることが見えてくる。
ヒトは、群れで行動している。

群れで生きる中で、ヒトはほかの動物ではあまり見られない高度な知性を持つようになった。それが、今ここ以外の場所を想像する力と自分以外の心の動きに共感する心である。この意味で、ヒトの生きる知恵と情緒が詰まった落語は、まさにヒトの知性が発揮される場面だということができる。

ここでいう知性には、二つの意味合いが含まれている。

第一に、噺の展開を予想したり、登場人物の気持ちに寄り添ったりできるという意味での知性である。このため、落語の楽しさは、単純にオモシロオカシイことだけにとどまらない。いたずらしてやろうという言外の意図を読み取ったり、再会に涙する親子の情の機微に触れることも、楽しみの一つになる。こんなに複雑で多様な人間模様を、たった一人の噺家の表現で描いて見せる奥行きが、落語にはある。

第二に、そういった噺の世界は、噺家と観客とのあいだの知的な相互行為によって成り立っている。噺家は楽しませようと意気込み、観客は楽しんでやろうと気を抜く。ただ、楽しむのにこれほど適した娯楽はない。だが、ひとたび、これらの楽しみを可能にしている知の働きを見つめてみると、そこには観客の予期を誘導する噺の構成やオチの洒落っ気など、細やかな工夫が、精緻に組み上げられている。

本連載で一貫して論じてきたのは、落語を少し学術的な枠組みで捉えるとき、新たに見えてくる説明や理屈だ。そこでは、従来の落語論ではあまり明確にされなかった、ヒトの知性と落語の関係、噺の構造の妙味や噺家と観客とのあいだのダイナミクスについて述べた。

落語についての学術研究は限られており、その知見もごくわずかしかないからだ。この意味で、議論はあくまで限定的だ。

そうだとしても、著者が言葉にした一揃いの「ものの見方」に賛成したり、反対したりする思索を通して、各読者が一人ひとりの落語論を多少なりとも掘り下げていくことができたとすれば、本連載には意味がある。

<了>

本連載は、加筆修正し出版する予定である。書籍が出版されたときには、ぜひ手に取って、再び学術的に落語を味わうというスリリングな体験をしていただきたい。

2016年6月2日更新

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