言論のアリーナ

第2回 『NOヘイト!』フェア顛末記

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

順風とクレーム

船出は、順調だった。

2014年12月末から始めた、ブックフェア「店長本気の一押し!『NOヘイト!』」が大きな反響を得ていることを、出版社ころからの代表・木瀬貴吉(第1回参照)が知らせてくれた。

「フェアの反響はすごいです。ツイッターでは700以上もリツイートされ、フェイスブックは2500人以上に閲覧されています。いずれも破格の数字で、注目されていることを改めて感じました」

その数字がどれくらい「破格」なのか、当時SNSに接することのなかったぼくにはわからなかった。だが、告げられた数字は、ブックフェアがまずは順風に乗ったことを示唆していた。その数字が示唆するもう一つの意味を、ぼくはかすかに気づいていたかもしれない。あるいは、今そう思うのは、その後に起こった出来事が教えたことによる、後知恵かもしれない。いずれにせよ、さほどの時間を用せず、反響の一部が「彼ら彼女ら」からのものであったことが明らかになる。波が、少し高くなった。

律儀にお正月休み明けを待っていたかのように、クレームの電話が難波店に3件、他支店や営業本部にも数件かかかってきた。最初は静かに語りかけてくる人、端(はな)から喧嘩腰の人とさまざまだったが、共通するのは、「あなたは、ある主張を持った本を『ヘイト本』と名付けて排除しようとしている。それこそ、差別ではないのか?」という批判だった。

それに対してぼくは、「確かに私は、いわゆる『ヘイト本』に如実な差別意識を感じている。しかし、そのことを表明しはするが、本を排除はしない。当店に来ていただければわかる。むしろ、あなた方が評価するであろう本のほうがたくさん、棚には並んでいる。今回の小さなブックフェアにも、『大嫌韓時代』を含めている」。すると、攻撃の矛先が少し変わって、たいてい次の言葉が来る。

「あなたは、韓国や中国が、日本を侵略しようとしていることを知らないのか?」

ぼくは、「そのようなことは知らないし、想像できない。その危険があるというなら、むしろ余計に、近隣国に敵意を見せるのではなく、同意を形成し、共感を育んだ方がよいと考える」と答えた。

さらに、繰り返し言われたのは、「書店の人間が自分の思想を客に押し付けていいと思っているのか?」という台詞だ。ぼくは即座に「ぼくは、いいと思っています」と答えた。

社会や上司の譴責(けんせき)を気にして言葉が淀めば、相手につけ入るすきを与える。だが立場と意見を明確にすれば、堀を埋めるのは容易な作業ではない。三十余年の書店員生活で、ぼくにはそのことが身にしみてわかっていた。

「店長本気の一押し!『NOヘイト!』」、2014年12月26日、ジュンク堂書店難波店(写真提供:ころから)

案の定、クレーマーたちは、自らの主張を一方的に述べたあと、「お前には、いくら言うてもしゃあないな」と電話を切った。

何回か相手を務めているうちに、クレームをつけてくる人に対応することが、ぼくは徐々に嫌ではなくなってきた。彼ら彼女らは、ともかくもぼくのフェアに最初に反応してくれた人たちであり、また、彼らと話すときには、自分の考え、立場をはっきりと述べることができたからである。

テレビカメラも入った。1月16日(金)、朝日放送報道局ニュース情報センターが、「店長、本気の一押し!『NOヘイト!』」フェアと店内の嫌韓嫌中本が所狭しと並ぶ書棚を撮影、ぼくへのインタビューを収録していった。どこまで反響があるのかな……、期待と心ならずも不安が混じったぼくの表情に気づいた記者は、こう言った。

「テレビでオンエアされただけなら、大丈夫だと思います。〈彼ら〉はテレビはあまり見ないですから。ユーチューブに流れたら、大きな反響があるかもしれませんが」

『ネットと愛国』(講談社)で安田浩一が示唆しているとおり、彼ら彼女らにとっては、ネットの情報が全てなのだ。

「正義」―「無辜(むこ)」―「悪」

フェアに『大嫌韓時代』(青林堂)を置いたことへの「左」からの批判もあった。

「あなたの文章も読んでいるし、あなたがどういう考えでこのフェアをやっているか、自分はよくわかっているし、大いに共感する。ただ、そのフェアの中に、なぜ『大嫌韓時代』が入っているのかが、理解できない」

それに対してぼくは、「ぼくには、意見を全く異にする書き手の本も排除することはできない、まして、このフェアは〈ヘイトスピーチ〉や〈ヘイト本〉を批判するフェアだ。こちらがそれらの本を排除するのは、結局相手と同じ型となってしまう。それは、したくなかった」と意図を説明した。

「だが、こうした本を売ることによって、間違った歴史観を持ってしまう読者が出てきたら、どう責任を取るつもりか?」

「左」の人たちに多いそうした物言いが、ぼくをかたくなにしている部分がある。彼らが、「物事がわかっている自分たちは大丈夫だが、そうした本はちゃんと理解していない人たちを誤らせるかもしれない」と言うときに帯びる上から目線、選民意識がどうにも嫌なのである。「いや、あなたが特別によくわかっているわけではない。一方、あなたがたよりも「わかっていない人たち」が多く存在するわけではない」、そう言いたくなってしまうのである。

「嫌韓嫌中派」も、「反ヘイト派」も、自分たちが「正義」で、対極に「悪」がいて、その中間に誤った情報から守ってあげなければならない罪もなき一般大衆がいるという、「正義」―「無辜(むこ)」―「悪」といった三項図式を取る点では共通している。「正義」と「悪」の担い手が入れ替わっているだけだ。双方どちらにも加担しないとすれば、「正義」―「無辜」―「正義」となる。世の中をこんなに単純に図式化することができないことは、書店の店頭にいればよくわかる。そして、こうした図式の単純化こそが、多くの対立と悲劇を生み出しているということが。

「正義」ほど始末に悪いものはないと、ぼくは思う。

2015年新年早々のいくつかのクレームをくぐり抜けると、その後は穏やかな海路。NHKの放映は1月末の、ちょうど棚卸・徹夜作業の日。徹夜明けで帰路に着いた途端どこからか銃弾か矢が飛んでくるかと妄想したが、それもなし。

『NOヘイト!』フェアは、予想以上の反響とぼく自身の思い入れによって、通常よりは長かったものの、2月の終わりに、ブックフェア「店長本気の一押し!『NOヘイト!』」は終了した。

皮肉な話

同年5月のある日、「今でも、時々『Noヘイト!』フェアがネットの話題になっている」という噂を聞いた。

ネットの情報は、いつまでも残る。一度アップされた情報、写真などはいつまでも検索に引っかかって利用者の眼前に現れる。それは時にありがたく、時に迷惑だ。いまだに2か月以上前に終わったブックフェアのことを話題にしてくれるのはありがたく、そうした話題に触れて関心を持ち来店してくださった人たちを失望させるわけにはいかない、「もう一度コーナーをつくろう」と思い立った。

おりしも直前に刊行された『NOヘイト!』の第二弾、『さらば、ヘイト本!』(ころから)や、この年(2015年)に起こった「イスラム国」による湯川遥菜さん、後藤健二さん殺害、シャルリー・エブド(フランスの風刺新聞)襲撃事件も念頭に起き、「イスラム・ヘイト」に関する本もラインナップに加えた。世界中のあらゆる「ヘイト」に「No!」を言うコーナーにと、テーマを拡充していったのだ。

7月8日、朝日新聞が、夕刊の一面で大きく取り上げてくれた。地域限定とはいえ、一面である。多くの人から、激励の言葉をいただいた。だが、「反ヘイト」フェアに批判的な人たちからは、なんの反応もなかった。

7月22日の午後、朝日の記事を見たと言って、東亜日報東京支局から電話取材があった。ぼくは慎重に言葉を選びながら、できるだけ丁寧に説明した。記者の日本語は上手だったが、母語ではない。また、マスコミの取材は、たいてい用意したシナリオに誘導しようとする。ぼくは、ぼくの思いを正確に伝えてほしく、決して利用されたくはなかった。ネット配信後に確認したが、小さな誤解と拡大解釈はあったが、おおむね話した通りのことが記事にされていた。

「彼ら彼女ら」の反応は、早かった。翌日、さっそく電話があった。

「東亜日報の記事を見たか? あなたは本当に、彼らの取材に答えて、あんなことを言ったのか?」

その翌日、別の人からかかってきた電話では、ぼくが勤める書店がソウルの教保文庫の40パーセントの大きさであるという部分を指摘され、「あいつらはそんなふうに自分たちのことを自慢したいのだ。そんなことに利用されるのだから、余計な取材に答えたりするな!」と叱責された。

「そこ……?」と思った。完全にピントがずれている。

翌々日には、また別の人から、穏やかな口調で、自分もかつては韓国に期待していたが、今の韓国はもう信用できない、取材への応答は慎むように、と言われた。

他支店や本部あての電話、メールによるクレームもいくつかあったが、ぼくに直接釈明を求めるものはなく、「炎上」というほどのこともなかった。2ちゃんねる等、ネット上ではもっときつい言葉もあったと聞くが、ぼくにはそうしたものを見る習慣はないので、まったく平気だった。

むしろ驚いたのは、東亜日報への反応の早さである。朝日の一面をスルーした彼らは、日本の新聞は見ないのだが、(憎むべき)韓国の新聞記事は熱心に読んでいるのである。考えてみれば、皮肉な話であった。

排除しない理由

7月29日、東京・本郷の出版労連会議室で、シンポジウム「『ヘイト本』と表現の自由」が開催された。

最初の登壇者は、『NOヘイト!』の元となった「『嫌中嫌韓』本とヘイトスピーチ」という学習会を開催した「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会(BLAR)」の中心メンバーである大月書店の岩下結。彼は、ヘイトスピーチ解消法の成立を評価する一方、出版業界の反応の鈍さを批判した。

「言論の自由」という理念が「ヘイト本」撲滅の障壁となっているが、被差別者の「言論の自由」を暴力的な言葉や行動で予め破壊している「ヘイトスピーチ」「ヘイト本」に、「言論の自由」を主張する資格はない、と断じる。

二番目の発言者であるぼくは、『NOヘイト!』フェア以降の経過を話しながら、書店人として、「排除の原理」を持つ「ヘイト本」を書棚から相手と同じように「排除」するのではなく、「ヘイト本」の存在を明らかにしながら、「ヘイト本」と同じ志向を持つ様々な書物も含めて、批判・反論していくべき、という持論を述べた。

次に、小学館編集部の川辺一雄が、いわゆる「ヘイト本」にいかに事実の誤認があるかを具体的に示し、編集の杜撰(ずさん)さを指摘し、編集者としては、よりグレードの高い編集作業によってクオリティの高い本を仕上げて、そうした言説に対抗していきたい、と語った。

最後に弁護士の水口洋介が、「ヘイトスピーチ規制法」には、今のところ罰則規定はない。厳罰主義的な声もあるが、刑事罰については慎重になったほうがよい。法律は、元の意図とは正反対の方向で権力に利用されやすく、刑事罰を伴う法律制定には、慎重であるべきだと話し、法曹の現場に生きる人ならではの話は大変参考になり、自らが信じる「正義」だけで立ち向かっていっても、戦いは容易ではないことを再認識させてくれた。

4人とも、「ヘイトスピーチ」を許さず、「ヘイト本」の内容を認めないという点では一致している。相違は、現に存在している「ヘイト本」をどうするか、であった。

そうして、『NOヘイト!』フェアで船出した2015年、ぼくは、批判すべき「ヘイト本」を書店の店頭から見えなくするのではなく、書店店頭を本同士が戦う「言論のアリーナ」に見立て、自らも立場を旗幟鮮明(きしせんめい)にするという方向性を固めていったのである。

目を背けずに

実は一度だけ、ぼくの信念が揺らいだことがある。

ある在日三世の青年が、「自分が日本人にどう見られているのか知りたくて、書店でこういう本を見かけると、買って読まずにはいられないのです」と、ヘイト本を次々に買って読んでいるという話を伝え聞いたときである。

正直ぼくは、少し怯(ひる)んだ。

そのような人たちのために、「ヘイト本」をこの世から絶滅させる必要があるのではないか? そういう本が書店に並んでいることそのものが、彼ら彼女らに大きな苦痛を与えているのだから。ぼくの考えは、やはり書店の人間の言い訳に過ぎないのではないか、「『ヘイト本』は速やかに放逐すべし」とする岩下や安田の主張が正しいのではないか?

だが、ぼくはすぐに思い直した。くだんの在日三世の青年は、「ヘイト本」から目を背けるのではなく、勇気をもって真正面から立ち向かっている。ならば、われわれも、偏見に満ちた差別感情を持った人が少なからず存在するということを隠すのではなく、そのことを明らかにし、しっかりと受け止め、批判し、議論していくべきなのだ、と。

「知りたい」、この気持ちこそ、重要な入り口なのである。

2021年2月25日更新 (次回更新予定 : 2021年3月25日)

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