言論のアリーナ

第4回 歴史修正主義とベストセラー

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

発端となった「つくる会」

日本の歴史修正主義が、具体的な形をとって姿を現すのは、(歴史教科書の記述を自虐史観ではないものに改める)新しい歴史教科書をつくる会を活動目標とした「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)が、初代会長西尾幹二・副会長藤岡信勝で、1997年に設立されたときであったと言っていいだろう。

藤岡は、「後の冷戦時代の東京裁判史観とコミンテルン史観から脱却し、イデオロギー色のない新しい歴史観をつくる」と宣言している。

「つくる会」は、2年後の1999年の10月、西尾幹二著『国民の歴史』(産経新聞出版)を刊行、2000年4月には『新しい歴史教科書』『新しい公民教科』(ともに扶桑社)を文部省に検定申請した。

あわせて236箇所の検定意見がつけられるも、2点の教科書は、翌2001年4月に、修正の上、検定に合格、韓国や中国から激しい抗議を受けた。

理事や事務局長など、構成メンバーは目まぐるしく入れ替わるが、「つくる会」は精力的に活動を進め、教科書も採択されはじめた。書店で一般読者に販売する市販版『新しい歴史教科書』、『新しい公民教科』は、『国民の歴史』とともに、各70万部以上のベストセラーとなる。

のちに「つくる会」は、同じ年に立ち上がった日本会議とともに、在特会など「行動する保守」の後ろ盾となった。

「世紀末」と「本離れ」、そこに「戦記」

「1999年、7の月に世界は滅びる」というノストラダムスの予言がまだ大きな影響力を持っていて、五島勉氏の一連の「ノストラダムス」本が、刊行時の勢いを取り戻して売れていた。2年前には、未曾有の震災が阪神淡路を襲い、首都東京ではオウム真理教による未曾有の無差別殺人=「地下鉄サリン事件」が起きた。多くの人たちが、「世紀末」を感じていた。

出版・書店業界も、決定的な「世紀末」を迎えていた。日本の出版物の総売上は1996年にピークを迎え、1997年以降はずっと落ち続けていく。

ターニングポイントが1996年だったことを忘れないのは、「Windows95」というソフトウェアの名のおかげだ。1995年に発売されたこのソフトは、インターネットへの接続を劇的に容易にし、ネット利用者を急増させた。さまざまな情報を素早く、容易に、そして無料で入手できるインターネットは、出版物の役割を代替し、人々の「本離れ」を促進した。

時期的な符合から、排外主義的な「保守」勢力の増加とインターネットの普及には、強い相関関係を指摘されることが多い。「ネット右翼」という呼び名が、まさにそのことを表している。実際、「在特会」の人々の多くは、「ネットで知った真実」が自らを立ち上がらせたという。

無限の情報の海であるインターネットでは、その情報量の莫大さゆえに、かえって狭い世界しか見えないことが多い。情報検索の容易さが、検索者の志向を検索行為とその結果に強く反映させてしまうためだ。

2010年に『電子書籍の衝撃』(ディスカバー21)を書いた佐々木俊尚は、翌年『キュレーションの時代』(筑摩書房)で、インターネットに形成される「ビオトープ」について書いている。

「ビオトープ」とは生物生息空間のことで、デジタル推進派の佐々木は、たとえばギター同好者が互いに出会いやすい場としての「ビオトープ」を賞用する。

確かに、趣味の同好者の出会いや交流において、インターネットには抜群の利便性がある。だが、「ビオトープ」に安住するのは、多様に広がり、出会えたかもしれない世界の一部にとどまり続けるということであり、同じ志向の人たちとしか出会えず、行動の選択肢は狭まる。

同じ志向・思想の人たちとだけ交わっていれば、その志向・思想は検証や反省の機会を得ることなく、とどまるところなく亢進(こうしん)していくだろう。行きつくところが、聞くに堪えないヘイトスピーチであり、開くのもおぞましいヘイト本であったとしても……。

だが、歴史修正主義誕生の揺藍(ようらん)は、同時期に普及し始めたインターネットではありえない。「ネット右翼」を調査・研究してきた社会学者の倉橋耕平も、『ネットと愛国』(講談社)の著者安田浩一との対談本『歪む社会』(論創社)で次のように指摘している。

「調査によると、ネット右翼であったり、オンライン排外主義の人というのは、40代から50代に多いという数字が出ています。30代より下の若者は、ほとんど統計に出てきません」(『歪む社会』p17)

「いまの40代や50代のネット右翼は、雑誌や本から情報をえている……。それ以外はネット。受動的に情報を得られるテレビや新聞はほとんど見ないし読まない。自分から積極的に情報を取りに行っています。本は書店に行って、自分で選んで買っている。そういう人たちは、小林の本やムックが流行した時代に若者時代を過ごしていました。
このように、最初は細々と展開していた保守言説が、雑誌の創刊や小林の活躍などによって少しずつ大衆に可視化していった。つづいてネットメディアが登場し、保守言説は世間に広がっていったのだと思います」(同p40)

小林とは、小林よしのりのこと。

1998年に刊行された『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(幻冬舎)はベストセラーとなり、大きな影響力を持った。

倉橋は、他に、檜山良昭『日本本土決戦』(光文社)や、荒巻義雄『紺碧の艦隊』シリーズ、『旭日の艦隊』シリーズ(ともに中央公論社)などに代表される架空の戦記がもっとも盛り上がったのは1980年~90年代だと指摘している。

架空の戦記は決して歴史事実に裏打ちされたものではなく、読者もそのことを承知の上で楽しんでいるはずだが、エンターテイメントであり、量産されれば錯覚と誤認を生みやすくなる。

「日本は悪くなかった」という潜在意識を生み出し、育む。それはやがて排外意識、外国や外国人へのヘイト感情へと進んでいく。

「コストパフォーマンスがよい」

雑誌と書籍の中間形態であるムックは、雑誌的な情報の不確かさを担いながら、長く書店店頭に置かれることによって読者との接触機会を増やし、不確かな情報の影響力を増大させた。

また、「一冊でわかる」をタイトルに含ませたムックも多く、労苦なく学問や情勢を知ることができるメディアとして、多くの読者に受け入れられた。

倉橋は言う。

「90年代は知識を安直に手に入れるためのツールが大量に提供され、それで得た薄っぺらい知識とサブカルチャーが融合し、歴史修正主義的な言説が主流のものとは一線を画していて、かつ斜に構えてものを見る雰囲気がかっこいいという風潮が醸し出された」(同p161)

つまり、出版業界は(そしてその産物の普及を担う書店業界も)、今日の排外主義や外国人ヘイトの責をインターネットの普及(と自分たちの業界の漸進的かつ不可逆的な凋落〈ちょうらく〉)に押し付けることは、決してできないのである。むしろ、初期においては、主犯と名指されてもおかしくない。

さらに時代とともにインターネットが普及し、空気のような存在となっていくのに並行し、出版・書店業界も、それに抗うどころか追随していったと言える。生産され販売される商品の一部は、かつて自分たちが生み出した「怪物」の下僕と化していった。安田浩一がある編集者に歴史修正主義的な本、嫌韓本、反中本を出す理由を質(ただ)したところ、「コストパフォーマンスがよい」(同、p209)という答えだった。

「1960年代に伝説的漫画雑誌『月刊ガロ』を創刊し、自民党保守政権の日米安保条約更新に激しく反発した全共闘世代に強い支持を受けた青林堂は、長い不遇の時代を経て2010年頃から右傾書籍・雑誌やスピリチュアル本に経営の活路を見出しました。現社長の蟹江幹彦氏は、2015年1月の東京新聞のインタビューで『(路線変更は)経営上の問題』と説明しています」(『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)第一章「歴史」はどう狙われたのか? p53)

1997年から売上が右肩下がりとなり、デジタル・IT機器の進化を横目で見ながら、V字回復などまず期待できない状況下、徐々に体力を落としてきた出版社としては、コストパフォーマンスの重視や経営路線の見直しは、当然のことかもしれない。

しかし、そのことがよろしくない思想の醸成と社会関係の悪化をもたらしたとすれば、故西谷能雄社長(未来社)が「志の業」と呼んだ出版業はどこへ行ってしまったのかと思う。

そうした出版社が量産する、右傾化した書物群は、もちろん「売れるから」「需要があるから」つくられたのであるが、同時にそうした需要を煽(あお)り増大しつつ、自らの首を締めている。粗製乱造は明らかに品質の低下をもたらし、中身はますますインターネット上の無責任な言説に似てくるからである。

冷笑と放任

業界全体の売上が右肩下がりになったからといって、出版社の多くが右傾化したわけではもちろんない。書き手や編集者の志向が突然180度変わったわけでもない。

むしろ、企業存続のために売上や利益に引きずられないわけにはいかない旧来の出版社から独立し、1人もしくは少人数の小さな出版社が、21世紀に入って次々と生まれるようになる。そうした志ある出版人やブレない書き手たちは、出版物やそれに携わるものの右傾化傾向をどう見ていたのか?

1990年代に「週刊宝石」(光文社)編集部にいた安田浩一の述懐から、その頃の全体的な雰囲気を読み取ることができる。

「マルコポーロ事件(95年)の当時は、歴史修正主義などたいした勢力にならないだろうというシニカルな思いが僕にはあった。そして、メディアの規模が大きいほど、歴史修正主義者をなめてかかっていたと思う。 マルコポーロ事件の翌年に[『つくる会』が設立されますが、当時の僕らはそれを笑ってみていました。『どうせ、トンデモな教科書をつくるんだろう』と言いながら」(同p126~127)

ナチスがユダヤ人を大量虐殺した「ガス室」などなかったというとんでもない主張が『マルコポーロ』を廃刊に追い込んだ事件も、大きな危機感を呼ぶことはなかった。世代の意識が、戦争の記憶の風化とともに少しずつ変化していくことの危険は、まだ十分に理解されていなかった。

「元左翼の幹部連中が一斉に退職し、僕らの世代がデスクとキャップになり、小林よしのりを評価する記者たちが取材の現場を歩く。そして、幹部連中に嫌な思いをさせられた僕らの世代の編集者が、自分の部下にはそういう思いをさせまいと、部下に対して放任になる。結果として、小林よしのりを評価し、僕らに放任された人たちが、いまの大出版社で幹部になっているんですね。だからこそ、思慮もなくヘイト本が刊行されるなど、大出版社が保守的、というかネット右翼的な本を出すことについては、少なくともその回路だけは理解できます」(同p115)

歴史修正主義の言説を「笑ってみていた」安田らは、発言や行動に違和感を覚える部下たちを「放任」していた。

自閉的な唯我独尊主義に守られて

同じ姿勢を、歴史学の分野で指弾するのが、『教養としての歴史問題』(東洋経済新報社)である。

「歴史学がこつこつと積み重ねてきた研究成果や、歴史の授業で教えられてきた知識を執拗に罵倒(ばとう)する歴史修正主義を今日蔓延(はびこ)らせ、一般の人たちにも大きな影響を与えている事の責任は歴史学界にもある」と編著者の前川一郎は言う。

「歴史修正主義の言動に対する学者や専門家たちの反応は、決して鈍かったわけではなく、学術的見地から詳細なファクトチェックも行われてきた。しかし、それらはともすれば学術誌や専門書に書き連ねるだけの内弁慶的なモノローグにとどまり、歴史修正主義が現実に巣食う大衆文化にはまるで突き刺さらなかった。
歴史学の専門家にしか通じない議論を内輪で繰り返しているだけでは、学知と社会のあいだには、いつの間にか深い溝を生み出すだけで、今日の問題には向き合えない」と前川は総括・批判する。

実は、歴史学界がまともに議論をぶつけ合おうとしないのは、歴史修正主義に対してだけではない。歴史学内部においても、新説・異論には耳を傾けない傾向があるという。

そのあたりの消息に関して、ベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著者、呉座勇一が、「第四章『自虐史観』と対峙する」で、「網野史学」に対する歴史学界主流派の姿勢を取り上げている。

「網野(善彦)さんは天皇制反対論者なのですが、天皇制を解体するには、『敵』である天皇制の本質を知る必要があります。特に、『日本史上、天皇は政治的権力をたびたび失っているにも関わらず、長く現在まで天皇制が存続しているのはなぜか?』という問いは日本史研究における最大の問題であります。周知のように網野さんは『無縁』の思想や非農業民が天皇と深く結びついていたことにその理由を求めましたが、これは『天皇はすごい』という議論に受け取られかねない。『天皇の権威は太古から現代に至るまで民衆の意識深く根を下ろしている』と言えば言うほど天皇制擁護論と批判されてしまう」

こういう条件反射的な反応を、「教条主義」というのではないか。

呉座は言う。

「『相手の土俵に上がらない』と言えば聞こえはいいですが、それはアカデミズムの内側に閉じこもるということと同義です。そして『相手の土俵に上がらない』という戦略が有効でないことは、現状が証明しています」

世紀末にその姿を現した歴史修正主義は、周囲の冷笑や無視、放任、アカデミズムの自閉的唯我独尊主義に守られて育ち、版図を広げてきたのである。

2021年4月22日更新 (次回更新予定 : 2021年5月25日)

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