本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
推理ドラマさながらの獄中記
2021年11月13日(土)、ジュンク堂書店難波店は、コロナウイルス感染予防のための緊急事態宣言発令を受けて、約4.5カ月凍結していた店頭でのトークイベントを再開した。再開トークの登壇者は、今年6月に刊行された『長東(チャンドン)日誌』(東方出版)の著者、李哲(イ・チョル)であった。
1948年10月に在日韓国人二世として熊本県に生まれた李哲は、中央大学卒業後、「半日本人」のような自分を抜け出、真の韓国人としての主体性を回復するため、1973年に高麗(コリョ)大学大学院に留学する。
ところが、当時の朴正煕(パク・チョンヒ)軍事政権の韓国では、北朝鮮との緊張関係の中、当局による「スパイ狩り」が横行、特に日本からの留学生が疑われ、1975年末、李哲も、韓国中央情報部によってスパイ容疑で逮捕される。
長く厳しい取り調べ・拷問(ごうもん)の末、李哲は心ならずもありもしない罪を自白し1977年に冤罪(えんざい)による死刑が確定した。拘置所で出会った人々が次々と処刑されていく中、李哲は13年もの獄中生活を送ることになる(1979年無期刑に、1981年20年刑に減刑)。
今、李哲は、「本当に、恨みは感じていないのです」と言う。
「獄中生活を送らなかったら、韓国をこれほど深く知ることはできなかったでしょうから」
獄で出会った「一人一人が韓国社会の最底辺でうごめいている人たちの典型でもあるし、そのような人たちが集まって韓国の民衆をなしているのだ。だからその一人一人の話は何よりも貴重な民衆現代史なのだ」と李哲は書いている。
長い獄中生活で、李哲は、同時代の韓国と韓国人の真の姿に触れ、図らずも「韓国人として真の主体性の回復」という、留学当初の目的を果たしていったのである。
やがて李哲は、かけがえのない仲間たちとともに理不尽で過酷な処遇に怒りを爆発させ、獄中闘争へと果敢に挑んでいく。無法な暴力行為が所外に漏れたことによって立場を危うくした矯導所(ギョドソ)副所長を追い詰めていくくだりは、優れた推理ドラマのクライマックスシーンさながらだ。
獄中の李哲を支え奮い立たせたのは、間違いなく婚約者閔香叔(ミン・ヒャンスク)であった。
自身も2年半の服役を強いられた後、彼女は李哲を救い出すために奔走、獄中闘争では「塀の外」で重要な役割を果たした。
出所後「13年間も待たせて、ごめん」と言う李哲に、閔香叔は、「私は、13年間あなたを待っていたのではない。13年かけてあなたを取り戻したのよ」と応えた。
金大中(キム・デジュン)、文益煥(ムン・イクファン)牧師、徐勝(ソ・スン)など、われわれ日本人にも馴染(なじ)みのある名前も多く登場する李哲の獄中記は、韓国人民が民主化を勝ち取るまでの韓国現代史の陰画である。
李哲が仮釈放で出所したのは、1988年10月。
前年1987年に「6.19民主化宣言」を全斗煥(チョン・ドゥファン)が受け入れて権力移譲、長く続いた軍事政権にようやく終止符が打たれた結果であった。
韓国と日本のタイムラグ
1987年末には大統領直接選挙が実現。金大中、金泳三(キム・ヨンサム)を抑えて盧泰愚(ノ・テウ)が、第13代大統領に就任する。
同じ時期日本では、「革命の時代」は去って久しく、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてられながら、ひたすら経済発展に勤(いそ)しんでいた。多くは、海峡の向こうでの韓国民衆の激しい闘いを知ることもなく。
1945年、大日本帝国の野望が崩れ去り、朝鮮半島の人々が解放の日を迎えて四十有余年、世界を二分した「東西冷戦」は、解放されたはずの半島を分断して、色濃い影を落とし続けたのである。
一方皮肉にも、無条件降伏した日本は、アメリカの全面的進駐と占領政策によって国土の分断を免れ、早々に民主化と経済成長の道を歩み始めることができたのである(その影には、日本在住のまま突然日本国籍を剝奪された在日韓国朝鮮人の苦闘の歴史がある)。
その、日本と韓国の大きなタイムラグこそが、今日に至るまで、両国の行き違いの原因となっているのだと思う。
今なお韓国が従軍慰安婦や徴用工など、植民地時代の「大日本帝国」の犯罪的行為に対して謝罪や賠償を求めるのを、今や「日本国」という別の国になったとでも言わんばかりに、この列島の人びとが「今さら何を」と不誠実にあしらうのも、「解放」後すぐに国を分断され、世界を二分する東西二陣営が参加する「内戦」へと発展し、今も正式な終戦を迎えていないその停戦状態の下、軍事政権が続いた韓国と、旧植民地への責任は清算されたと嘯(うそぶ)き仮初(かりそめ)の「経済的繁栄」に耽溺(たんでき)していた日本では、流れた時間の密度がまったく違うことによるのだ。
また、往時の責任をいささかでも感じている人でも問題を「解決済」の三文字で事を済まそうとするのは、その「解決」が、韓国民衆が抗(あらが)い続けた軍事政権との間で交わされたものであること(2015年の、慰安婦問題の「最終的かつ不可逆な解決」を謳〈うた〉った日韓合意の時の朴槿恵〈パク・クネ〉大統領は、いうまでもなく、1965年の「日韓基本条約」締結時の朴正煕大統領の娘である)を知らないか、無視するものである。
「軍事政権といえども韓国の政権であることに違いはなく、今の体制との連続性がある」と強弁する人たちは、軍事政権が続いたのは、日本を含め世界中に広がった「東西冷戦」が朝鮮半島に凝縮し、数年間「熱戦化」さえした結果であることを、知らなければならない。
すなわち、今日の日韓関係に関わり、発言するためには、前世紀前半の植民地時代から世界大戦時はもちろん、前世紀後半の歴史も知悉(ちしつ)していることが不可欠なのだ。その知識や、知ろうとする意志のない者がコミット、コメントしようとする時に、隣国への蔑視や差別、ヘイトスピーチやそれに伴う暴力が生まれているのである。
ゴジラとブルース・リー
『反日』(人文書院)の著者レオ・チンもまた、「帝国日本の脱植民地化の失敗と近年のグローバル資本主義下での中国の台頭が、東アジア地域における反日・親日主義の高まりに寄与した」と主張する。
「反日」感情は、戦前・戦中の日本の侵略戦争と帝国主義的支配にのみ向けられているのではなく、戦後の、今日に至るまでのアジア情勢に帰せられる、というのである。
「この問題は、日本の戦争責任にのみ帰せられるものではない。そうではなくて、日本とその旧植民地の双方における『脱植民地化』の欠如こそが、日本の矛盾した植民地性/近代性を抑圧し隠蔽してきたのだ、と私は主張したい。端的に言えば、他の植民地勢力とは違い、日本の敗戦はその帝国の終焉(しゅうえん)を意味した。続く冷戦とアメリカ覇権は、日本の急速な経済復興を助けることで、植民地の傷跡を『忘れる』ことに大いに貢献した。ポストコロニアルな(分断された)国民である台湾と韓国は、日本との国交正常化に調印したことで、日本の軍事的侵略に対するすべての賠償と補償が解決されたとされるものの、これらの国は真摯で深い反省に基づく政治的和解よりも経済的な必要性に駆られていた。この不完全で宙吊(ちゅうづ)りにされた脱植民地化と脱帝国化の結果、これらの地域には、根強い反日感情が残存している」(『反日』p51-52)
チンによれば、「脱植民地化」の欠如の原因は、大日本帝国の終焉の仕方にある。
「植民地における独立運動によって帝国が滅んだフランスやイギリスとは異なり、帝国日本の瓦解は敗戦によってもたらされた。この特殊な帝国の終焉は、脱植民地化の失敗に寄与する二つの帰結をもたらした。『中国人ではなくアメリカ人に負けた』という認識、『東アジア地域において日本の帝国主義が及ぼして問題や脱植民地化の問題が、日本の敗戦と非武装化とひとまとめにされた』こと」(同p36)
加藤典洋(文芸評論家)の『敗戦後論』(ちくま学芸文庫)も参照しながらチンはゴジラに「象徴的反米主義」を見て取るが、ゴジラが日本のアメリカ観の象徴だという見立ては、ゴジラの両義性を思えば腑(ふ)に落ちる。
最初未知の怪獣で、日本(の伝統的な象徴物)の破壊者として出現したゴジラは、シリーズ化されて回を重ねるとともに、いつしか(意志的にではないにせよ)人間の側に立って別の怪獣と闘うようになる。
そして、ゴジラの象徴的な反米主義とともに戦後の東アジアにおける脱植民地化の失敗を特徴付ける欲望と幻想のもう一つの軸として、ブルース・リーの象徴的な反日主義が挙げられている。ブルース・リーは、日本だけではなく欧米でも熱狂的に迎えられた。
「リーが演じる役は各々の卓越した技能を見せつけ、敵を叩(たた)きのめし、観客は賞賛と喝さいの咆哮(ほうこう)で応える。そして、この技術の顕示は、しばしば、そしてきわめて特徴的に、シャツを脱ぐことを伴ってなされる。この脱衣によって、中国人を弱弱しく女性的で封建的な『東亜病夫(とうあびょうふ)』と見る西洋の見方を脱ぎ捨てるのだ」(『反日』p58-59)
〈ブルース・リー〉は、近代以降中国を弱者扱いして当たり前のように侵略してきた「西側諸国」への反撃の先触れであったのかもしれない。
反日/親日を決定づけるもの
実際、中国は20世紀の終わりから21世紀にかけてグローバル市場に積極的に参入、発展を続け、今やアメリカに次ぐ経済大国である。
こうした中国の台頭もまた、「東アジア地域における反日・親日主義の高まりに寄与した」と捉えられる。ここで言われている「新日主義」の主体は、台湾である。
台湾総督府の設立は1895年だから、日本の植民地であった期間は韓国よりも15年ほど長い。にもかかわらず今日の台湾では、親日主義が反日主義を上回っているといわれる。
日本に渡ってジャーナリストとして活躍している人も多く、「森宣雄(『台湾/日本―連鎖するコロニアリズム』インパクト出版会、2001年)が主張するように、黄文雄(こう・ぶんゆう)や金美齢(きん・びれい)のようなかつての台湾独立運動家たちは、日本による支配を批判していた従来の立場を変え、日本の新保守主義の代弁者となった。森によれば、この極端な転向は1990年代以降の台湾の政治的な民主化が主な原因であり、台湾の民主化によって在日の独立運動家の存在意義が低下したことが背景にあるという」(『反日』p144)
ここでも、「反日/親日」は、その時の社会情勢に強く影響されている。
台湾の「親日」には、背景として「解放」後のこの国が直面した、特異な歴史的事情がある。
「日本ならびに国民党の支配を体験した『本省人』の世代で共有される台湾と日本の『親密性』は、植民地主義そのものとはあまり関係がない。むしろ、独裁者であった蒋介石(しょう・かいせき)が先導した国民党政府による『ポストコロニアルな植民地化』と関連している。
日本への親近感は、慈悲深い日本の植民地支配よりも国民党の暴虐的な体制を反映する、明らかにポストコロニアルな現象である」(同p203)
要するに、台湾では、植民地時代を知る人たちでも、韓国や中国に比べて日本人に対する親密性が強いのは、台湾での日本の植民地政策がより穏やかなものであったからではなく、日本から解放された後、共産党に敗れて中国から渡ってきて統治した国民党政府の体制が、より暴虐的であったからに過ぎない、というのである。
繰り返すが、日本が世界から見られる見られ方、そしてアジア地域の「反日」や「親日」の感情を決定しているのは、「第二次世界大戦」という「遠い過去」の出来事ではなく(それもまた決して「過ぎ去った」出来事ではないが)、戦後から今日にいたるまでの現代史――チンに言わせれば「脱植民地化」の失敗――、すなわち誰も「無関係、責任なし」とは言えない歴史的事実の集積なのである。
朝鮮半島とベトナム戦争
アジアの現代史のあり様を決定づけた「東西冷戦」が、時には「熱戦」と化したことは、先にも言った。その時に言及したのは朝鮮戦争であるが、もう一つの大きな「熱戦」である「ベトナム戦争」にも、韓国は深く関わっている。
朴正煕大統領は、ベトナム戦争に5万人の軍隊を派遣し、ベトナム戦争の泥沼に苦しむアメリカに一目置かせていた。だが、派兵の最大の動機はアメリカにおもねったり、恩を売ることではなかっただろう。
朴正煕自身、ベトナム戦争への帰趨(きすう)にきわめて大きな関心を持っていたはずだ。間違いなくベトナムもまた「南」が勝たねばならない、「南」に勝たせなければならないと、朴正煕は考えていたに違いない。
ソ連が支援する「北」、アメリカが支援する「南」という構図は、朝鮮半島とまったく同じだったからだ。
1968年、ベトナム戦争の真っただ中に、韓国大統領の官邸、青瓦台(チョンワデ)で、朝鮮半島の再度の「熱戦」化に直結しかねない事件が起こっている。
「1月21日の夜10時、北朝鮮の武装特殊部隊は31人が青瓦台襲撃を試みた。一国の大統領の首を狙った朝鮮戦争以後、最も無謀な敵対行為だった」(コ・ギョンテ『ベトナム戦争と韓国、そして1968』人文書院、p286)
「パク・チョンヒにとって、ベトナムがアジアの共産化を防ぐ第二戦線だったならば、キム・イルソンには朝鮮半島がベトナムの第二戦線だったのである。
結局、1月21日野青瓦台への攻撃は『南朝鮮革命』攻勢の一つであり、ベトコンへの側面支援という二つの目的を持った人民軍精鋭部隊による『ベトナム参戦』だった」(同p49)
朝鮮半島も、「ベトナム戦争」の戦場の一つだったのである。
その3週間後の1968年2月12日、大韓民国海兵第二旅団(青龍部隊)第一大隊第一中隊による、南ベトナムクアンナム省のフォンニィ・フォンニャット村の住民虐殺事件が起こる。
埋もれた歴史を掘り起こした労作
『ベトナム戦争と韓国、そして1968』は、ハンギョレ新聞記者コ・ギョンテが、半世紀前の事件の生存者を粘り強く探し当てて取材を重ね、「74人の民間人が南朝鮮の軍人から虐殺された」(フォン二・フォン二ヤット村の入り口のガジュマルの木の前の慰霊碑)とされるこの事件を、埋もれた歴史の中から掘り起こした労作である。
「キエムル哨所(しょうしょ)のバンカーの上からフォンニィ村の横へ移動する韓国軍を発見したのは午前10時ごろだった。彼らが村に侵入して住民を攻撃するとは想像もできなかった。そこに住んでいる南ベトナム民兵隊員の家族や親せきは一人二人でなかった。当然、民兵隊員らは、迅速に侵入して韓国軍を止めて住民らを救助しなければならないと主張した。米軍将校は、黙って待つように、危険だと言った。韓国軍隊員たちが興奮状態なので、一歩間違えれば衝突が起きると」(『ベトナム戦争と韓国、そして1968』p95-96)
韓国軍兵士たちは、村に潜むベトコン(南ベトナム政府に抵抗する南部ベトナムの政治・軍事団体である南ベトナム民族解放戦線)の発見、殲滅(せんめつ)に血眼だったのかもしれない、あるいは「戦友たちの死を目の前にして、理性を失ったまま手当り次第に民間人に向かって発砲することもないわけではない」(同p230-231)、しかし、交戦地域においても民間人の虐殺は、ジュネーブ条約違反の戦争犯罪である。韓国軍は虐殺の事実を否定した。だが、真実は、いつか現れる。
コ・ギョンテがダメ元で電話をかけた当事者の小隊長は、「あー、30年以上も過ぎたあの日が、結局は世間に知られるのだな、と戦慄が走った」と語ったという。
「ベトナム戦争民間人虐殺問題は、分断国家である韓国で平和の感受性を刺激し、覚醒させる重要なモチーフになるとともに、新たな人権イシューとしてのポジションを占めた。帝国主義統治の加害者として日本を批判する前に、必ず振り返らねばならない、痛みを伴うが直視しなければならない、一つの歴史的鏡となった」(同p341)と、著者コ・ギョンテは結んでいる。
とても残念なことだが、この言葉を読んで「それ見たことか。韓国だってひどいことをしているじゃないか」と自国の過去を免罪させようとする人々が、この日本には少なからず存在するであろうことは、想像にかたくない。
だが、コ・ギョンテのように、丹念にかつ誠実に自国の戦争犯罪を掘り起こそうとするジャーナリストが、今日本にいるだろうか。それがぼくがこの本を読み終えた時の正直な思いである。
自国の過去の負の遺産を掘り起こし、真摯(しんし)にそれと対峙する作業こそが、同じ気概を持つ他国の人々とつながり、「反日」とそれへの反動の双方と闘っていくための条件ではないかと思うのである。
2021年12月24日更新 (次回更新予定: 2022年1月25日)
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