言論のアリーナ

第8回 書店の棚と民主主義

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

棚が有する「緊張関係」

山本圭の『現代民主主義』を読んで、「民主主義」そのものがいかに多様であるかを、そしてときに対極的とさえいえそうな対を含んでいることを教えてくれる。

ハンス・ケルゼンは、多数派による少数派の尊重こそが民主主義の要諦だと主張していた。

デモクラシーは、民主「主義」と訳された途端、その重要な意義を失ってしまうという佐伯啓思の主張にも納得する(「第7回 対峙姿勢」参照)。

「民主主義」とは、政治のしくみや方向性ではなく、ましてゴールや目標ではなく、個々の成員の意見をまずは尊重するという、議論の前庭なのではないだろうか?

ぼくが2016年に『書店と民主主義』(人文書院)を上梓したとき、「書店が民主主義である」というコピーを思いついたのも、そうした「民主主義」観が土台となってのことかもしれない。

「書店は民主主義的である」ないし「書店は民主主義的であるべきである」としなかったのは、「的」をつけると「民主主義」が実体化し、傾向や形相(けいそう)をもってしまい、ゴール・目標となって、敵対者や夾雑物(きょうざつぶつ)を拒否または無視してしまうからである。

そうした排外的な「民主主義」を、「デモクラシーの訳語として選んだならば、デモクラシーとは、本質的に、他者を貶(おとし)め、自己主張を繰り返し、自己の権利を大声で叫ぶ、体のいい、しかし『品の悪い権力闘争』だと理解すべきなのかもしれません」(『反・民主主義論』p159)という佐伯啓思の批判・揶揄(やゆ)に、とても反論することはできない。

「書店が民主主義である」と宣言し、民主主義を「個々の成員の意見をまずは尊重する」ことと定義したとき、差し当たりいかなる本の排除もありえないだろう。

その際、議会であれば、出された法案に対して、質問や反対意見が寄せられ、それに対してさらに再反論がなされるであろう。だが、書店という舞台ではどうか?

本を相手に、対話や議論をすることができるのか?

できる。大澤真幸(社会学者)は、「人が考えるのは、2つの場合だけ。対話をしているときと、本を読んでいるとき」(『考えるということ』2017年、河出文庫)と言っている。ならば、書店という場は、人が考えることのできる、かっこうの場であり、人を考えることに連れていく、絶好の始発駅といえるのではないだろうか?

対話や議論は、勧誘・伝道や同調・盲信では決してないから、「考える場」は、すぐに腑(ふ)に落ちる本ばかりではないほうがいい。否、そうであってはならない、議論が生まれないから。

おそらくは、議論が対立しているときのほうが、人は考える。だから、考えるためには、書店に並べられた本は、大いに賛同できる本、少しばかり疑問を感じる本から、にわかには信じられない本、さらには、絶対に受け入れられない本まで、多様であるほどよいといえるのではないだろうか?

そのとき、本同士も、大いに対立し、対決姿勢にある。そんな緊張関係を持った棚が、魅力的な書店の棚ではないか、と思うのだ。

店頭での関門

書店の風景を多様な本で埋める、書店空間に本の多様性(ダイバーシティ)を実現するのは、それほど難しいことではないはずだ。

新しい本は、それまでの本と違った考えを表明するために、あるいは違った世界を提示するために生まれてくる。一緒に並んだ本たちと、常に対立するわけではないけれど、必ずグラデーションを形成する。要は、排除しなければ、よいのである。

まずは、本を最初に市場に迎える書店員たちが、関門になる。今、多くの書店員に思想信条におけるバイアスはなく、新刊を内容面で切り分けることは、ほとんどないであろう(それは、それで寂しいことではあるが)。

このコラムでテーマとしている「ヘイト本」などもやすやすと通過する。

(一緒にしたら彼らは怒るだろうが、間違いなく思想傾向としては「ヘイト本」に近い)百田尚樹やケント・ギルバードの本はしばしば、シード選手並みにゆうゆう通過だろう。売れることが、売り場に出る前からすでに期待できるからだ。

関門を乗り越えられない要因は、著者の無名性、テーマの専門性、高価格などである。これらは、書店員の「売れるか、売れないか」の判断基準であり、つまりは、書店店頭に並べられるかどうかの分かれ目となる。

「売れたか、売れなかったか」は結果であるから、この判断の実態は、書店員が「売れそうに思うか、そうでないか」なのである。

ところが、その「売れそうに思うか、そうでないか」の判断の根拠は、これまで売れた本についての書店員の経験である。だが、読者は、同じような本を続けて読みたいとは思わないことを考えると、その根拠の有効性は疑わしい。読者が期待する新しい本は、これまでのどの本とも違うべきなのである。(注1)

すなわち、書店員の経験による判断は、原理的に縮小再生産に向かうものとして、差し控えられるべきなのだ。だからぼくは、「『こんな本、売れない』などということは、決して安易に言うな」と言い続けてきた。

それは、ぼくが、ジュンク堂書店に入社して以来、店長になるまでの約15年間、人文書担当一筋であったからかもしれない。人文書の世界では、それまでの価値観をドラスティックに変化させる本が、画期の本となってきたからだ。(注2)

そうした本は、それまで出たことのない本であり、それゆえ売れたこともなく、売れたという記憶を書店員に植えつけることができようもない本なのだ。

「異質な本」で棚が輝く

そもそも人文書というジャンルは、多様性に富み、というより一括りにする定義もなく、文学ではない、社会科学書ではない、自然科学書ではない……他のどこにも属することができない、いわば他ジャンル全体の結びの補集合とでも表現せざるを得ないジャンルである。

ぼくも人文書担当者として、他ジャンル担当者が、「これはウチの本じゃない」と言って持ってくる本を引き受け、何とか棚に埋め込んできた。

その言葉を聞くたびに、「ウチ/ソト」という発想が嫌だった。線引き、排除の図式だからである。

ぼくは、よほどの違和感がない限り、その本を引き取った。そうして、その「異質」な本を棚に入れると、必然的に棚に変化が生まれ、本同士の関係にダイナミズムをもたらし、棚全体が輝き始めたりもした。

そうした人文書の、そのような担当者としてぼくの書店員人生が出発したことが、本や書店に対するぼくの考え方に大きく影響したことに間違いはないと思う。

就職してすぐに、先輩からこんなことを言われた。

「本屋に入った新人は、まず新刊を買いあさる。そのあと、全集ものを買うようになる」

最初は半信半疑だったが、入社してしばらく経ったころ、確かに新刊を追いかけている自分を発見し、先輩のこの言葉を思い出した。

お正月休み(と呼べるものが当時のぼくにはあった。店が入居していたビルが、三が日休みだったのだ)に読もうと思って、それまでほとんど関心もなかった新宗教や精神世界の本も買ってみたりした。レジにいて、何人ものお客様が買っていくのを見ていて、読んでみたいという気になったのだ。

興味本位でのぞいてみた世界に強く引かれるようなものはなかったけれど、この世の中にはさまざまな本があり、本の中にはさまざまな世界があることを知ることはできた。

とはいっても、それは広大な本の世界の、ごくごく一部だ。実際に読める本の数は知れている。

われわれ書店員は、読みもしない、内容についてときに想像もつかない本たちを日々扱い、販売している。一冊の本の描く世界が豊穣(ほうじょう)なら、それらが所狭しと並ぶ書棚は無限の世界が開かれている。その書棚が何列も、そして何連も集積している書店空間には、無限の世界がある……。

あるとき、自分が担当する人文書の棚を見上げながら、「なぜ、先輩たちは、頭が変にならないのだろうか?」と真剣に思った。おそらく、変になりかけていたのは、ぼくのほうだった。

本の多様性を意識するようになったのは、ぼくが人文書の担当者だったからだろう。

すぐには読者を見つけられない本

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(ドイツの哲学者)が『精神現象学』(1998年、作品社)で描く「意識の経験」のプロセスのように、思想や信仰があれば必ず批判や別の信仰がある。

一つの例であるが、信者さんを刺激しないように、『人間革命』(聖教新聞社)を中心とした創価学会系の本のコーナーには、学会批判の本は置かないという不文律もあった。

ぼくは、その不文律を、涼しい顔をして破っていた。宗教のコーナーをつくれば、キリスト教とイスラム教が隣り合うことになるだろうし、ソリの合わない仏教宗派同士が並ぶこともある。新宗教、新々宗教は分派・独立の連続であり、棚を作る側としては系譜がわかるような構成にしたいが、根が同じであればあるほど近親憎悪も激しいかもしれない。

こうしたことは、宗教に限らない。哲学、政治思想、経済思想、社会思想から歴史観にいたるまで、もし本に口があれば書店店頭は罵倒の喧噪(けんそう)の場になるかもしれず、もし本に手があればつかみ合いの修羅場と化すかもしれない。

だが、本には手足もなければ、口もない。読者の手に取られなければ、その主張は一言も伝わらない。そこに肉体的な暴力や強制はないから、長い期間、本は読者を待つことができる。書店は民主主義なのだ。

すぐには読者を見つけられない本もあるだろう。そうした本は、売上実績(=不稼動実績)に担当者の嗜好(しこう)が若干加味された月日を経て、返品されてしまう本たちである。それはわかりやすい、よく知られた(誤解された)「民主主義」のあり方(=多数決)であるかもしれない。

しかし、繰り返し述べてきたように、「民主主義」=「多数決」ではない。少数意見の尊重も、「民主主義」の重要な属性である。

「すぐに読者を見つけられない本」は、「すぐに読者が見つけられない本」でもある。並んでいる書店が少ないからである。その本を欲しかった、あるいは手にとってみたかった読者は、苦労した挙げ句にその本を見つけた書店を、必ず贔屓(ひいき)にする。

そして、本は「一人で」生まれてくることは、まずない。必ず参考にした本、参照すべき本、その本につながる本が存在する。読者が欲していた本が、そうした他の本たちとともに並んでいたとき、すなわちふさわしい風景の中で異彩を放っていたとき、その読者は、必ずその書店の常連客となるだろう。

そうした風景は、その書店の担当者の知識、志向の生み出すものである。そうした書棚を見れば、「あっ、ここには、このジャンルに詳しい担当者がいるな」と、すぐにわかる。「すぐに読者を見つけられない本」を探し続けてついに出会った読者は、早晩その担当者と親しく語り合う関係になるだろう。

担当者の志向とは、その本への知識や愛着であるとは限らない。他の書店のほとんどが棚から外した本で、別に好きでもなく、さして売れているわけでもない本を置くとき、そこには何かの志向、その担当者独特の志向がある。

ぼくの場合、その典型的な例は、1995年段階でのオウム出版の刊行物だった。

書店人の責任

1995年に多くの死傷者を出した「地下鉄サリン事件」を起こし、幹部のほとんどが逮捕されて事実上崩壊したオウム真理教は、出版部としてオウム出版を持っていて、事件に先立つ数年間、ぼくらも大いに販売した。教団が印刷施設を持って以降は、ものすごい新刊発行ペースだった。

新々宗教の布教戦略のひとつとして、信者に特定の書店で買うことを指示するといったものがある。その書店のベストセラーランキングの上位に入れば、一般読者の目を引き、本を手に取り、教理に関心を持ってもらえるかもしれない。

あらかじめ計画された部数を、信者が実際に店頭で買っていくのだから、書店にとってもおいしい話だ。

ぼくは、「地下鉄サリン事件」のオウム発覚後も、おそらく結果的に、教団とは何の利害関係も理解関係もない者としては、一番最後までオウム出版の本を販売し続けた現場担当者だった。

だがそれは、今いった「おいしい」売上のためではない。第一、事件後教団が崩壊したあとで、そのようなシステムが存続しているわけがない。

また、ぼくはオウム真理教信者ではなく、あったこともない。シンパシーもまったくない。「地下鉄サリン事件」への怒りは、人後におちないといえる自信すらあった。一つの理由は、あの事件が、ぼくの故郷であり、親族も住んでいた神戸を襲った大震災への注目度を間違いなく低めたからである。

事件に注目する人たちが多く買ってくれるだろうという目算を持って、でもなかった。そうした人たちは、事件の真相や教団の正体を暴きバッシングする本は買ってくれるだろうが、仏教教理を解説したり、修行者のアクロバティックなパフォーマンスを紹介したり、麻原彰晃(あさはらしょうこう、オウム真理教教祖)を崇(あが)める本を買うはずはない。

では、なぜぼくは、ほとんどの書店が棚から外したオウム出版の本を棚に置き続けたのか? 当時から、「理論武装」の必要は感じていた。他人と違うことをした場合、この国では必ずバッシングの対象となる。社内からの批判もあるかもしれない。

たまたま機会があって、ぼくはその理由を列記した文書を作成した。(注3)

1.「地下鉄サリン事件」がオウム真理教の犯行であることが明るみに出て、もはや「書籍にだまされて」入信する人はいないと考えてよいだろう。だから今こそ、オウム出版の本は無害になったといえる。むしろ、「未だ事件を起こしていない」他の教団の発行する本の方が「危険」であるかもしれないのに、それらの本は、「事件が発生」するまで販売され続ける。そちらの方が問題ではないか? (当時無自覚に販売されていたある教団の本が、トップの逮捕で、慌てて書店の店頭から外されたということが、実際にすぐ後に起こっている)

2.オウム真理教の起こした前代未聞の凄惨な事件の原因や社会背景、あるいは犯人たちの目的について、識者と呼ばれる人々、学会、ジャーナリズムは調査、コメントする、少なくとも考える責任があると考える。その原資料として、オウム出版の本を入手できる場を設けることは、書店人の責任と思う(現に、京都大学のある社会学の研究室から、入手しうるオウム出版の本をすべて購入したいという依頼を受け、在庫していたものを全店お届けしたことがあった)。

3.「地下鉄サリン事件」以後、捜査関係者だけでなく、すべてのマスコミがオウム真理教を強く敵視、極悪視し、その結果、多くの自治体で入居を拒否された信者(事件と無関係な人々を多く含めて)は、まったくの閉塞状況に陥っている。彼らの反論の場は、もはやオウム出版の出版物しかない。事件後、新たな本の刊行はほぼ不可能になったとしても、かつての出版物がすべて市場から排除されることによる閉塞感、無力感、絶望感が、本来「事件」を起こすほど過激ではない状況においてもなお主張、表現を保証されることこそ、「出版の自由」であり、その価値なのではないか。

あれから早や四半世紀が過ぎたが、この文書に、書き直す箇所はない。


(注1)実は、例外がある。それも大きな例外が。好きになった著者の本を読み続けるファンである。彼ら彼女らは、一度引き込まれた世界が変化することを喜ばない。「村上春樹のファンが村上春樹を読み続けるのは、村上春樹がいつも同じことを書いているので安心して読むことができるからです」という内田樹(フランス文学者、思想家)の言葉に、納得したことがある。

(注2)人文書の棚の風景をドラスティックに書き換える「画期の本」として、ぼくは浅田彰(批評家)の『構造と力』(1983年、勁草書房)、エドワード・サイード(アメリカの文学批評家)の『オリエンタリズム』(1993年、平凡社)ネグリ=ハート『帝国』(2003年、似文社)を挙げてきた。今なら、デヴィッド・グレーバー(アメリカの文化人類学者)の『ブルシット・ジョブ』(2020年、岩波書店)を加えてもいいかもしれない。

(注3)文書作成の詳しい経緯は、『希望の書店論』(2007年、人文書院)Ⅴ−9(p189〜199)に書いたので、参照いただければ幸いです。

2021年8月25日更新 (次回更新予定: 2021年9月25日)

言論のアリーナ の更新をメールでお知らせ

下のフォームからメールアドレスをご登録ください。


メールアドレスを正しく入力してください。
メールアドレスを入力してください。
言論のアリーナ 一覧をみる