言論のアリーナ

第11回 公開対決の場

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

60万部突破の理由

百田尚樹の『日本国紀』 の新版が文庫で11月16日に刊行され、12月20日には箱入りの〈愛蔵版〉(文庫の[新版]と内容は同一)が、完全予約受注生産(シリアルナンバーつき)されるという。

「大増量150ページ? 65万部突破のベストセラー歴史本『日本国紀』が、著者こだわりの超大幅加筆により、文庫版と単行本・愛蔵版になって生まれ変わりました!」との謳(うた)い文句が踊る新刊案内が、10月に幻冬舎から届いていた。

元本の刊行は2018年11月。翌年1月、ぼくは2回にわけて1万字余りの書評(百田尚樹『日本国紀』は歴史書ではなく「物語」)を「ウェブ論座」に寄稿した。

ぼくが1万字超を要したのは、『日本国紀』にしっかりと向き合い、本文を引用しながらきちんと書評したかったからだ。この本には、まずネット上に、賛否双方から多くのコメントが寄せられたが、百田尚樹の強烈な個性のバイアスがかかった印象批評が多かったからだ。

ぼくはあえて百田のそれまでの言動と切り離して、この本があらゆる年齢層に広く読まれた理由を探りたかったのである。

おそらく、その理由の第一は、冒頭の次の一言にある。

「日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はありません」(『日本国紀』p2)

この一文が、今の多くの日本人に、その経済的隆盛に影が差し、かつては謳歌(おうか)した世界での高い地位が失われていくことを否めない時代を迎えたこの国の人々に快感を、満足を与えることは間違いない。

その前年、中国・朝鮮を貶(おとし)め、その結果日本を持ち上げるケント・ギルバートの『儒教に支配された中国人と朝鮮人の悲劇』(講談社+α新書)が版を重ね、40万部に達したように(これについても「ウェブ論座」に寄稿した。「K・ギルバート氏の本で心地よくなってはならない」)。

「私はここに、日本における『天皇』の不思議な力を見る思いがする。いわゆる権力とは別次元の存在として、日本の歴史に常に目に見えない力を及ぼし続ける。それが天皇なのだ」(『日本国紀』p32-33)

「日本はこの万世一系の皇統により、『世界最古の王朝』であると、世界の国々から畏敬と脅威をもって見られている。中国の史書にも、明らかに日本の天皇に対して一種のコンプレックスを抱いているような記述が出てくる」(同p34)

百田は、日本が素晴らしい歴史を持っている理由を「天皇の力」「万世一系の皇統」に見る。

実はそのことは、書名『日本国紀』に「紀」という文字を使ったことに、すでに現れているともいえる。

「紀」は、「古事記」の「記」に対して「日本書紀」の「紀」である。「紀」は、「日本書紀」が範とする中国の史書では、英雄譚(えいゆうたん)である「列伝」に対する天子=支配者の事績をしるしたものである「本紀」の「紀」である。

だが、百田によれば、本家中国の「天子」は、日本の天皇にコンプレックスを持っている。

何故なら、中国の「天子」の系統は、時代によってその度に寸断されているが、日本の天皇は、「万世一系」だからだ。

一方百田は、武烈天皇と継体天皇のとき、皇統の断絶があったとする古代史学の世界で有力な説をあっさり受け入れている節があり、より強力な「万世一系」論者にネット上で批判されている。

百田には、こうした論戦に深入りするつもりはないようだ。

「誇るべき歴史」

日本史学上のさまざまな異論・異説への言及に踏み込まない理由として、百田は、本書を「日本の通史」であるからだと弁明している。確かに多岐にわたる異論・異説に一々言及、論評していたら、「通史」は書けない。

それはその通りだと思うが、「万世一系」を「世界最古の王朝」の根拠とするならば、本来「武烈天皇から継体天皇」の問題をスルーすることは到底できないはずだ。それをできるのは、百田にとって、実は日本の古代史の真実などはどうでもよいことだからではないか? 古代史だけではなく、中世史―近世史の真実も。

「通史」と言いながら、500ページにわたる本書の約半分が、幕末から現代に当てられている。

確かに、実際の年数とページ数を対応させる必要は、必ずしもない。遠近法的に言っても、現代に近い時代の叙述が大きくなることは、むしろ自然であり、中学・高校の日本史の授業が、多くの場合「時間切れ」となり、戦前期まで、あるいは昭和にも入れない(あえて入ろうとしない)ことに比べて、百田は誠実であるといえるかもしれない。

だがその「誠実さ」は、百田が近現代史に自らの主張をあからさまに盛り込むためのものだ。

秦郁彦(はたいくひこ、現代史家)も『百田尚樹「日本国紀」の真実』(別冊宝島編集部編、宝島社)で、次のように言っている。

「古代から中世、明治維新のころまでは、まあまあ無難にかいてある。私は悪くないと評価しています。しかし昭和に入ってくると、思い込みやイデオロギーが強く入ってきて、もっと疑問を持って書いてもらわなくてはならないところが、そうなっていない」

江戸時代までは、「前史」なのだ。百田が本当に書きたい『日本国紀』は、明治維新から始まる。

だが、その「前史」にも百田のテーマ、「日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はありません」が通奏低音のように響いている。言い換えれば、「前史」は、「素晴らしい歴史」を構築するために都合のよい「事実」を拾い百田自身の解釈を施し、読者に後半に向けたサブリミナル効果を与えるためにある。

百田があからさまに自説を埋め込む近現代史のいわば傍証として、「前史」において日本の強さ、優秀さ、偉さが強調されるのである。まず、「強さ」。

「太子も自国の力がわかっていたからこそ、強気な手紙をしたためたのだろう。朝鮮半島の国々が、中国に対しひたすら平身低頭の外交を伝統としていたのとは正反対である」(p40)

「そこで私は大胆な仮説を述べたい。百済(くだら)は日本の植民地に近い存在であった、と」(p46)

などの叙述にはじまり、秀吉の急死がなければ、日本軍は朝鮮半島を制圧して明(みん)をも窮地に追い込んだ可能性は高く(p156-159)、江戸時代に鎖国などせず積極的に海外進出(侵略)政策を取っていたら、「世界有数の鉄砲保有国だった日本の兵力をもってすれば、東南アジアを支配下に収めていた」(p171)と書かれている。

それは、「(16世紀)当時の日本人が当時の日本人がヨーロッパの鉄砲と火薬の技術をたちどころに吸収し、量産化に成功した」(p147-8)ほど「優秀」であったからであり、その「優秀さ」は江戸時代にも及ぶ。

「庶民が純粋に知的な愉(たの)しみとして数学を勉強した」国など世界中見渡しても他になく、幕末には「蘭学や医学を教える私塾が全国にあり、向学心に燃える若者が通った。江戸時代の日本は非常に教育水準の高い国だったのだ」(p186)

文化面でも、「平安時代の文学が女性たちによって紡がれた」こと(p70)や「二十世紀のヨーロッパに生まれた表現主義や象徴主義の前衛芸術の思想を数百年も先取りした」枯山水の石庭を、日本人の「優秀さ」の例として挙げている。

そして「偉さ」の証左として、「源平合戦で、市民の犠牲者が出たという記述はなく」(p90)、「強盗や山賊はほとんどおらず、京都から江戸まで女性が一人旅できた江戸時代の治安のよさは、同時代のヨーロッパでは考えられない」(p191)ほどであり、「ヨーロッパや中国では当たり前のように行われてきた民衆の大虐殺がまったくないのは、誇るべき歴史」(p64)と断言する。

他者の目を忘れ去るという危機

ここまで来ると「ほんまかいな」と言いたくなるが、百田にとってもひとつひとつの言説を検証してはおらず、「大胆な仮説」「事実かどうかは不明」「記述はない」「一説によると」「ともいわれる」といった表現が頻出する。そもそも、それぞれの論述に、史料を呈示・参照することはない。

後半部、全体の4割強を明治以降の近現代史には、「一説によると」などの断りは姿を消し、百田は自説を高らかに表明する。それは、強い天皇制支持、「大東亜戦争」肯定、反共、反新聞から構成される。

1930年代の中国「進出」は、西洋列強の経済封鎖への対抗策であり、アジア侵略の意図はなかったと断言する。遡って韓国併合も同様であり、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行われたわけではないという。

日本は国際会議の席上人種差別撤廃を主張した最初の国であり、「大東亜戦争」は、アジアを蔑視し植民地化した西洋列強からアジアを解放する「正義の戦争」であった。残念ながら日本は敗けてしまったが、戦中に西洋を追い出した奮戦が、アジア人に自信を与え、脱植民地―独立へと導いたと言うのである。

日本古代から近世の「物語」に込められたサブリミナル効果が、ここで効いてくる。強く、優秀で、善良な日本こそ、アジアのリーダーたるべきであり、実際そのように振る舞ったという、おぞましいばかりの優越感が炸裂(さくれつ)する。

なればこそ百田は、東京裁判による断罪、日本国憲法、先の戦争を日本の侵略戦争と見なす戦後知識人たちを徹底的に批判する。それらの通念を覆さないと「日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はありません」という百田のテーゼが、戦後日本に関しては当てはまらないからである。

東京裁判によって戦争についての罪悪感が日本人の心に植え付けられ、「共産主義者に影響されたGHQの占領政策は、その後の壮大な『歴史戦』の端緒となった」(p432)とされる。

「共産主義者に影響されたGHQ」とは、いやはや大胆な形容であるが、百田は大真面目である。そんなGHQを受け継いたのが、戦時中追放されていた学者、知識人、そしてマスメディアであり、戦後を「素晴らしい歴史」の例外にした元凶である彼らを、強烈な反共主義者百田尚樹は「共産主義者」と一括(ひとくく)りにするのである。

おそらく百田にとっては、「右」も「左」も、「西」も「東」も、日本の「国体」を汚さんとするものは、すべて「敵」なのである。

中でも百田が激しく敵意を抱くのが、新聞である。日露戦争後の日比谷焼き打ち事件の原因も、五・一五事件の犯人らの減刑を訴えて結果的に二・二六事件を誘引したのも新聞であり、満州事変から太平洋戦争まで国民を扇動したのも新聞だというのだ。

度を過ぎた新聞批判は、2015年の「沖縄二紙は潰さないといけない」などの発言まで続いている。

「当代一のストーリーテラー」を自負する百田が、自慢の巧みなストーリーテリングによって「日本通史」を書き上げた『日本国紀』がベストセラーとなったことを踏まえて、われわれが最も警戒しなければならないのは、読者が百田の書く日本の「素晴らしい歴史」に酔いしれ、自国の「強さ」「優秀さ」「善良さ」を過信し、他者を、他者の目を忘れ去ってしまうことである。そのことこそが日本を危機に陥らせると、知るべきなのである。

予想以上の初速

ちょうど1年後の2019年11月、再び気になる本が刊行された。『反日種族主義 日韓危機の根源』(李栄薫〈イ・ヨンフン〉編著、文藝春秋)である。

新刊便で着荷したこの本を見た瞬間、「これは飛びつく読者がいるかも」と思った。初速は予想以上で、最初から購入を決めていたと思(おぼ)しきお客様が、一直線にカウンター前の話題書棚のこの本に向かい、購入していく光景を、ぼくは何度も見た。

他の書店でも同様であったらしく、11月半ばに出たこの本が、年内に40万部まで増刷されたと聞いた。

韓国の経済学者の編著書が、どうして日本でこんなにも多くの人を惹(ひ)きつけるのか? 背景には、タイトルにも含まれる「日韓危機」がある。本書は、韓国の「反日種族主義」から派生する誤った歴史認識・歴史教育が、日本を見る目を歪めていると糾弾する。

「植民地」時代、日本は韓国に、言われているほどひどいことをしたわけではない、と言っているのである。

「反日種族主義」とは何か?

編著者李栄薫によれば、その根源には韓国のシャーマニズムがある。

シャーマニズムには善と悪を審判する神は存在せず、「丸裸の物質主義と肉体主義」(『反日種族主義』p24)であり、韓国人は、「民族」というより、隣人を必ず悪とみなす「種族」と呼ばれるのがふさわしい、そうした韓国人の本質が、今日の反日感情を醸成しているとの見立てである。

日韓関係に緊張をもたらした「徴用工問題」も、「この国の嘘の文化は、ついに司法まで支配するように」(p19)なった結果だという。

戦前の渡日者はより高い所得とよりよい職場を目指していたのであって、1944年9月以降の実際の徴用でも、「奴隷として強制連行されたとか酷使されたという今日の通念は、「1965年以後、日本の朝鮮総連系の学者たちが作り上げたでたらめな学説」(p23)と言い切る。

朝鮮半島内での徴兵への応召も、時の支配者に追随した「志願兵」であり、さらに、日本軍慰安婦も韓国に既存の(そして戦後も存続した)公娼制度の再編成にすぎない、むしろ恥ずべきは韓国内の公娼制度の存在である、とする。

われわれ日本人の認識からも考えにくい日韓関係史観であり、より徹底した日本の免罪であって、その3件では厳しく非難された日本にとっては「ありがたい」解釈である。

明らかに朝鮮半島の人たちを苦しめた日韓併合からの一連の出来事に関して日本を免罪する論調は、歴史修正主義者が牽引(けんいん)する日本の「保守」勢力を喜ばせ、暗に陽に「ヘイト本」を支持するそうした人たちによって、「ほら見ろ、韓国人自身も言っているじゃないか!」と利用されるであろうことは、想像にかたくない。

何より韓国の人々の多くが、このような解釈に肯(がえ)んずるとは思えない。しっかりと過去の事実に向き合わなければならないわれわれ日本人も、自分に都合のいい言説だけに目を向けて、安心することは許されない。

静かに繰り広げられる戦い

『日本国紀』も『反日種族主義』も、日本人が中国、韓国ほかアジア地域の国やその地域に住む人、そこを出自とする人を誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)することをテーマとした本ではない。だから、「ヘイト本」とはいえないかもしれないが、「ヘイト本」が撒(ま)き散らす思想、主張を下支えする本であることに間違いはない。

その売れ数を考えても、ぼくはこうした本にこそ、あからさまな「ヘイト本」より危険だと思っている。その危険な本たちを隠すのではなく、むしろ明るみに晒(さら)して、真正面から批判する。いわば、対決する。

その両方を見てもらって読者に判断してもらう。「ウェブ論座」は会費課金制だから、なかなか読者の目に触れる機会はないかもしれないが、気持ちの上では公開対決のつもりだし、ときにはプリントアウトして店頭に掲示することもある。そうした公開対決の場としての書店を、ぼくは「言論のアリーナ」と呼ぶのである。

そのときに忘れてならないのは、ぼくが決して徒手空拳(としゅくうけん)ではないことだ。「言論のアリーナ」には、必ず助太刀(すけだち)を申し出てくれる本たちがいる。

ぼくは彼らの代表(レプリゼンタティヴ)、といより媒体(メディア)であり、実際には戦いは静かに佇(たたず)んでいる本同士で繰り広げられるのである。

『反日種族主義』では、朝鮮における土地の収用も、強制的な収奪ではなく、「日本の民法、商法、各施行令、民事訴訟法など23の法律を朝鮮にそのまま適用した、合法的なものであった」とされる。(p57)

そして、「日帝が土地調査事業を実施し全国の土地の40パーセントを収奪した」と書く韓国の歴史教科書を、「我が祖先のことを、所有権意識を持たない、申告が何かも知らない善良な種族として捉えた」と、逆に批判するのである。

それに対して、『「大東亜」を建設する 帝国日本の技術とイデオロギー』(アーロン・S・モーア、人文書院)は、同じ事象を次のように解釈して記す。

「朝鮮ではよく知られている土地収用法には、本当の意味での第三者による仲介はなく、政府当局に訴える以上に紛争の解決を議論する機構もなく、公正な価値や異なる補償基準を求めるための訴訟への言及もなかった。補償と住民移動の過程で、植民地当局は強制的な土地買収を合法化するための手段として法を適用し、官僚的手続きを通して住民の抵抗を発散させたのである」(『「大東亜」を建設する』p230-231)

本国の法律を勝手に他国に適用すること自体が、植民地主義的暴力というべきで、軍隊を進駐させた国とされた国の取引は、たとえ形式上法律を介したとしても、著しく非対称なものであったと考える方が自然であるから、日韓併合後の土地収用/収奪に関しては、『「大東亜」を建設する』の方が、『反日種族主義』よりも妥当であると思う。

『「大東亜」を建設する』は、「日本の『ファシズム』を『テクノ・ファシズム』として再考しようとする意図のもと、技術者の思考・活動に多くの紙幅が割かれている。彼らは、統制派将校や革新官僚の援護のもと、『興亜』の大義に燃えて、ダム、港湾、鉱山開発、重工業地域の布置、工業都市の建設と、国防上の経済的要請を満たすべき『総合的地域計画』の策定、実行に邁進(まいしん)した」(p178)その集大成が、多目的ダムだという。

それらの建造物は戦後も利用されたことにより、植民地政策も悪いことばかりではなかったという、日本の過去を正当化しようと言説は根強く残る。

が、どのような「遺産」も、植民地政策を肯定することにはならない。

「アジア全域にわたる技術に基づく近代的な『新秩序』を実現するという『大義』のためになら、個々の人間など究極的には使い捨て可能なのであって、そうやって各地の強制労働収容所・工場・実験室・『慰安所』・戦場における人間の命の『処理』がまかり通っていた」(p31)からだ。

土地の収奪だけではない。現地の人びとの労働力、慰安婦としての徴用も、植民地支配には不可欠であった。

『反日種族主義』がいうように労働者は自らの意思で求人に応じ、「従軍慰安婦」は形を変えた朝鮮の公娼制度であった、と総括することはできない。少なくとも、収奪・徴用した側である日本が、言うべきことではないだろう。

「『反日種族主義』日本語版の刊行に同意したのは、このことによって両国の自由市民の連帯が結成され強化されるならば、これ以上望ましいことはない、と思ったからです。隣国と分業し、通商し、協力し、競争することこそが自由人の真の生活姿勢であり、一国を先進社会に導く基本動力です」(p4)

『反日種族主義』の「日本語版 序文」に書かれた李栄薫のこの言葉そのものに、異存はない。だが、この言葉が本心から発せられた願いだとすれば、そして、その願いを現実のものとするためには、日本の読者は、この本をむしろ批判的な目で読んでいくことが必要なのだ。

2021年11月25日更新 (次回更新予定: 2021年12月25日)

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