本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
『絶歌』への集中砲火
今日の日本では、議論や対立は「右/左」「保守/革新」「ナショナリズム/リベラリズム」といった二分法で見られることが多い。だが実際には、そのように簡単に図式化できるものではない。
少なくともぼくが、二項対立を自明として、もっぱらどちらかの陣営に属して論じているのではないことは、このコラムを辿(たど)ってきた読者は理解してくださっているものと思う。
われわれが扱う本の中には、「右」も「左」も関係なく、批判の攻撃を浴びるものがある。
話題となって売れれば売れるほど批判の声は大きくなるし、批判の声が大きくなればなっただけさらに周知され、売れ行きが伸びる。
そうしたときに、「商売だから売れる本を売るのは当然だ」と開き直るのも、一方「批判が、販売している自分にまで及ぶのは嫌だから、売るのはやめよう」と書棚から外すのも、ぼくは違うと思う。
第一に、もちろんその本を読んでみる。そして批判にも目を通す。その上で書棚に残し販売するときには、批判への反論を試みる。書店員にとって、そのプロセスを踏むことが、自らの役割と気持ちにもっとも整合的であり、自然な行き方だと思う。
2015年6月10日に太田出版から刊行された、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)の加害者の手記『絶歌』はまさにそうした本で、発売と同時に、あるいは発売前から、ネット上、新聞紙上で、少し遅れて週刊誌からも、批判の集中砲火を浴びた。
この本の存在自体への批判と本の内容についての批判、『絶歌』は性格の違う、二種の批判を浴びたのである。
マスコミへの違和感
まず存在自体への批判には、そもそもあのような残虐非道な事件の加害者の手記など出版すべきではない、という批判があった。だが、著者の来歴を理由とするこうした批判は、そもそも日本国憲法21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」に抵触する。
もちろん、出版の自由も、他の自由と同様、無条件にすべて保障されるわけではない。日本国憲法発効後にも多くの発禁本や回収命令はあり、その措置が違憲とされたわけではない。
憲法21条で保障された「出版・表現の自由」には、12条の後半「国民は、これ(=この憲法が国民に保障する自由及び権利)を濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」という縛りがあるからだ。
『絶歌』がこの縛りを免れるか否か、すなわち「公共の福祉にまったく資することのない出版の自由の濫用」ではないと言えるかどうかについては、「議論すべきである」という意見はありえるかもしれない。
だが、「濫用」という言葉は、前提としてすべての人に出版の自由が保障されていることを示唆していると言えるから、論証義務は、その本の存在を否定する側にあるだろう。
『絶歌』の著者(「元少年A」。本書の表記に倣(なら)い、以下Aとする)は、事件後、司法の判断で医療少年院に6年5か月入所して退院。保護観察期間も無事に過ごし、2005年元旦に本退院、その後は何の法的拘束もない一市民として生活している。犯罪被疑者や刑確定者にも適用される基本的人権は、服役後のAにも、まずは全面的に保障されてしかるべきだと思う。
次に、Aのような犯罪者に印税が渡ること、その額が『絶歌』の刷り部数からいって、印税率の通例に従えば結構な額になることを「けしからん!」という声も多かった。だが、印税率は著者と出版社の間で私的に結ぶ出版契約の一部であり、外部からそれについてとやかくいうべきものではない。
出版社サイドから、Aが印税を被害者への未払い分に充てる意向が漏れ伝わり、ぼくも望ましい方向であるとの個人的感想は持つが、そのことを強要したり、あらかじめ出版を認める条件とするのは、筋違いであると思う。
印税の一部なりともAの生活費に回ることを不可とするのは、Aの生存権の否定であり、Aが著作の報酬を受け取ることは何ら法に触れないのだから、一種の私刑(リンチ)ともいえる。
一方、本の内容に関する批判としては、「事実を書いたことが被害者家族の気持ちを考えれば許されない」というものがあった。
この批判については理解できる。Aが自分の犯した罪を克明に想起して描写している箇所を、「被害者家族にとって2度目の殺人だ」という指摘する声もあった。本を読んでこうした感想を持つ人がいるのも分かる。
ぼくもまた、Aが一文で終わらせ、それ以上具体的に書こうとしなかった箇所(編集者の手が入っているかもしれない)が、読む者に対してもきわめて攻撃的であると感じた。
だが、そうした批判をマスコミが行うことには、違和感がある。
事件や事故が起こったとき、マスコミがマイクを突き立てて関係者に求めるのは、まず事実を語ることではなかったか?
識者と言われる人たちは、理不尽な犯罪についてコメントする際に、「せめて、真実を明らかにしてほしい」と言い続けて来なかったか?
そうであるならば、本の存在自体や、Aが事実を語っていることを批判するのは、理屈に合わない。
Aが『絶歌』において、事実を語っていない、反省もしていない、という批判が、成立する最も妥当な批判となる。
両立しがたい「正義」
確かに、冒頭からAは、自らを対象化して客観的に(他人事のように)語っているように思える。
「僕」がまるで三人称のように感じられる箇所もある。だが、初めて本を出そうとしたとき、たいてい誰でも、自分のことをそのように書いてしまうのではないだろうか?
おそらくは医療少年院で読んだであろう本の唐突な引用や難解な漢字の使用なども、「若書き」のゆえといえないだろうか?
書かれている内容が事実ではないと批判する人は、『絶歌』を読んで評価しているはずだ(そうでないなら、その批判は打ち捨てておいてよい)。ならば、その人たちの批判は、『絶歌』が出版されたこと自体に向かってはならない。
「自分で読んでダメだと分かったから、諸君は読むべきではない、市場に出回っているのも好ましくない」と主張するのは、傲慢(ごうまん)だ。憲法21条2項で禁止されている「検閲」ともいえる。
何より、こうした本を書き、出版することが、自らの平穏な生活にとっていかにリスキーであるか、そのことが想像できなかったとは思えないAが、書くことによって自らの崩壊を防ぎ、書いたものを被害者家族を含めて多くの人に読んで欲しいと思ったことは、ほんとうだと思うのである。
ぼくは、「被害者家族のことを思えば」という「正義」に対しては、警戒する。誰も真に他人の立場に立つことは、他人を理解することはできないからだ。
「被害者家族のことを思う」ことが決して嘘(うそ)でなかったとしても、その「正義」が主観的には曇りなきものであったとしても、世の多くの「正義」は、両立しがたいことが多い。だからこそ、人間は、決定的な勝者を定めえない諸「正義」の上に、法を置いたのである。
個人的には意に適(かな)わぬところがあったとしても、いったん定められた法をみなが尊重することによって、社会を形成、維持してきたのである。
『絶歌』の扱いについても、一書店人として、感情や「正義」ではなく、法に従って判断したい。新たに法が作られたり、新たな法解釈によって回収命令が出たら、異論があってもぼくはそれに従う。
それは、法治国家に生きる以上、成立した法が絶対であり、為政者による法の適用、執行に従うのが市民の義務であると思うからではない。ぼくたち一人ひとりは、主権者として法そのものにも、その執行形態にも疑念や反対を述べる権利がある。
差し当たり、今ある法を尊重し、その論理のもとで物事を考えてみるのは、自らの「正義」をもまた、絶対化したくはないからである。
『絶歌』の存在が、『絶歌』の販売が違法であるとの判定が、司法から出ることはなかった。だから、ぼくは『絶歌』を書棚から外さなかった。
休刊に至った「新潮45」
安田浩一の名著『ネットと愛国』が「ネット右翼」の存在を広く知らしめたこともあって、ネット上での言論攻撃は、「保守」や「右翼」の専売特許との感が強い。
だが、「左派」ももちろんインターネットを使うのであり、ネット上で発言もする。それが「ネトウヨ」顔負けの攻撃性を持つこともある。その具体例が、2018年9月に雑誌「新潮45」を休刊に追いやった一連の経緯であった。
「新潮45」2018年9月号に掲載された、参議院議員杉田水脈の「『LGBT』支援の度が過ぎる」に寄せられた多くの批判に、同誌は続く10月号で、特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を立てたが、そのことが批判の火に油を注ぎ、新潮社社内でも問題視されて署名運動が起こり、「新潮45」は遂に休刊に至った。
一連の動きに対し、「月刊Hanada」は、10月26日発売の12月号で、「総力大特集『新潮45』LGBT休刊と言論の自由」を組み、「新潮45」を休刊に追いやった「左派」や新潮社自身を、「言論弾圧」と徹底的に批判した。
掲載された門田隆将(ジャーナリスト)らとの座談の中で櫻井よし子(ジャーナリスト)は、「言論には言論で、表現には表現で向き合うこと、問題提起し、反論し、それに対してまた異なる見方や意見をぶつける。こうした知的作業を繰り返すことで物事は深まっていきます」という。
正論である。
同じ座談で編集長の花田紀凱(はなだかずよし)は、「新潮45」への寄稿を求められた批判的な論者が全員それを断ったという。
花田が「と聞きます」と言っていることに注意は必要だが、有力な著者たちが新潮社への作品の提供を拒否しはじめたことが「新潮45」の休刊につながったのも事実らしい。それらの言動が、「言論弾圧」と糾弾される隙(すき)を与えてしまった。
従来、権力による言説の圧殺を批判してきたのが主に「左」であったことを思えば、「完全に攻守所を変えた」といえる。
今回の騒動で、最も問題なのは、匿名もしくは結果的に匿名に近くなるインターネット上の批判がその主流であったことであり、「左」が批判していたはずの「空気」が大きな力となってしまったことだ。
すなわち、誰が、どのように当該論文を批判したかが、明確ではないことである。「月刊Hanada」12月号で、坪内祐三(評論家)も、活字を無視してネットのみで意見がかわされ、その結果「活字で意見が闘わされる前に雑誌が潰(つぶ)された」ことがショックだ、と言っている。
そもそもどんな意見も活字にする自由はある、その責任主体は書き手にあり、書き手を越えて媒体に責任を求めるのはお門違いだ、と坪内は言う。
ぼくも、坪内の考えを支持する。思想には思想で、活字には活字で対決することが、言論界のあるべき姿だと思う。
同じ思いを、数年前ぼくがいささかコミットした「ヘイト本」問題(連載第1回、第2回に詳述)についても持った。
「そもそもヘイトスピーチ、ヘイトデモ、ヘイト本は、その対象である在日朝鮮人の人権を認めず、抗する言語も封殺しているから、『言論の自由』を浴するに当たらない」という安田浩一らの見解に賛同しつつも、だからといって「ヘイト本」の存在すら認めまいとする姿勢に完全には与(くみ)し得ず、「ぼくは書店人として、いかに自らが賛同できない言説を本をも、棚から外すことはしません。相手の言説を排除しようとすることは、とくに「『ヘイト」』的な言説に対決する場合、相手と同じ型になってしまうからです」と言った。
その考えに、今も変わりはない。「新潮45」に対するネット上での攻撃は、まさに「左」が「右」と同じ型にはまってしまった具体例だったと思う。
右/左、保守/革新では収まらない
近年、論壇誌や総合月刊誌は売れ行き減で凋落(ちょうらく)が叫ばれ、「新潮45」も例外ではなかった。実は、それが「新潮45」休刊の本当の理由だという人もいる。
10月12日、新潮社の佐藤隆信社長は、「新潮ドキュメント大賞」「小林秀雄賞」の贈呈式の場で挨拶(あいさつ)に立ち、「執筆者の方には原稿料をお支払いするチャンスが減ってしまい、申し訳なく思う」と、招待された書き手たちに詫(わ)びた。この件を知った当初ぼくは、批判の引き金となったLGBTについては触れず、争点をズラそうとしたのではないかという疑いを持ち、その思いをある親しいノンフィクション作家に話した。
彼女は、「私も、その授賞式に呼ばれてたんですが」と言った。
「私たちにとっては、それが死活問題なの。私も、次号かその次に『新潮45』で書くことになっていたんだから」
今回の騒動で、最も割りを食ったのは「新潮45」の執筆者たちである。佐藤社長が何よりもまず、そのことを詫びたのは出版社の代表として当然のことだったのだと、ぼくは思い直した。坪内の「書き手を越えて媒体に責任を求めるのはお門違い」とも整合する。
ノンフィクションは、取材が命である。取材には時間がかかる。
取材の途中経過を、時には連載という形で掲載できる雑誌は、彼ら彼女らにとって、ノンフィクションを書き上げるための資金源なのだ。雑誌はノンフィクションの揺籃(ようらん)なのである。その揺籃が失われ、ノンフィクションの生産が滞ることは、欺瞞(ぎまん)に満ちた現代社会を生きるわれわれにとって、非常に不幸なことである。
読み物としても、ぼくはあるときからノンフィクションはフィクションよりも面白いと確信している。いかに才能がある作家の手になるものでも、フィクションは一人の人間の頭が創造した世界。
一方でノンフィクションが描く世界は、そこに登場する多くの人間の思いや営みが積み重ねられたものだからである。そこには大団円もなく、予定調和もない。
書店店頭で、報道で、主に賑(にぎ)わすのは、芥川・直木や本屋大賞といった文学賞であるが、ノンフィクション作品に送られる賞も数多くある。
講談社、新潮社、小学館など大手出版社はそれぞれの社名を冠した賞を持っているし、大宅壮一、開高健といった個人名のノンフィクション賞もある。サントリー学芸賞を含めてもいいかもしれない。
ノンフィクション作品の魅力を訴えたく、ぼくはノンフィクション賞受賞作、時には候補作もカウンター前の話題書棚で紹介している。扱う内容は多様だから普段はあちこちのジャンルに散らばっている力のあるノンフィクション作品が一堂に会すと、壮観で、売れ行きもいい。
おそらく、「右/左」、「保守/革新」といった二元的な図式には収まりきらない社会の現実を、そのような二元性に絡み取られずに描く本たちが、読者に新鮮な驚きと問題意識を生み出すからだろうと思う。
それらの本を繙(ひもと)くとき、何か、より大きな存在に寄りかかることによって身の安全を確保した上での、セクト主義的な「正義」の(ある意味では近親憎悪的な)争いが、いかにもちっぽけなものに見えてくるのである。
2021年10月25日更新 (次回更新予定: 2023年10月02日)
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