言論のアリーナ

第5回 討議と敵対

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

敵対する「かれら」あっての「私たち」

「『ネット右翼』に『非合理』のレッテルを貼り、対話から排除するようなリベラルの態度は、ヘゲモニー戦略の上では得策ではない」

『世界』2020年1月号に掲載された山本圭の「批判なき時代の民主主義――なぜアンタゴニズムが問題なのか」の一文を読んだとき、ぼくは思わず、「そう、そう。そういうことなんだ……」と、小さく叫んでいた。

この論文が(ささやかに)告知していたのが、山本が翌2月に上梓(じょうし)する『アンタゴニズムス』(共和国)である。

この本で山本は「相手を正統な対抗者とみなしたうえで批判を戦わせるアゴニズム(討議)」と「異論や反対、議論を受け付けず、ただにらみ合うだけで、議論によって自らの主張を変化させる、あるいは鍛えあげることはないアンタゴニズムス(敵対)」をはっきりと対置し、今日アゴニズムがどんどん困難になっていき、アンタゴニズムスが勢いを増している趨勢(すうせい)を指摘し、そうした情勢にあらがって、いかにして対立(アンタゴニズムス)を討議(アゴニズム)へと収れんさせることができるか、を追求している。

現代政治理論、政治思想史を専門とする山本は、エルネスト・ラクラウ(政治理論家)とシャンタル・ムフ(政治学者)の「眼前の敵対的な諸要求に鼻をつまんでそれらを迂回(うかい)するのではなく、むしろそれらに正面から向き合い、民主主義を深化するための一個の好機とする政治戦略」(『アンタゴニズムス』p17)を、画期的なものと評価する。

ムフは、言う。

「重要なことは抗争が生じたとして、それが『敵対性アンタゴニズム』(敵同士の闘争)ではなく、『闘技アゴニズム』(対抗者同士の闘争)という形式をとることである」(『左派ポピュリズムのために』明石書店、p120)

「じつのところ、根本的な問題は、いかにして排除なしにコンセンサスに到達できるかということではない。というのも、これは、『私たち』の構築を求めるにもかかわらず、それに付随して生じる『彼ら』の存在を視野に入れていないからだ。これが不可能であるのは、『私たち』の構成条件が『彼ら』との区別であるほかないからである」(同p120)

ムフのテーゼに、山本も次のように応える。

「私たちのアイデンティティは敵対する相手によって阻害されているのだが、そのアイデンティティはそうした外部なしには成立しないということだ」(『アンタゴニズムス』p14)

「私たち」は、敵対する「彼ら」あっての「私たち」なのだ。

討議は困難か

こうした見方は、ハンス=ケルゼン(法哲学者)が挙げた、次のような原則に通底すると言える。

「多数決原理は、まさにこの階級支配を阻止するためにこそ適している。そのことは、この原理が経験上少数者保護と親和的であることにすでに示されている。なぜなら、多数派ということは概念上少数派の存在を前提としており、それゆえ多数派の権利は少数派の存在権を前提としているからである」(『民主主義の本質と価値』岩波文庫、p73)

彼らにとって民主主義とは、敵対する政治姿勢、言説に対しても、それらを拒否するのではなく、討議=闘技の場に持ち込んで対峙するシステムなのである。

だが、敵対する言説を討議=闘技の場に持ち込み、対話を通じて相手を説得するのは容易なことではなく、多くの場合困難である。21世紀に入って、ネオコン、ネオリベ、排外主義者、民族主義者の勢いが増し、左派を追い込んでいった状況を考えると、そんなことは不可能と思われるかもしれない。

ムフその人が、かような状況にあって、多様な意見の存在を認め、あくまで議論によってその差を埋めていく「アゴニズム」よりも、「左派」が政治的優位を獲得するために、いかに大衆動員を可能にするかを追求することにシフトしているようにも感じられる。

『左派ポピュリズムのために』という書名が端的にそのことを表しているようでもあるし、強大な敵に対峙するために、ジェレミー・コービン(英国の政治家)、バーニー・サンダース(米国の政治家)らの固有名に期待を寄せているようにも見える。

固有名に期待を寄せるというのは、その人に多数の意見を代表させることだ。代表させることによって、元の多様性は犠牲になる。が、ムフは、そのことを忌避してはいないのである。

「多元主義的な民主社会は、多元主義を調和させるような反―政治的な形式によっては構想できず、絶え間ない敵対性の可能性を承認する。そして、そのような社会は、代表なしには存在しえないのだ」(『左派ポピュリズムのために』p80)

「現行の代表制度のおもな問題は、それが異なる社会的プロジェクトのあいだの闘技的な対立を認めないことである。この闘技的な対立こそ、活力あるデモクラシーの条件そのものなのだ。市民から声を奪っているのは、代表という事実ではなく、闘技的な対立の欠如にほかならない」(同p80)

多様な意見が存在しても、それらが「闘技場」に上がれないと、闘技=討議は始まらない。闘技を始めるためには、闘技場に上がる選手がいなくてはならない、というわけだ。今日においては、ネオコン、ネオリベ、排外主義者、民族主義者と闘う選手が存在しなくてはならない。

差し当たり、コービンやサンダースという個人名、ポデモス(スペインの左派ポピュリズム政党)やシリザ(ギリシャの「急進左派連合」の略称)などの政党名が、その選手たちであるのだろうか?

書店はバトルロイヤル

山本も、そうした状況判断は共有している。

「本書のテーゼのひとつは、現代民主主義の差し迫った問題は熟議でも闘技でもなく、それよりはるか手前の敵対性(アンタゴニズム)である、というものだ。私たちの現実は、一般にアゴニズムの理論家が唱える楽観とは逆向きの方向に進んでいる」(『アンタゴニズムス』p12)

だが、こうした現状分析のすぐあとに、山本は反転して、再び「アゴニズム」に向かう。

「アゴニズムを、ラディカルな敵対性への感度を担保すると同時に最小限の制度化を受け入れる、ポスト基礎づけ主義の民主主義論として再定式化する。これにより、しばしば中途半端なものとしてみなされたアゴニズムの理論に適切な居場所を開いてやることができるかもしれない。これこそが私たちの最後の挑戦」(同p22)

一見「アゴニズム」と同じ方向性を持つように思われる「熟議民主主義」も、自らの「正義」を前提として、「熟議」できる集団と、そうでない集団を線引きして、相手の主張に耳を閉ざす「アンタゴニズムス」に陥りやすい。

「ハーバーマス(ドイツの哲学者)は、『右派ポピュリストの議論に打ち勝つには、彼らの介入を無視するしかない』と、およそ熟議的でない回答をしている」(同p221)

ここに、「熟議民主主義」の限界がある。自らの主張と相いれない主張に対して、「熟議民主主義」は議論ではなく排除を選んでしまう。

それに対して、「アゴニズム」は、いかに自身の主張と相反する主張であっても、討議=闘技の対手として認める、むしろ積極的に討議=闘技の場に迎え入れるのであるのである。

ぼくも、書店員という仕事柄、「アゴニズム」を徹底しようとする山本の陣営に立つ。なぜなら、書店現場は、1対1の決闘の場ではなく、ポリフォニックなバトルロイヤルのアリーナであるからだ。

そして何よりも「アゴニズム」の利点は、相手を討議=闘技のアゴーンに迎え入れることによって、相手に主張を翻意させる可能性である。相手の主張に耳を傾けようとはしない「アンタゴニズム」には、その可能性はない。

なぜ「慰安婦」「男女共同参画社会」なのか

おそらく、「アンタゴニズム」の陣営にいる「左派」の人たちには、「保守」が主張を翻意することなどが可能だとは、決して信じられないだろう。

それに対して、第20回大佛次郎論壇賞を獲得した『女性たちの保守運動』(人文書院)で、2000年代以降の「行動する保守」(街頭宣伝などでヘイトスピーチを繰り広げる。「在特会」なども、これに属する)に連なる女性たちの「保守運動」を調査・考察している鈴木彩加(社会学者)は、翻意の可能性を十分認めていると思われる。

「『行動する保守』の女性たちは、まずフェミニズム運動に敵対しようとする。そのことの意味はより詳細に考察する必要がある」(『女性たちの保守運動』p22)

と、彼女たちの言説を読み込み、実際の活動現場に随伴し、その意味を探ろうとする。

「行動する保守」の女性たちが、特に批判のターゲットにするのは、「慰安婦」問題と「男女共同参画社会」である。むしろ女性の立場に立つと思われるこれらに、なぜ彼女たちは「街頭で声を荒げて」反対するのか?

「行動する保守」の女性たちが「慰安婦」問題と「男女共同参画社会」を批判のターゲットにするのには、外的要因がある。それは、この二つの案件が、「いずれも男性活動家にとっては正面から批判しにくい」(同p302)ものであることだ。女性の社会進出を阻(はば)んだのはまさに男性本位の価値観であり、「慰安婦」への「加害者」も男性だからだ。そうした「行動する保守」の男性活動家の事情によって、女性たちは、この二つの問題において前面に押し出されたのである。

一方、彼女たち自身にも「慰安婦」に対して批判を浴びせる主体的動機はある。元「慰安婦」女性が経済的に恵まれていると考え、それを妬むという認識である。

「なぜ売春婦だった慰安婦女性だけが政府や組織からサポートされるのか」(同p262)

「その種の言論は、『売春婦』差別に基づいたものが多く、『恥』という言葉が多用される」(同p251)

一方、「行動する保守」の女性たちが「慰安婦」本人を直接の攻撃目標にしないケースもある。

「慰安婦を連れてきて恥をまき散らさせるのも、それこそ慰安婦の人権を無視して踏みにじっていることになると思います。私たちは女性として、そういう慰安婦の人権を無視する日本人、そして韓国の人たちを許しません。女性として許せないんです」(同p254)

「行動する保守」における男女差

ここでは、「慰安婦」問題をことあげする日本人、韓国人たちが批判のターゲットになり、「慰安婦」の人たちには、「人権」という言葉も使いながら、むしろ同情・共感していると言える。

一方、「『汚らわしい売春ババア』『ふしだらで、けしからん集会』と男性参加者によるこれらの言論は攻撃的であり、在日コリアンに向けられるヘイト・スピーチと酷似している」(同p251)

同じ「行動する保守」の活動家でも、批判の仕方には、明らかに男女差がある。

鈴木は、「行動する保守」系の団体「B会」でのフィールドワークで遭遇した、ある場面を報告している。

「Hさんが元慰安婦のハルモニの証言集会に行ったと発言した。すると、会長はすぐさま『ハルモニ? 慰安婦の? うそばっかだったでしょう?』と質問した。ところがHさんは『全部が嘘というよりかは基本は本当で、それを少し脚色した感じでした』と答えた。Hさんは当初、『慰安婦』に否定的な感情を持って集会に参加したようだが、証言を聞くうちに一部共感したような印象を受けた。他の参加者はHさんの話を黙って聞き、しばらく誰もしゃべらなかった」(同p287)

また、男性活動家は「慰安婦」をさかんにジョークのネタ、からかう対象にするが、女性はそれに乗っていかない、という。それは、「自分たち自身も性の客体になりうる存在であり、『高齢の女性』になるという事実を、彼女たちが認識しているため」(同p299)だと分析する。

さらに、もう一方の「妬みによる攻撃的な言論」にも、男女間の温度差はある。女性たちの妬みの根底にある論理は、「性産業に従事しているか否かにかかわらず、女性は性暴力被害に遭えば、社会からスティグマを押され、救済されることはほとんどないにもかかわらず、『なぜ売春婦だった慰安婦女性だけが政府や組織からサポートされるのか』」(同p262)というものだからである。

そうした観点に立つとき、女性が「男女共同参画社会」に反対する論拠も男性優位の思想ではなく、「私的領域で女性が担うケア労働に対する評価の低さに対する異議申し立てとして読み替えられないだろうか」と鈴木は仮説を立てる。そして、もしそうであるならば、「対立関係にあると考えられてきたフェミニズムの議論にも実は接続可能なものではないだろうか」(同p169)と。

だとすれば、反「男女共同参画社会」、反「慰安婦問題」についての「行動する保守」の議論が加熱すれば加熱するほど、男性活動家と女性活動家の問題意識の差が浮かび上がってきて、そこに亀裂をもたらす楔(くさび)を打ち込むこともできるのではないだろうか?

2021年5月20日更新 (次回更新予定 : 2021年6月25日)

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