言論のアリーナ

第7回 対峙姿勢

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

資本主義に挑む

人類は今、その敵を乗り越えることなしに未来はないといえる、とてつもなく強大な敵と対峙(たいじ)している。人類の滅亡どころか、全生命の滅亡までもが危ぶまれる環境破壊がそれである。

しかも、環境破壊の下手人(げしゅにん)は人類にほかならないから、人類は人類自身と敵対していると言える(自分自身という敵は、最後にして最強の敵なのだ)。

「新書大賞2021」(中央公論新社)をとった『人新世の「資本論」』(集英社新書)で、斎藤幸平(さいとうこうへい、経済思想家)は、そのとてつもなく強大な敵に立ち向かうには、資本主義を終わらせ、「成長」を止めるしかない、と主張する。

技術の進化に救いを求める加速主義も、エコロジー技術にいまだ経済成長の動因を期待するグリーン・ニューディールも、資本主義の枠内にある限り、環境改善にはつながらない。資本の本性が、産業と労働を手段として利益を得ることによる自己増殖である限り、資源の乱獲は不可避で、二酸化炭素の削減は不可能だからだ。

異常気象が世界のあちこちを襲い、大規模な山火事の報も届く。このままでは本当に近い将来、人間は地球に住めなくなる。廃棄物投棄や資源略奪などを外部(他国や他地域)に放り投げてきた人間が、今度は地球から放り出されるのだ(放り出されて生きていけるわけではない)。だからもう人びとは、レジ袋が有料になっても文句は言わない。一方、それくらいのことで、危機を乗り越えられるはずもないことにも、みんな気づいている。

だが、フレドリック・ジェイムスン(フランスの思想家)の「資本主義の終焉(しゅうえん)を想像することは、人類の終焉を想像するよりも難しい」という言葉が今なお有効に思えるほどに資本の論理に踊らされ続けたわれわれは、資本主義に挑む方法をイメージできないでいる。

カール・マルクス最晩年の自然科学研究ノートを読み込んだ斎藤は、「脱成長」あるのみと確信してブレない。それは、2018年度ドイッチャー記念賞(英語で書かれたマルクス関連の新刊が対象で、斎藤の受賞は日本人初)を獲得した博士論文(邦訳は『大洪水の前に』堀之内出版、2019年4月)から、『人新世の「資本論」』で時代の寵児(ちょうじ)となった後のいくつもの雑誌への寄稿やさまざまな相手との対談を通じて、一貫して変わらない。

そして斎藤は、現状を批判するだけではなく、環境破壊という人類の「内なる敵」と戦う具体的な方法を模索する。

資本主義は、「希少性」をいわば意図的につくり出すことによって開始される。そのことを可能にした「囲い込み」によって破壊された、〈コモン〉(共有地)――むしろ「ラディカルな潤沢さ」をたたえていた――を取りもどすことこそ、斎藤の戦略である。

「囲い込み」は、資本が利潤を得るために、もともと潤沢にあるものに希少性を持たせるという戦略であり、資本主義が誕生するためにどうしても必要な「暴力」であった。だから、その「暴力」以前、〈コモン〉はそもそも潤沢であったのである。だから、斎藤の選択肢は二つ、「成長」か、「脱成長」+〈コモン〉奪還かであり、斎藤の選択は、わずかな疑いも逡巡(しゅんじゅん)もなく、後者なのである。

〈コモン〉を取りもどすとは、その行く先は「世界革命」かと感じられるほど大がかりな仕かけに思われるかもしれないが、さしあたりは、そうした大目標をはるかかなたに見るのではなく、自分たちの足元を見つめ固めていく作業から始まるだろう。

斎藤は、自動車の街デトロイトでの、市民有志やワーカーズ・コープが中心となった有機農業の実践や、バルセロナの気候非常事態宣言をあげる。そのバルセロナやパリ、ニースといった欧州の諸地域が、水資源を再び公営化していったことを、岸本聡子(きしもとさとこ、シンクタンク研究員)の『水道、再び公営化!』(集英社新書)が紹介している。

そのような事例は、世界のあちこちに飛び火している。「脱資本主義」という途方もなく困難で高大に思える目標も、そうした地域の人々の実践の積み重ねでしか到達できないのである。

だから、斎藤が最も大切に思っているのは、マルクスの「理論」や「予言」ではなく、具体的な社会運動なのである。21世紀の初期に提唱された「グローカリゼーション」の実践ともいえる。そのことについても、齋藤幸平はブレない。 「ブレない」とは、自らの思想に過剰な自信を持っていることではない。他人の意見に耳を傾けないという姿勢では、まったくない。

さらなる議論を呼ぶ「衝突」

『人新生の「資本論」』に約1年先立って、斎藤は同じ集英社新書で『未来への大分岐』を上梓している。この本は、今世界をリードする重要な知識人3人と斎藤との、実にうれしい贅沢(ぜいたく)な対談集である。

最初に登場するのは、〈コモン〉の民主的な共有と管理を求める社会運動の興隆、発展を追い求める、『帝国』(似文社)『コモンウェルス』(NHKブックス)のマイケル・ハート(米国の政治哲学者)。

次に、「『世界』は存在しないが、すべては存在する」と主張しながら、同時に「ただし、存在するものがすべて真実であるわけではない」と喝破、社会構築主義から「ポスト真実」という今日の潮流に対抗するため、啓蒙(けいもう)やカント的倫理の有効性を唱えるマルクス・ガブリエル(ドイツの哲学者)。

そして最後に、情報技術の発展が「限界費用ゼロ」をもたらし、価値を生み出さなくなることで資本主義は自ずと終焉すると主張する、『ポストキャピタリズム』(東洋経済新報社)のポール・メイソン(英国のジャーナリスト)。

いずれも、資本主義が暴走する今日に世界的状況を真っ向から批判し、オルタナティブ(今とは別の方向性)を模索する思想家である。彼らに、そして斎藤に共通するのは、現代の危機に真っ向から立ち向かい、あるべき未来を志向、構想しようとする、あきらめることなき姿勢である。当然の結果として、対談は相互の敬意と共感を基盤に進行していく。

ただし、斎藤はそれぞれの言説をただ肯(うべな)うだけではない。ハートのBI(ベーシック・インカム)への期待には「貨幣こそ資本主義の根幹的な問題」ではないか、と疑念を表し、ガブリエルの「新実在論」が意に反して相対主義を招来する危険を指摘し、メイソンの「資本主義終焉」のプロセスが情報技術の進化に期待しすぎており、「加速主義」に親和的でさえあるのではないか、と疑問を突きつける。

そうした斎藤の対峙姿勢による各々の主張の「衝突」こそが、さらなる議論を生み出し、「次の段階を考えるヒント」を掘り出していくのだ。斎藤がブレないのは、他の人々の思索とぶつけ続けることによって、自らの思索を再検証、時に調整して、より強靭(きょうじん)なものへと鍛え上げているからなのである。

民主主義と反民主主義

われわれはこの連載で、書店における「ヘイト本」の扱いについて検討し始め、言論の自由、そしてそもそも民主主義とは何かを考え続けているのであるが、そんなわれわれが、斎藤に最も学ぶべきは、斎藤のこの姿勢だと思う。

「第5回 討議と敵対」で取り上げた『アンタゴニズムス』(共和国)の著者山本圭が2021年2月に上梓した『現代民主主義』(中央公論新社)を読むと、この1世紀の間にも、「民主主義」の定義が、あるいはその重心の置き方がいかに多様性に満ち、大きく変化してきたかがわかる。しかも、その変化は、決して直線的(進化論的)ではない。

20世紀だけを見ても、マックス・ウェーバーやカール・シュミットの指導者論から、ヨーゼフ・シュンペーターによる競争型エリート主義の民主主義論、1960年代には参加型民主主義が優勢となり、『アンタゴニズムス』を論じる「第5回 討議と敵対」でも取り上げたハーバーマスの熟議民主主義を経て、ラクラウやムフの闘技民主主義では、再びシュミットの「友/敵」理論が参照されている。

それぞれの「民主主義」のバリエーションとグラデーションは、さながら「民主主義論の民衆主義」の様相を呈していると言える。だとすれば、「民主主義」を再定義してその実現・強化を図るときに最も有効な対話の相手は、「反民主主義」の言説であるとは言えるかもしれない。

その意味で、佐伯啓思(さえきけいし、社会思想家)の『反・民主主義論』(新潮新書)は、「民主主義」の対話の相手として、タイトルからしてまさにかっこうの本である。

佐伯は、デモクラシーは「民主政」と訳すべきだと言う。それは、今われわれが採用している一つの政治制度であり、それ自体に良い悪いはなく、長所もあれば短所もあるからだ。それを民主「主義」と呼んだとたん、何か崇高な理想を含むものとして神聖化されてしまう。そのとき、「デモクラシーの重要な意義が失われてしまう」と佐伯は言う。その意義とは、人間はかなりの確率で判断を誤るとみる「人間可謬(かびゅう)説」から出発するということである。

デモクラシーの核となるのは、多様な意思と利害を前提とした意思決定に必要な謙虚さと自己批判能力なのだ。「民主主義こそが正義」といってしまったとたん、それは失われる。

政治は数の取り合いだ。選挙という制度は、人びとを均質化し同質化する。だが、一人ひとりの「個人」は、矛盾に引き裂かれ、悩み、承認しつつ抗(あらが)う、という果てしない経験の中で形成される。文学は、政治が決して見ようとしない人間の本質をのぞき込もうとする。まったく異質な営みであるがゆえに、政治と文学は、相補的なのだ。

「正義」を揺り動かす他者

佐伯啓思の反民主主義論は、陰画として、民主主義がどうあるべきかを鮮やかに映し出しているといえる。

佐伯の論理をたどっていくと、「反・民主主義」こそが「民主主義」である、とさえ思われてくる。それは、「正義」を常に徹底的に疑う姿勢だ。誰しも、ことに政治に関わっている者、政治に関心を持っている者には、発言や行動の規範がある。だから、一人で「正義」を疑うのは困難だ。だからこそ、他者が必要なのだ。それも、自らの「正義」を揺り動かす他者が。

「正義」を疑うためには、そうした他者が多いほどよい。それが「デモクラシー」(デモス=群衆の支配)の優位を支えるのである。逆に、デモクラシーが民主「主義」となってしまい、その「主義」から遠いもの、少しでも外れたものを認めないようになれば、それはもはやデモクラシーではない。知らずしらずのうちに、デモクラシーとは真逆な「全体主義」に変質してしまっている。

ヴァイマール民主政下にナチズムが生まれその隆盛を見たことを引き合いに出し、デモクラシーの脆弱(ぜいじゃく)さ、その反転可能性を批判する人がいるが、そもそも全体主義とは、デモクラシー自体が「主義」と化すことによって、自らの「正義」しか認めなくなった姿そのものなのである。

「主義」と化し、他者の意見を尊重しなくなったときにデモクラシーは、定義上デモクラシーではなくなる。すべての「全体主義」はその空隙(くうげき)に入り込み、肥大成長していくのである。

現代の民主主義は、おおむね議会制民主主義の形態をとっている。議会制民主主義の最後の意思決定は、多数決である。だが、多数決原理は、多数が「正義」であることも、少数意見を無視・排除してよいということも、決して意味してはいない。ハンス・ケルゼンが、「多数派」の存在は「少数派」の存在権を前提にしていると言った(『民主主義の本質と価値』岩波文庫、p73)ことは、すでに「第5回 討議と敵対」に紹介したが、ケルゼンは続けて次のようにも言っている。

「社会的現実を直視する考察にとって、多数決原理の意義は、数字上の多数者の意思が勝利することではなくて、多数決原理という思想が受け容れられ、このイデオロギーの実効支配の下で、社会共同体を形成する諸個人が、基本的に二集団に分類されるところにある」(同p76)

「そもそも観念上、多数派というものは、少数派にはあり得ないはずであるから、少数派には、まさしくこの脱退可能性が、多数者の決定に影響を与える手段となる。これは議会制民主主義には特に当てはまることである。なぜなら、議会制手続というものは、主張と反主張、議論と反議論の弁証法的・対論的技術から成り立っており、それによって妥協をもたらすことを目標にしているからである」(同p77)

議会は議論の場、対話の場であり、「意見が全員一致」では成立しない。数の多寡とは関係なく、すべての意見が尊重されなければならない。賛成するものが多数であることが、その意見の価値を定めるものではない。そして、それぞれの意見は、対話の中で変化していくことができる。

書店現場の実態

今日の「民主主義論」の中でも、議会制=代表制の限界が問われることは多いが、それ以前に議会が本来の働きをしているかどうかを検証することが必要であろう。その本来の働きとは、多くの議論がぶつかり合い、影響しあい、相互に醸成し合い、そのことによって当初の対立軸とは違うレベルでの決定をなすことである。

そのときに大切なのは、多数であることが「正義」を担保するのではない、ということだ。一方、「逆もまた真なり」で、少数であることが「正義」を担保するわけでもない。

それは当たり前ではないかと言われるかもしれないが、少数であることが「正義」であるという信念を持つ人は、結構多い。

「第2回 『NOヘイト!』フェア顛末記(てんまつき)」でご紹介した、「『NOヘイト!』フェア」に『大嫌韓時代』を置いたことについて、「物事がわかっている自分たちは大丈夫だが、そうした本はちゃんと理解していない人たちを誤らせるかもしれない」と批判した「左」の人たちも、そうだと言える。

ぼくは、彼らに選民意識を感じると書いたが、選民意識を持つ人たちはたいてい自らが少数派と思っている(が、「正義」は自らにあるとも思っている)。

少数派でありながら多数派を自認している人も多いかもしれない。その人たちは、「東アジアの近隣諸国に悪感情を持つなんて、とんでもない一握りの人間だろう」と考えている。だが、『Will』や『Hanada』は、『世界』よりもずっと販売部数が多い。それが、書店現場の実態である。百田尚樹やケント・ギルバードは、ベストセラーを何冊も出している。

多数派、少数派のどちらにも必要なのは、対立する「敵」の軽視、無視ではなく、「敵」の主張を知り、吟味した上での議論、対話なのである。

2021年7月21日更新 (次回更新予定 : 2021年8月25日)

言論のアリーナ の更新をメールでお知らせ

下のフォームからメールアドレスをご登録ください。


メールアドレスを正しく入力してください。
メールアドレスを入力してください。
言論のアリーナ 一覧をみる