ミャンマーへの道

第12回 アジアやアフリカから学ぼうとしないのはなぜか
日本人による外国人差別(4)

「正当な英語」をしゃべる外国人だったなら

さる8月14日に興味深いニュースに接した。茨城県警牛久(うしく)警察署の警察官による職務質問で、片言の日本語しかしゃべれないフィリピン出身の男性がパスポートを所持していなかったので、入管法違反の疑いで逮捕したところ、実は日本国籍を有していることが判明し、7時間後に解放されたという事件である。牛久市といえば、オーバーステイ等の不法残留をしている外国人を収容する施設である「東日本入国管理センター」が所在する地なので、警察官も外国人に対しては過剰な反応をする傾向があるのかもしれない。

もしこれが、片言の日本語しかしゃべれない(日本人のあこがれの的である正統な英語をしゃべる)アメリカ人であったなら、警察官は逮捕までしただろうか。

日本人による外国人差別が、とりわけ非欧米人であるアジアやアフリカの人々を対象とする傾向が生じる要因として、前回は明治時代以降の欧米諸国に対する崇拝と憧憬(しょうけい)の歴史を挙げた。今回は、日本人のこの心情が日本人特有の多数派になびきやすい傾向と相俟(あいま)って、非欧米人に対する差別意識を増幅させているのではないかという仮説について考えてみたい。

  

崇拝と蔑視

私たち日本人が無意識についつい陥りがちな思考傾向が、自分の頭で吟味せずに周囲の多数意見や世間の常識に従ってしまうという点である。これが、世界中の民族のうち日本人に最も顕著に見られる傾向かどうかは分らない。しかし、少なくとも日本人の傾向としては、多くの人が首肯(しゅこう)するところではないだろうか。

このような傾向が生じる原因は、日本人の行動指針が「周囲の眼」を拠(よ)りどころにしていることにあると思う。

日本人は、周囲の人々から奇異な眼で見られることを極度に恐れ嫌うので、何かの行動を起こすに当たっては、「周囲の眼」の方向性を探って察知し、これに即した行動様式をとるよう自らを制御する。行動に先立ちこれを司るのは思考であるから、我々は知らず知らずに「周囲の眼」に沿うような思考、つまり周囲の多数意見や世間の常識に従うような思考方法を身につけてしまうのだ。いわば、周囲の人々に飼い馴(な)らされてしまっているのである。批判的に書いているけれども、私も知らないうちにそのような思考に陥っていることが時々ある。

欧米諸国を優れたものとして崇拝し憧憬する傾向は、周囲の多数意見や世間の常識にほかならないから、私たち個々人もこの思考傾向に追随する。そして、崇拝や憧憬に対する反対概念として、欧米諸国よりも、「重要性」が低い、「劣位」に属する、学ぶ必要がない、といった蔑(さげす)みの眼差しを、アジアやアフリカの国々に対して向けるようになる。そもそも、アジアやアフリカは劣位にあるといった概念そのものが、周囲の多数意見や世間の常識の範疇(はんちゅう)にあるといってもよい。

  

資料の主流は経済開発と企業進出

日本人がアジアやアフリカ出身の人々に対していだく差別感は、このような途(みち)を辿(たど)って発生しているのではないだろうか。アジアやアフリカの国々や人々にも、日本人が学ぶべき点は多くある。しかし、世間の常識は欧米崇拝で、大多数の日本人の関心の的はもっぱら欧米諸国にあるから、多数派迎合族の日本人はアジア人、アフリカ人を蔑視(べっし)こそすれ、謙虚に学ぼうとする思考をなかなかとらないのだ。

ヤンゴンのインド系住民が多く住むエリアで
ヤンゴンの朝の屋台。インド系住民が多く住むエリアで

  

たとえば、私は訴訟業務上ミャンマー情勢について調査する必要が生じた場合、書店や図書館を訪れ、またはインターネットを検索し、政治、歴史、宗教、経済、社会、文化というように複数分野を横断的に把握するように努めている。そのような経験を通じて感じるのは、世に流通しているアジアやアフリカに関する出版物や記事のメインテーマは経済開発や企業進出についてのもので、民族文化や哲学を大いに参考にし、勉強すべきだというものは主流ではないということだ。

*  *

次稿以降も、日本人による外国人差別がどのようにして生まれるかについて検討を続けたい。次稿では、考察のための一材料として、日本人によるアジア人・アフリカ人差別を象徴しているような事件を取り上げる。

2014年9月1日更新 (次回更新予定 : 2014年9月25日)

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