落語的了見

第24回 教科書

学校で教えるから読まなくなる

国語の教科書、ならびに国語の試験は実にけしからん、と思っている。どうしてけしからんかと言うと、文豪の作品を難しいものにしてしまったからだ。読者を楽しませるために書いた作品を教材にしたがために、子供たちにとって文豪の小説イコール勉強となってしまった。

いくら教師が小説を読めと言ったって、そんな難しいものなんか読みたくない。本来、教育の意義からすれば、いかに文豪の小説を読ませるかが大切なはずなのに、余計読みたくならないようにしてどうする。

文豪だっていい迷惑だよ。娯楽のために書いたものに傍線を引かれちゃって「この時の作者の思いを書け」ってテストにされた日にはたまらないだろう。娯楽でなくても、作者の人生の悩み苦しみを訴えた作品がテストにされたらもっと情けない。

接続詞の部分が空欄になっていて、もっとも適当な接続詞を入れろ、なんてテストにされたら、作者は「おいおい!」となる。「俺の悲痛な悩みなんだ、接続詞なんかどうでもいい!」と怒りたくなるはず。

夏目漱石(なつめそうせき)の『こころ』なんか下手すれば官能小説の世界だぞ。あんなものをガキに読ませるんじゃない。梶井基次郎(かじいもとじろう)の『檸檬(れもん)』なんか、狂人のお話。子供に理解できるはずがない。私の親は「太宰治(だざいおさむ)の『人間失格』は絶対に子供が読んではいけない」と言っていたが、夏休みの読書感想文の宿題のリストに載っていた。

国語の授業は、いかに小説に興味を持たせるか、その一点だと思う。「小説なんか読むなよ、頭がおかしくなるぞ、特に芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)なんか、あんなもの読むと死にたくなる。『歯車』なんか最低だ」と教師が言えば、多くの子供がこっそりと読むぞ。

ロリコンの共産主義者が教科書に

国語だけに限らず、学校で教えるものは子供にとってつまらないものになる、ということを教育者はもっと知るべきだ。近ごろの世界史の教科書にビートルズやチャップリンが登場するらしい。やめていただきたい。ビートルズは不良の音楽。不良から産まれたから価値がある。チャップリンはロリコンの共産主義者の傲慢(ごうまん)な男。こんな変な人が愛を語るから楽しい。文明社会や戦争を批判するから説得力がある。そして動くと誰より面白いから凄(すご)いのだ。

そのうち落語も教科書に載るのかなあ。

立川談志は「落語は人間の業(ごう)の肯定だ」と説いた偉人だ、なんて教科書に書かれたら落語もおしまいです。人間の業の肯定とは、人間は弱いもの、眠くなったら寝ちまう、勉強なんか面倒くさいからやらない云々(うんぬん)。それが良い悪いではなく、人間とはそういうもんだというのを認めてしまう。それが落語の本質なのだ。学校じゃ教えられないわね。誰も勉強しなくなっちゃう。

(次回更新予定:2月1日)

2014年1月3日更新

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