本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
好評だった「おきなわ本」フェア
前回のコラム(第13回 沖縄の戦後史を学ぶ)では、韓国に続いて沖縄に言及した。
韓国と沖縄は、20世紀後半の「東西冷戦(ときに朝鮮半島やベトナムでは熱戦)」に翻弄された歴史を共有し、「東西冷戦」によって「民主化」を抑えられてきた。そのことを知らずに、今日起こっている問題と向き合うことはできないと論じた。
しかし一方、日本「本土」の人間にとって、冲縄の問題は「東西冷戦」に帰責できる問題ではない。その意味で、返還前の米軍基地と観光産業の歴史を中心に論じた前回の叙述は、ウチナンチュや冲縄の問題に真摯(しんし)に関わっている人たちには、まったく物足りないものだったに違いない。
そこでは、在沖米軍基地への日本「本土」の人たちの責任、言い換えれば冲縄に対する「本土」による差別の問題が、語られていない。「本土」/韓国・冲縄というスラッシュを引いたのが「本土」人=ヤマトンチュであり、そのスラッシュを今もヤマトンチュは引き続けているという構図が、明確にはされていなかったからである。
ジュンク堂書店難波店では、2022年の年明けから2月の中旬まで、沖縄出版協会主催「おきなわ本」フェアを開催した。大半が沖縄所在の16社が選りすぐった約200点を並べたフェアは開始早々好評で売上もよく、何点もの本が早々と完売した。
フェアで展示した商品のほとんどが普段、在庫がないものであったことも大きな理由だと思う。
在沖の出版社は、「本土」の大手取次と直接取引関係を結んでいないところが多いからだが、それでも地方・小出版流通センターを通じて仕入れは可能であるから、「ない本はない」をセールスポイントとして展開してきたジュンク堂書店としては、そのことを、無意識のうちに引いてしまっていたスラッシュとして反省しなければならないだろう。
「おきなわ本」フェアと連動して、1月22日(土)に2回、1月23日(日)に2回、2月6日(日)に1回と3日間、計5回にわたりReal&Onlineトークを開催した。
1月の4回は、コロナ禍の拡がりを考慮して、店頭でのトークイベントをZoomによって同時配信した。2月6日(日)の第5回「首里城 象徴となるまで」の登壇者お二人は、沖縄からのオンライン参加で、それを店頭大型モニターで放映、あわせてオンラインで配信したのだった。
第5回の、現在修復中の首里城からの実況もとても興味深かったが、何より印象に残ったのは、1月23日(日)の第2回「大阪関西から見る冲縄 冲縄から見る関西」である。このトークには、大阪市大正区で冲縄関係の図書を集めた、「関西冲縄文庫」(1985年開設)を運営する金城馨(かなぐすくかおる)が登壇した。
「朝鮮人、沖縄人お断り」
金城は、大阪に渡ってきたウチナンチュが受けたあからさまな差別を語る。その語りの大筋は、著書『冲縄人として日本人を生きる』(解放出版社)から変わっていない。
「冲縄の人が大阪にくるようになったころ、わかりやすい形で現れるのが、職工募集、従業員募集と書いてある張り紙の但し書きに、『朝鮮人、琉球人お断り』と書いてあったそうです。露骨な差別によって迎えられたのです。
戦前、仕事を求めて大阪に出てきた冲縄の人たちにとって、働く場所を探して歩いても『職工募集、但し朝鮮人、琉球人お断り』と書かれていた。アパートを借りようとしても同じです。『空き部屋があります』と書かれていてもやはり『朝鮮人、琉球人お断り』と書かれていた。その差別は、戦後にかけても続いていたといいます」(『冲縄人として日本人を生きる』p19)
農業以外にこれといった産業を持たなかった冲縄は、昭和初期の大恐慌によって大きな打撃を受ける。沖縄戦による荒廃はさらに大きなダメージを冲縄に与え、戦後は基地への農地の接収と働き手の動員が産業復興を遅らせる。
それらの時代を通じて、常に多くのウチナンチュが、生きていくために、「本土」に「移民」せざるを得なかった。「移民」先は、すでに航路が開かれていた「本土」第二の産業都市、大阪が中心だった。そこで「移民」が受けた洗礼が、「朝鮮人、琉球人お断り」だったのだ。
1歳のとき、両親とともに尼崎に「移民」してきた金城馨も、やがてそのような差別の実態を目の当たりにする。
親たちの世代は、仕事を得るため、ウチナンチュのアイデンティティを捨て、苗字(みょうじ)の読みを変え(カナグスク→キンジョウ→カネシロ)、漢字まで変えてしまう人たちもいた(金城→岩城、具志堅→志村、比嘉〈ふぃじゃ〉→日吉)。
「日本人に迎合する。日本人に合わせる名前に変わっていくわけです。
何故か、それは日本に力があるからです。差別と暴力の日本社会の中で生きていこうとすると迎合しなくては生きていけない状況になるのです。対等に生きていこうとすると潰されかねないのです」(同p24)
金城は、親世代の苦渋の選択の理由を理解しながらも、そのように差別に「屈する」やり方に違和感を覚え、「迎合」しない、差別そのものと闘う道を取ろうと決意する。父の世代と違って自らの姓を「カナグスク」と名乗り、1975年には沖縄青年の集い「がじまるの会」を創設、大阪市大正区内で冲縄伝統のエイサー祭りを開催した。
「壁」を尊重する「異和共生」
「そのときの先輩世代の反応は、『今までエイサーをやれなかったけど、やってくれてありがとう』でも『よくやったな』でもなく、『恥さらし』と怒鳴って石を投げてくるというものだった」(同p31)
「『冲縄を隠してきたのにお前たちは何やってんだ』『日本人の前で冲縄を出すな』そういう生き方を先輩たちはしてきたんだなとわかりました」(同p34)
エイサー祭りは、同書刊行の2019年時点で、44回続く(ただし、44回めは台風の影響で「中止祭り」に)。
「最初、200人くらいでやっていた祭りが今は、2万人が集まる祭りになっています。4割くらいは冲縄人だと思いますが、どうしてこんなにたくさんの人がくるのかととまどってしまう部分があります」(同p39)
そして、「今は何を考えているのかわからない人たちがいっぱいきていることに意味があると思っています」と、金城は言う(同p39)。
参加者の半分以上がヤマトンチュとなっていくにしたがい、金城自身のエイサー祭りを見る目が変化していった。
「最初の祭りの200人で集まったときには『冲縄人としての誇りを取り戻すんだ』、『差別を跳ね返すんだ』と考えていました。それから大分、変わってきました。変わっていくことで祭りは持続しているといえます。同じ考え方だったら祭りは続かないと思います」(同p39)
エイサー祭りの本質である冲縄の先祖供養の思いを、本土の人間が共有することは難しい。思いを無理に同一化しようとすると、必ずマジョリティ(ヤマトンチュ)の力が勝り、その本質が崩されてしまう。むしろ、「わからない」こと、違いを自覚することが大切なのだ。
「そのために壁が重要になるのです。壁をきちんと持った上で対応しないと違いを維持できません。壁がなかったらだんだんマジョリティに混ざっていくわけですから。違いを維持するということは壁があってできることです」(同p57)
金城の「逆転の発想」である。ウチナンチュとヤマトンチュが共生するためには、「違いを維持すること」が大切であり、「壁がある」ことこそ重要だというのだ。
一般に、「壁」はコミュニケーションを阻害する存在とイメージされる。しかし、金城は「そうではない」と言う。
「壁がなくなって共生するというのは同化」であり、「それはマジョリティにとっては有利で、マイノリティにとっては、まったく不利益だ。真に共生するためには、壁が、それも2枚の壁が必要だ」というのである。
「壁と壁の間にすき間を空ける。そのすき間がコミュニケーションになる」(同p57)
「壁と壁の間」でのコミュニケーションこそ、共生のための必須条件なのだ。
この道を、金城は「異和共生」と呼ぶ。
「基地引取運動」へのバッシング
金城が今取り組むのは、米軍基地の県外移設である。
10年以上前の民主党政権時、鳩山首相(当時)が掲げた「最低でも県外」という約束は脆(もろ)くも頓挫(とんざ)し、普天間基地の移設先は沖縄県内の辺野古とされ、その後の自民党政権下、移設のための工事が、沖縄の人たちの反対・抵抗を無視して進められている。
鳩山が掲げた「最低でも県外」という約束は、理由のあるものだった。面積が日本全体の0.6パーセントしかない沖縄に、米軍基地の7割以上が存在している。これは明らかに異常であり、「本土」が米軍基地を沖縄県に押しつけているといえる。
この状況は、あまりにも長く続いてきたがために、多くの「本土」人には半ば常態と受け止められてしまっており、今「本土」に基地を移すとなれば、「本土」の人間は、「沖縄に基地を押しつけられた」と感じるだろう。
しかし、沖縄の米軍基地の割合は、決して戦後の常態であったわけではなく、時代が下るにしたがって、どんどん大きくなってきたのである。
「なぜ冲縄に米軍基地が集中したのか。
それは、『本土』から冲縄に基地が『県外移設』された結果です。その背景には、日本人の冲縄人に対する『差別』があります。日本人が、冲縄人に基地を押しつけてきたのです。1950年代、少なくとも全国33都道府県に米軍基地がありました(図1参照)。当時は『本土』に9割の米軍基地があり、冲縄は1割でした。」(大山夏子〈冲縄を語る会〉『沖縄の米軍基地を「本土」で引き取る!』コモンズ)
そのことを認識している「本土」の人間は、少ないのではないか? ここでも、思い込みでなく、事実を知らなければならない。
2019年5月に『沖縄の米軍基地を「本土」で引き取る!』をテーマにトークイベントを開催した際に登壇してくれた松本亜希(市民団体「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動」代表)も当初は次のように「本土で基地を引き取る」など、とんでもないと思っていた。
「沖縄からの『基地を持って帰ってほしい。引き取ってほしい』という声を初めて聞いたのも、この時期です。とても驚き、到底受け入れられないと思いました」(同p31)
しかし、冲縄の米軍基地の歴史と実態を知り、彼女は「沖縄差別を解消するために沖縄の米軍基地を大阪に引き取る行動」の中心人物となる。
最初に聞いたときに「基地引き取り」など到底受け入れられないと松本のように思うのは、「本土」の人間の自然な反応だろう。
福岡からトークに参加してくれた里村和歌子(本土に沖縄の米軍基地を引き取る福岡の会代表)は言う。
「基地引取運動が誕生して以来、『右』からも『左』からもバッシングが止みません。なかでも『左』からが目立ちます」(同p35)
特に米軍基地そのものに反対であるという人ほど、基地引き取り運動を批判しているのだ。
「基地引き取り運動をやっている人たちがいるけれど、私も、ああこれはまずいと思った。基地は絶対悪だと思うから」(蟻塚亮二〈ありつかりょうじ、精神科医、著書に『沖縄戦と心の傷』『3.11と心の災害』(大月書店)がある〉『世界』2019年6月号安彦良和〈やしひこよしかず、漫画家〉との対談で)
ヤマトンチュとウチナンチュの、冲縄の米軍基地についての認識の落差が、明らかに見て取られる。この落差こそ、実は双方が共に反対しているはずの日米安保と冲縄の米軍基地の存在を是とする「敵」を利するものなのだ。
この落差を埋めるのは、「本土」が冲縄に基地をおしつけてきた歴史、そして、今8割の日本人が日米安保を支持しているという事実をしっかりと認識することである。
とはいえ、認識したとしても、その事実が消えるわけではない。「本土」が沖縄に基地を押し付けてきた年月を、元に戻せるわけではない。
埋めたとしても、落差は落差である。その落差を当然視するところにはもちろん、その落差を見ないですまそうとするところにも「差別」がある。
そこで、金城馨のいう「異和共生」が重要となる。
差別される側から差別する側へ
ヤマトンチュはウチナンチュに米軍基地を押し付けてきた、ウチナンチュはヤマトンチュに米軍基地を押し付けられてきた、基地について正反対の属性を持つことを各々が認識して理解し、その違いを共有した上で、「壁と壁の間」でコミュニケートする、相手の立場を尊重しながら、よりよい関係を築けるよう話し合うことのできる場=「壁と壁の間」をつくっていく。これが、「異和共生」の真髄である。
ここで多くの方に知っておいてほしいのは、金城が「ヤマトンチュ/ウチナンチュ」を固定的に、二項対立的に捉えているわけではないことである。
ウチナンチュがヤマトンチュの立場に立ってしまうこともある、すなわち差別構造の中で「差別する側」「差別される側」は、相対的であるということも言っているのだ。
金城は、1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会の「人類館」について、著書『冲縄人として日本人を生きる』にも書き、ジュンク堂書店難波店で行った「おきなわ本」フェアのトークイベントでも言及していた。
「人類館解説趣意書(明治36年1月14日)」は次のように述べる。
「内地に最近の異種人種すなわち北海道アイヌ、台湾の生蕃(せいばん)、琉球、朝鮮、支那、印度、爪哇(ジャワ)等の七種の土人を傭聘(ようへい)し其の最も固有なる生息の階級、程度、人情、風俗、等を示すことを目的とし各国の異なる住居所の模型、装束、器具、動作、遊芸、人類、等を観覧せしむる所以(ゆえん)なり」(『冲縄人として日本人を生きる』p121)
「内地」周辺に住まう人々を「土人」呼ばわりした上に「動物園の動物」のように見世物扱いする。今では考えられない文言である。かような扱いに当時のウチナンチュも即座に抗議した。
「1903年4月7日、琉球新報は抗議の社説を掲載した。ここに冲縄人の人類館事件は始まり、5月19日、『人類館陳列婦人の帰県』で冲縄人の展示された人類館事件はひとまず終わった」(同p122)
「沖縄人」だけでなく、「中国人は会期前から抗議(事件化)し、その結果、展示予定から外され、朝鮮人はしばらく展示されたが、その後外された」(同p120)
だが、この事件について語る金城の意図は、歴史的事実の弾劾ではない。先の「人類館事件はひとまず終わった」に次のように続けていることからも、それがわかる。
「しかし続きがある。冲縄人がいなくなった人類館を今度は見る側に移動することで、冲縄人の人類館事件は新たに始まったのである」(同p122)
中国人、朝鮮人、沖縄人が「展示」から外された一方で、他の「土人」の「人類館」での展示は続いていた。自分たちが「陳列」されなくなったことで満足するのは、「見られる」側から「見る」側に、差別される側から差別する側に移動しただけで、差別の構造は手つかずのままなのだ。
その状況を金城は「沖縄人の人類館事件は新たに始まった」と記している。差別に加担、あるいは放置した歴史的事実をウチナンチュもまた反省しなければならないという、厳しい姿勢である。
もちろん、より反省しなくてはならないのは、「人類館」を企画したヤマトンチュであり、それを当たり前のように観覧したヤマトンチュである。そして、その図式は、今日にまで続いていると、金城は指摘する。
「冲縄の米軍基地の存在は、基地を押しつける側と押しつけられる側、そしてそれを見ている側との関係でなりたっているといえる。それは『人類館』と重なる。
基地をつくり押しつける側とは国家であっても、それを実行し続けるということは国民の何らかの同意がなければ不可能である。その国民の多くは傍観(見る)することで同意している。国家の暴力を可能にしている現状と、辺野古新基地建設の強行の責任は日本人ひとりひとりにある」(同p123)
金城は、「基地引き取り運動」に参加する今日のヤマトンチュについて語っている。
「基地引き取りという行動は、彼ら彼女らが日本人としての責任を自覚したときから始まる。新たに起きている辺野古新基地建設という、日本政府による暴力『事件』の共犯者であるという立場でいることをやめようとしている」(同p123)
「本土」の人びとが、沖縄の米軍基地について、そしてその根底にある日米安全保障条約について、傍観者として「見る」のではなく、主体的に考え行動するときにはじめて、金城がいう「異和共生」の条件が整うのである。
2022年3月25日更新 (次回更新予定: 2022年05月25日)
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