言論のアリーナ

第6回 敵側の言説

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

勇気が求められる「対話」

前回、「行動する保守」の男性活動家と女性活動家に亀裂をもたらす楔(くさび)を打ち込むことができるのではないか? と書いたのは、「行動する保守」の勢いを削ぐためではない。もちろん、結果的にそうなることは歓迎しないわけではないが、それ以上に、ぼくは「行動する保守」の女性活動家との真摯(しんし)な対話の可能性を探りたかったのであり、鈴木彩香の調査と考察にその端緒を見出したのだ。

「行動する保守」の中心的なテーマである反「男女共同参画社会」、反「慰安婦問題」に関して、男性活動家と女性活動家では、問題意識の差が確かにあることを、鈴木はその果敢な「内偵」によってあぶり出した。

そして、その問題意識の差の根本には、明らかに男性による女性軽視、女性蔑視がある。「慰安婦」の存在そのものが、女性に自らと同等の人権を与えようとしない男の差別意識の結実である。

第4回 歴史修正主義とベストセラー」で参照した『歪む社会』(論創社)で、倉橋耕平も言っている。

「女性の権威主張や自立に対抗するものとして、歴史修正主義(=男性側)による批判とバックラッシュがある。「つくる会」はまさに「慰安婦」問題を起点に作られているので、完全にジェンダー問題(女性蔑視問題)と関わっていると言えます」(『歪む社会』p88)

「関わっている」だけではなく、歴史修正主義と女性差別は、その本質を同じくすると倉橋は言っている。

「『差別』というものには歴史性があります。(中略)にもかかわらず、『在日特権』のデマに見られる用意、ヘイトスピーチは歴史を無視しておこなわれている。女性差別なんてないという場合も同じです。つまり、昨今のヘイトスピーチは差別の歴史を否定した上に成りたっている差別だと言えます」(同p80)

歴史の捏造(ねつぞう)である。かつてあった事実の否定である。歴史の捏造は、かつてあった事実の否定は、現在の事実をも捻じ曲げる。

「行動する保守」の女性たちが「慰安婦」への保障に反対するのは、「慰安婦」たちが強制連行された性奴隷であったという事実を否定する言説があり、それを信じた彼女たちが、元「慰安婦」が過剰に経済保障されていると思い込んでいるからである。

その一方で、元「慰安婦」たちは何らかのイデオロギーに資するために騙(だま)されて担ぎ出され、恥を強要されていると信じるからである。

実際には、元「慰安婦」が過剰な経済保障を得ている事実はないし、彼女たちは、誰かのためではなく、何より自身の人間としての尊厳を取り戻すために、世間の蔑視と差別に負けぬ決意で名乗り出ているのである。

その事実を伝えることができれば、「行動する保守」の女性たちの何割かは、あるいはひょっとしたら大部分が、反対側の陣へと移動するのではないだろうか?

そのことに失敗してきた、すなわち彼女たちに「ヘイトスピーチ」を続けさせてきた原因は、彼女たちが依拠する「事実」を聞こうとはせず、「御しがたいネトウヨ」のレッテルを貼って批判することに終始したことではなかったか?

相手の主張をはなから偽、不正義と決めつけ、その内容を聞こうともせず、それゆえに反論もできず、ただ罵(ののし)り合うだけで、主張の対立する集団双方が同じようにこの隘路(あいろ)に陥っていることが、何よりも事態の改善を阻(はば)んでいるのではないだろうか?

「慰安婦を連れてきて恥をまき散らさせるのも、それこそ慰安婦の人権を無視して踏みにじっていることになると思います。私たちは女性として、そういう慰安婦の人権を無視する日本人、そして韓国の人たちを許しません。女性として許せないんです」(『女性たちの保守運動』p254)

「行動する保守」の女性のこの言葉は、実は、「アンチ・ヘイト」派にも、自省を促す起点となるかもしれない。「慰安婦」の存在を実証するために、「正義」の名において元「慰安婦」に過重な負担をかけてはいないか?

彼女たちの決断に十二分の敬意を表し、十分な配慮を怠ってはいないか?

「敵側」の言説を無視するのではなく、十分に吟味した上で論破することは、「敵側」だけでなく、自分自身も変えていく。思えば、先の「行動する保守」の女性も、元慰安婦のハルモニの証言を聞くことで、変わっていった。「慰安婦」に否定的な感情を持って集会に赴いた彼女は、証言を聞くことで一部共感を覚えたようだったのだ。

それが、「対話」である。相手の話に耳を傾けることによって、自分が変化していく。自分が変化することによって、相手も変わっていく。それらの変化が、対立を止揚(しよう)し、双方の関係をまったく別のものへと導くことも、あり得る。

「対話」がディベートと違うのは、まさにこの点である。「対話」にはディベートよりもずっと大きな勇気が必要だ。だからこそ、思いもよらなかった結果は、貴重な果実となる。

広がるアメリカ保守主義の領野

5年前にアメリカ合衆国が「トランプ大統領」を生み出したとき、「リベラル」を奉ずる多くの論者たちは、単に「ありえないこと」とレッテルを貼っただけで、実際に起こった事実に対して、その理由を真剣に追求しなかったのではなかったか?

「自由の国」アメリカが、移民を徹底的に敵視するとんでもない差別主義者、「狂暴」ともいえるナショナリストをそのトップに据えるまでに変節してしまったのか、と嘆くだけに終わってしまっていたのではなかったか?

ぼく自身、強い自省をもって、そのことを認めざるを得ない。

井上弘貴の『アメリカ保守主義の思想史』(青土社)を読むと、アメリカ合衆国では保守主義の思想領野がいかに広がっているかを、ぼくたちはまったく知らなかったのだと思い知らされる。

世界で生じつつあるのは、資本主義か社会主義かという二項対立では把握不可能な新しい形式の社会、経営者革命という新しい社会がもたらされる社会革命であるというジェイムズ・バーナム(『アメリカ保守主義の思想史』p67)。

客観的な道徳秩序が存在すると考える伝統主義と、個人の権利をなによりも優先するリバタニアリズムとを融合させ、そこに反共主義も加えて融合主義(フュージョニズム)を提唱するフランク・S・マイヤー(同p73)。

「アメリカは英国にかわる新たな帝国になるために第二次世界大戦を活用し、戦後は世界中に軍隊を駐留させて多くの国々を支配下におさめている。ロシアの脅威などは実際には存在せず、脅威は、リヴァイアサンたる合衆国である」とする、マレー・ロスバード(同p104)。

「アメリカ保守主義の思想」は、合衆国の歴史を通じて、広い振れ幅をもって展開、持続してきたのだ。

その一方で、「アメリカ保守主義」には、「アメリカ独立革命によって確立された」という出自がしっかりと根を張っている(同p84)。

だから、「アメリカ保守主義」は、保守的な諸原理と政治的自由の均衡を、建国の父祖たちから特別な遺産として引き継ぐ。反革命的言論が参照しているものが、実際のところ革命の産物であるというねじれを内包しているのだ(同p24)。

だから、「保守の知識人たちは支配階級とそうした階級にたいする反抗という視点にこだわってきた。この点においても、戦後アメリカの保守主義の主流は、ねじれたかたちながら社会改革思想という側面を色濃く有しており、それはトランプを支持する親トランプの知識人たちにも受け継がれている」(同p28)のである。

「変質したリベラル」と「本当のリベラル」

今日、アメリカの保守思想が対決し勝利しようとしているのは、ニューレフトとカウンターカルチャーによって変質したニューポリティクス・リベラリズムに対してである。ネオコン第一世代は、自分たちこそ本当のリベラルであり、この変種からアメリカを守らなければいけないと考えたのである(『アメリカ保守主義の思想史』p113)。

伝統的な価値観を脅かす敵対文化は、ニューレフトとカウンターカルチャーに影響された若者たちだけではなく、国家権力をにぎろうとしているニュークラスを動かしているからだ(同p142)。

一時期の例外を除いて、政権党=保守/野党=リベラルの図式が定着してしまっている日本では、「変質した」リベラルが構成する支配階級に「本当のリベラル」である保守が反抗するという図式は、想像しにくいかもしれない。

しかし、現にそれは起きていることであり、アメリカの(没落した)中間層の多くが、トランプに力を結集したそうした保守勢力を、(国会議事堂に突入するまでに)支持・応援しているのである。

日本では理解し難いそうした状況は、しかし決して不条理でも不合理でもなく、今日の新自由主義世界においては、むしろ自然であるともいえる。GAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)らIT長者をはじめとするわずかな数の超富裕層は、決して保守主義者ではない。

系譜としては、ニューレフトとカウンターカルチャーに続くと見るほうが正解だろう。かつてに比べて資産が量的に極端に偏(かたよ)っているだけでなく、偏る方向も以前とは随分違ってきているのだ。伝統的な保守思想の持ち主にかつての左派が合流して、政治・経済の支配層に対抗している図は、いびつでも何でもないのである。

2018年10月22日、テキサス州ヒューストンでおこなった支持者向け集会で、トランプは、「ちょっと時代遅れになったが、わたしはナショナリストである」と語った。アメリカのマスメディアは、すぐに批判的な意見を出した。ナショナリズムは、ホワイト・ナショナリズムやナチズムを呼び起こし、アメリカ大統領がこの言葉を使うべきではないとされたのだ(同p251)。

ナショナリズムという言葉には、ぼくたち日本人も身構える。

愛国主義、国粋主義、国家主義という日本語訳は、戦前から戦後にかけて絶えることなく続いてきた右翼集団、あるいはそれ以上に右翼的な志向の持ち主とつながりやすく、彼らの暴力を伴った行動が連想されるからだ。

ナショナリズムは決して危険な思想ではないと、トランプの発言を擁護したのが、イスラエルに生まれ、アメリカで高等教育を受け、現在はイスラエルのユダヤ思想研究教育機関の代表を務めるヨラム・ハゾニーである。

ポジティブな意味としてのナショナリズム

ハゾニーは、『ナショナリズムの美徳』(東洋経済新報社)で、人類が用いることのできる最善の政治秩序原理は独立した国民国家であり、各々の国民国家は相互的な精神的きずなという紐帯(ちゅうたい)によって確立されると主張している(同p253)。

最も小さな人間社会である家族では、親子兄弟が助け合って生きていくのは当たり前のことである。家族の他の構成員の弱体化は即自らの弱体化を意味し、家族全体の危機をもたらすからだ。

「結婚と家族は、親や先祖から受け継いだ遺産を別の世代に引き継ぐために築かれる。この遺産には、生命そのものと、おそらくはいくばくかの財産が含まれているが、生き方、信仰や言語、技術や習慣、そして各家庭に固有でほかの家庭にはない理想や価値観の理論なども含まれている」(『ナショナリズムの美徳』p108)

人間集団の範囲を少し広げて、氏族や部族という単位を考えても、同じことがいえる。

「氏族や部族、ネイションについてはどうだろうか? このような集団は、規模こそ大きいが、家族と同じ種類の集団だ。それにヘブライ語では、このような大きな集団は『地上の家族』と呼ばれている。家族と同じように、このような集団の目的は親や先祖から伝えられた遺産、つまり生命や財産だけでなく、生き方や信仰や言語、技術や主観、理想や独自の理解、他者にはないものなどの遺産を、別の世代に引き継ぐことにある」(同p112)

そうして、シオニスト(ユダヤ民族主義者)であるハゾニーは言う。

「部族の統一により国家が設立した例として最も有名なものは古代イスラエルで、国民国家のモデルとなった」(同p102)

ユダヤ人たちがモーセに率いられ(神に導かれて)エジプトでの奴隷状態から脱出していく旧約聖書の「出エジプト記」を国民国家の帝国主義からの独立と読み込んでいくハゾニーの議論を読んでいくと、ナショナリズムのマイナス・イメージが、少しずつ削ぎ落とされていく。

思えば、第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立は、帝国主義による植民地状態からの脱出として、世界から祝福された。そのとき、ナショナリズムは民族自決主義と訳され、今日よりもずっとポジティブなイメージを持っていたのではなかったか?

今日、ハゾニーが称揚する国民国家に代わって世界を牽引(けんいん)する、国際連合をはじめとした諸国家を統合する連帯組織は、その理念通りに機能しているのだろうか?

もしその答えがNOであるとしたら、それらは、歴史上諸民族の独立を否定し征服・制圧しようとしてきた「帝国」と変わりのないものとなってしまう。

ハゾニーは、ついにイギリスが脱退を決めたEUをはじめとする国家連合を、歴史上現れたさまざまな「帝国」の系譜に収め、指弾しているのである。

「帝国の抱く征服の欲求は、人類の救済に関する普遍的理論を通じて、長い間かき立てられてきた。キリスト教、イスラム教、リベラリズム、マルクス主義、ナチズムなどはどれも、近年、帝国建設の原動力として機能した。このすべてに共通しているのは、地球上の各々の家族に救いをもたらす真理がついに発見されたという主張である」(同p269)

敵なくして団結できず?

人類史上「帝国」が奉じてきた「真理」に対して、ぼくたちはおおむね否定的である。その点で、ぼくたちの見解はハゾニーに近い。実際、ぼくたちは、個人と国家がじかに結びつく近代の社会契約論よりも、ハゾニーが描く次のような国家建設プロセスに、よりリアリティを感じるのではないか。

「自らの部族やネイションが弱体化していると感じたとき、わたしたちが家族を強くするために行動するように、部族やネイションを強くしようとみずから立ち上がり、全身全霊で行動に移すのだ。利他主義からではなく、部族やネイションを強くすることを、自分自身を強くすることとして経験するので、そのような行動を取るのだ」(同p95)

個人―家族―氏族―部族―ネイションと、構成員が力をつくす領域が段階的に広がっていくプロセスこそ、理性による個々の指導よりも、ぼくたちは納得しやすいのではないだろうか?

しかし、ここで、決定的な疑問にぶち当たる。なぜその領域拡大のプロセスは、ネイションを超えて進めないのだろうか?

人が力を尽くす対象が、なぜ国民国家を超えて人類全体に広がらないのだろうか?

ハゾニーは繰り返し、言語や宗教、習慣の共有のあるなしを大きな理由にあげているが、プロセスの停止の理由は、もっと別のところにあると思われる。

「外部の脅威から集団に属する人びとを守ろうとするとき、忠誠心が最も特徴的に現れることに私たちは気付いた。口論していても、夫婦が逆境に直面すると、その後は一致団結して目の前の課題に立ち向かう。同じように、ネイションを構成する部族は、競い合っていても、危険が迫った時には共に防衛するために団結する」(同p121)

ハゾニーは、人々が団結するのは、共通の敵がいて、共通の脅威がある限りにおいてであると言っているのだ。だがそれならば、彼の政治思想は、彼自身が「帝国主義」であるにも関わらず誤って「ナショナリズム」と認定されたといって指弾する、ナチズムの理論的支柱カール・シュミット(政治学者)の、「政治とは友と敵を確定すること」という「友―敵」理論と同じ線上にあることになってしまう。

だが、人類全体の福祉を志向する政治理論は、外部に敵がいないため成立しないとするはハゾニーの見解からは、人類が今日直面している重大な状況の認識が抜け落ちているというしかない。

人類は今、その敵を乗り越えることなしに未来はないといえる。今とてつもなく強大な敵と対峙(たいじ)しているのである。

地球上のすべての生物の存続さえも危うくする、人類自らによる環境破壊が、その敵である。

2021年6月23日更新 (次回更新予定: 2021年7月25日)

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