言論のアリーナ

第13回 沖縄の戦後史を学ぶ

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

ベトナム戦争に深くまきこまれ

「第12回 負の歴史との対峙」では、日本の敗戦後約半世紀、20世紀後半の韓国と日本が、海峡一つ隔てただけでありながら、まったく様相を異とする歩み方をしたことについて、今日の日本人が無知無理解であることが、韓国との様々な軋轢(あつれき)、行き違いの原因であると強調した。

が、日本の47都道府県の中で、沖縄だけは例外である。沖縄は、韓国と同様、1968年当時ベトナム戦争に深く巻き込まれていたからだ。沖縄の戦後史もまた、日本(本土)の人間が改めて学び直さなければならない。

そのことなしに、例えば「普天間基地の辺野古移設は沖縄の問題であり、我々は関係がない」などという認識を持っていたとしたらまったくの的外れと言うほかなく、それは自分たち自身についての無知も曝(さら)け出しているというしかない。

というわけで、ぼく自身の勉強もまだ足りていないことを恐れず、今回は何冊かの本によって、沖縄の戦後を学びたい。

「1968年1月21日、北朝鮮特殊部隊による韓国の青瓦台(チョンワデ)襲撃未遂事件が発生し、23日には、北朝鮮が米国の情報収集艦プエプロ号を拿捕(だほ)した。

米国政府は事件後に数度に渡って緊急会議を開き、北朝鮮は今戦争を再開することはできないという前提のもとに、プエプロ号の船舶と乗員の無事な帰還を実現するために軍事的、外交的努力を行うことを25日に決定した。米国は航空母艦エンタープライズと、沖縄からのジェット機編隊を含む347機とを動員した。

当時韓国に配備していた米空軍は北朝鮮の約半分でしかなかったため、危機に備えて軍備の増強が行われたのである。沖縄へのB52配備は、この一環として提起された。マクナマラ国防長官は26日に、米本土B52のうち15機を沖縄、11機をグアムへ、追加備することを承認した。

一方、米国は韓国が北朝鮮に対して報復攻撃を行い、朝鮮半島で大規模な武力衝突が起こることを恐れてもいた。ポーター大使は丁一権(チョン・イルグォン)国務総理に対し、米国が北朝鮮に報復を行う意思はないことを伝え、韓国が北朝鮮に対する報復を行わないよう要請した」(成田千尋『沖縄返還と東アジア冷戦体制』人文書院、p180)

冒頭からの長い引用は、「冲縄」を主題とする本のこの箇所が、前回紹介した『ベトナム戦争と韓国、そして1968』が丹念に描いた1968年の韓国についての叙述をほぼ引き写したかのような文章であることが、1968年の韓国と沖縄がベトナム戦争をめぐって一つの圏域の中にあったことを、鮮明に物語っているからである。

韓国が巻き込まれたのは、時の大統領朴正煕(パク・チョンヒ)の事情による面が大きい。

「軍事クーデターによって政権を掌握した朴正煕政権にとって、韓国軍以上に重要な基盤はなく、削減が実施されれば政権の存立基盤が揺らぐ可能性もあったのである。米国政府が韓国軍の削減を提案したことに対し、東南アジアへの派兵を行うことによってこれを防ごうとした」(『沖縄返還と東アジア冷戦体制』p111)

冒頭の引用にもあったように、この年青瓦台が北朝鮮によって襲撃され、北朝鮮―韓国、北ベトナム―南ベトナムの二対は、さながら東西冷戦の楕円(だえん)の二焦点だったのである。

朴正煕大統領の命令によって、多くの韓国人がベトナムに送られ、民間人虐殺という悲劇を生む。その実態と経緯を根気強く掘り起こしたのが、前回紹介した『ベトナム戦争と韓国、そして1968』だった。

沖縄と済州島の二者択一

一方、『沖縄返還と東アジア冷戦体制』には、沖縄の人びとの同じ歴史的状況への反応が、描かれている。

「(1968年)12月4日には嘉手納(かでな)村教職員会が、7日に12時間職場放棄のストライキを行う、と宣言した。同会は村役所、PTA会長、自治労嘉手納基地支部、復帰協嘉手納支部にもスト決行を伝えるとともに協力を申し入れ、各組織とも『B52撤去のためなら反対することはできない』との姿勢を示した。スト宣言は、(1968年11月19日、嘉手納基地での)墜落爆発事故が沖縄戦の記憶を『まざまざと呼び覚ませた』とし、『毎日性こりもなく、尊い人命を殺りくするために嘉手納基地を使わせていることは、私たち自身、ベトナム戦争に協力していることになりはしないだろうか』と加害者意識に立つものであった」(『沖縄返還と東アジア冷戦体制』p208)

冲縄の人びとの行動は、歴史を少しずつ動かしていく。

「ゼネスト(1969年2月4日から)は回避されたものの、沖縄での革新主席の誕生(1968年11月10日、屋良朝苗〈やらちょうびょう〉主席)と、ゼネストが計画されたことは、日米両政府に沖縄返還が不可避だと認識させる結果をもたらしていた。〈中略〉佐藤首相も沖縄でのゼネストと総合労働布令への敵対的な反応が日本の世論に与える影響を懸念し、1969年1月14日のジョンソン大統領との会談で、沖縄返還について年内に何らかの合意をすることの重要性を強調した」(同p218)

一方、「韓国ではこの時期から、沖縄返還後の基地のあり方に注目が集まるようになり、沖縄基地を韓国の済州(チェジュ)島に移転させるという案が提起された」(同p198)。

沖縄と済州島は、米軍基地の所在地として、いわば二者択一の関係にあったのだ。そうなった事情は、第二次大戦後の「東西」対決の最初の「熱戦」である朝鮮戦争に遡(さかのぼ)る。

「朝鮮戦争は1953年7月に休戦状態を迎えたが、同年10月に韓米相互防衛条約が締結されたことにより、当時米国の統治下に置かれていた沖縄は同条約の適用区域ともなった。

この条約は、朝鮮戦争への中国軍の介入により、一刻も早い米軍撤収のための休戦条約締結を重視するようになった米国政府に対し、休戦協定に反対する韓国政府が休戦協定締結に協力する交換条件として提起した結果、締結されたものであった。このことにより、休戦後も沖縄の米軍基地の存在が韓国の安全と直結するような状況が生まれた」(同p51)

翻弄された戦後沖縄

ベトナム戦争をめぐるアメリカのジレンマが、韓国、冲縄という2つの地域に具現している。

「東西冷戦」の一方の主役であるアメリカは、朝鮮戦争、ベトナム戦争を通して共産主義陣営に敗れるわけにはいかない。

かといって、南北朝鮮の対立が、自由主義圏vs.共産圏の熱戦を世界大戦へと拡大していくことは避けなければならない。そんな微妙なバランスの上に、沖縄の米軍基地は存在していた。

冲縄は、太平洋戦争最後の激戦地であり、回避された「本土決戦」を前に米軍が上陸、進駐した地であるが、今日まで続く基地の存在理由は、決して単にその延長なのではない。『ひずみの構造 基地と沖縄経済』(琉球新報社)は、今日の冲縄米軍基地の起源を次のように書く。

「米軍は東西冷戦勃発を背景に1949年、冲縄を米国統治下に置くことを正式決定し、広大な米軍基地の建設を始めた。1950~1952年までに2億7千万ドル以上ともいわれた莫大(ばくだい)な予算を基地建設に投下し、その労働力として冲縄の人びとを雇用した」(p47)

冲縄の基地は建設・拡大は、東西の「熱戦」である朝鮮戦争と並行していた。だから、冲縄の去就は、日米両国の「返す」「返さない」「いつ返す」の交渉で決定できるものではなかったのだ。

冲縄には、日本への返還以外の可能性もあった(そもそも、琉球が「沖縄県」として大日本帝国の一部となったのは、その時点から約100年前のことに過ぎなかった)。

独立をも含めた冲縄の去就に強い関心を持っていたのが、もう一つのアクター、台湾国民政府である。

「1950年代に韓国政府・国府が反共の立場から連帯し、ともに結成したAPACL(アジア民族反共連盟)に『琉球代表』を参加させることで、沖縄を自治・独立の方向に向かわせようとした」(『沖縄返還と東アジア冷戦体制』p97)

韓国と台湾が、共に冲縄独立を目指して手を組む時期もあったのである。中国共産党に追われる形で台湾に移り、その統治者となった国民党政府にとって、「反共」は自身の存続にも関わる絶対的国是であった。

やがて日米が「沖縄返還」に向けて本格的に動き出した時期には、韓国も「沖縄の独立論を主張しても日米両政府の反発を生むだけであって重大な実益はないと判断」(同p229)し、韓国・台湾の「冲縄独立」支援の構図は崩れ去ったが、両国とも沖縄米軍基地のゆくえには常に関心を抱いていた。

「1960年代に入っても沖縄の地位の変化を注視していた国府は、再び米国政府に対し、沖縄の地位の変更がある場合は国府と協議が必要だと申し入れるようになった。佐藤首相は、1967年に数度にわたって国府側にアジアの安全保障に影響を与えない方法で沖縄返還を実現しようとしていると伝え、米国も日本政府が日本と地域全体の安全保障に対する沖縄基地の重要性を理解していると伝えたため、国府側は沖縄返還が基地機能に影響を与えない事に対し、一定程度の安心感を得たと考えられる」(同p221)

このように、日米だけでなく、東アジアの近隣国の思惑に、戦後沖縄は翻弄された。そして、米軍基地は1972年の「返還」後も残り続け、今日の辺野古基地移設問題に至っている。

米国と「本土」資本からの掠奪・蹂躙

同時に忘れてはならないのは、近隣国の思惑といっても、それはそれぞれの国民の総意ではなかったことだ。韓国は東西冷戦下長く軍事独裁国家であったし、台湾も大陸から移ってきた国民党の一党独裁状態が長く続いた。

『沖縄返還と東アジア冷戦体制』の著者成田千尋は、次のように総括している。

「日本国憲法による制約から安全保障を米国に委ねていた日本とは対象的に、冷戦の最前線に置かれた韓国、台湾においては、日米の援助のもとで反共的な独裁政権が長く続いた。

沖縄返還によっても韓国、台湾の安全保障が弱化しなかったといっても、その平和と安全とは、両国の人々の抑圧の上に成り立ったものであり、引き続き加重な基地負担を強いられた沖縄のひとびとの犠牲の上に成り立ったものであった」(p366)

われわれは、今なお残る様々な未解決問題や軋轢に相対するために、現在の国境ごとに線引きを行うのではなく、東アジアを一つの面として歴史を学び直さなければならないのである。

沖縄について、われわれがまず知らねばならないのは、何をおいても米軍基地の歴史と存在理由だろう。

「本土復帰以降も沖縄経済は、米軍基地がなければ成り立たないという誤解を解く」ことをテーマとした『ひずみの構造 基地と沖縄経済』でさえ、「戦後、冲縄の経済復興は米軍基地の建設工事で始まった」(p47)と書かざるをえないように、元々資源も少なく黒糖生産ぐらいしか産業と呼べるもののなかった上に、戦火に壊滅的な打撃を与えられ、人命と土地を奪われた沖縄に、経済復興のその足がかりはほとんどなく、そうした特需には大きな期待が寄せられたであろう。

だが、「複数年にわたる工事を一括発注する米軍の発注方法」は、県内企業の手には負えず、「百億円を超える工事から準大手ゼネコン西松建設(東京)と大手ゼネコン大林組(東京)の二社が落札している」(同p44)。

米軍基地のための土地はその所有者からの借り上げだったが、地代は決して十分なものではなく、といって借り上げ拒否も事実上不可能だった。

「人々の生産基盤であった土地は軍用地料のみを生み出す場に変質し、戦後沖縄の経済構造を替えて」いった。自らの産業基盤を失った沖縄の人びとは、基地建設工事やその後の基地労働に職を求めるしかなかったのである。

その結果、「復帰以来、県経済の柱は3K――公共工事、観光、そして基地収入であると言われ」(同p82)、基地収入は冲縄経済の3本の太い柱の1本のように語られてきた。

が、続く箇所では、「確かに復帰時の1972年、基地関連収入は県民総所得の15.5パーセントを占めていたが、その比率は年々減り、基地従業員数も1972年の1万9980人から2009年には9014人と半減した。那覇新都心に代表される米軍基地返還跡地の再開発は大きな経済効果を上げ、雇用を生んでいる」(同p82)と報告されている。

時代が下り、基地自体の比率が減るとともに地代の総計も基地従業員数も減っていった。ただし、それは決して終戦前への復旧ではなかった。

基地のための土地接収に生活基盤を奪われた多くの人が海外に移民していった。また、近年は毎年上昇する軍用地料が注目され、「2005年ごろから軍用地の県外への売買が見られるようになり、最近はインターネット上での情報で取引がされるなど、一種の金融商品化している」(同p8)。

冲縄の経済資源は、米軍と「本土」資本の双方から掠奪(りゃくだつ)・蹂躙(じゅうりん)されてきたことを、われわれは忘れてはならない。

真の意味での観光資源

もう一つの柱である観光産業(公共工事は、基地・観光双方のインフラ形成となった)は、特に戦後になってその成長を期待され、資本と人が投下された。のちの「海洋博」において「沖縄イメージの三種の神器」と呼ばれた「海」「亜熱帯」「文化」は、観光資源としてもちろん戦前から存在したが、いかんせん航路の輸送力に限界があった。

「大阪から乗船した場合は90時間半、神戸から乗船した場合でも68時間半を要し、運行回数も限られていたため、観光を冲縄の産業と位置づけるのは難しかった」(櫻澤誠『沖縄観光産業の近現代史』人文書院、p29)

船舶の輸送力の増大や航路の改善(のちには航空路の誕生)に、(アメリカ人を含めた)戦跡訪問や戦前に冲縄からハワイに移った移民やその二世の「里帰り」という新しい需要も加わり、戦後の冲縄の観光産業は本格的に発展を始めた。

土地を収奪されたことが主な産業であった農業に打撃を与え、工業発展の地盤もなかった冲縄にとって、観光産業こそ「頼みの綱」であったともいえる。

「観光収入は、1960年代初頭においてすでに糖業にせまる位置に」あり(同p73)、「日本(本土)からの観光入場客数は1958年には1万2139名だったのが、1966年には6万6922名へと急増する」(同p209)

そして、「復帰/返還時点の1972年には糖業も含めた第一次産業全体を凌駕(りょうが)するまでに成長していた」(同p125)。

しかし、冲縄の観光産業には影の部分もあった。返還前には日本国の法律は適用されず、「沖縄には売春禁止法がないために、至るところにセックス地帯がある。赤線、青線と沖縄じゅうに氾濫している」(同p151)などと「ガイドブックには売春地帯に関する露骨な内容が記載され、観光客相手の売春地帯設置まで取りざたされていた」(同p209)。

そして観光産業は、どこまでも観光客の志向に大きく依存する不安定さを持つ。

「1975年7月20日(日)から1976年1月18日(日)までの約半年間、海洋博は日本を含めた36カ国・3国際機関の参加によって開催される。

しかし、入場者数が目標の450万人に対して、約349万人と大きく下回り、過剰投資を行った建設業や、ホテル・飲食業などの倒産が相次ぐなど、直後には『海洋博不況』と呼ばれる深刻な経済不況が冲縄で起こった」(同p223)

さらに、観光客は時代状況に敏感に反応する。

21世紀に入り、「アメリカ同時多発テロ、アフガニスタン戦争、広大な米軍基地を有する沖縄は危険である」という風評被害で修学旅行をはじめキャンセルが相次ぎ」(同p264)、「近年の歴史問題や領土問題などによる韓国・中国との対立もまた、観光業の阻害要因として懸念されるようになってきている。2019年、日韓関係の冷え込みによって韓国からの観光客が減少」(同p269)、そして今日、コロナウイルスの影響をまともに受けている。

それでも、観光産業の発展に伴走しながらそれを支えるインフラも整備されていった。特に、総体としては「失敗」と言えるかもしれない「海洋博」についても、「観光産業の拡大に必要不可欠な飛行機などの旅客数、ホテルなどの客室数、バス・タクシー・レンタカーなどの移動手段といった基礎整備を、海洋博への投資によって短期間で解決した」ことは事実である。

そして、何よりも1976年の「沖縄県観光開発基本計画」(沖縄県労働商工部)に見られる、冲縄が数々の試行錯誤や失敗の蓄積から得た、次の観光観こそ、未来に向けた最大の収穫だと思うのである。

「観光客をその地域における一人の生活者として把握すれば、地域における生活の豊かさこそが、真の意味での観光資源であるといえる。この生活の豊かさを引き出し、その地域の生活空間や文化が対等に他の地域と交流し得るような状態こそ真の意味の観光である」(同p228)

経済急成長した中国や韓国からの客人の爆買いを寿(ことほ)ぎ、果てはカジノ建設に期待を寄せながら「観光立国」を唱えるこの国の政治・経済権力が、そのような豊かな観光観を持っているとは、とても思えないのであるが。

2022年1月25日更新 (次回更新予定: 2022年03月25日)

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