言論のアリーナ

第15回 アイデンティティがもたらすもの

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

歴史学における修正と「歴史修正主義」

1995年2月に「ナチスの『ガス室』はなかった」という寄稿記事が内外からの大きな批判を浴び、掲載誌『マルコポーロ』(文藝春秋)が廃刊に追い込まれたことには、本コラムの第4回「歴史修正主義とベストセラー」で触れた。

『マルコポーロ』の当該号の発売日は、1月17日、まさに阪神淡路大震災が起こったその日だった。約2カ月後、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」が起こり、人びとはバブル期のまどろみから一気に目を覚まされ、世紀末に向かって不安が社会を覆っていった。

1997年には「新しい歴史教科書をつくる会」が設立され、日中・日米戦争から戦後日本の、それまでの一般的な歴史記述を「自虐史観」として激しく攻撃し始めた。

「南京虐殺」や「朝鮮人強制連行」、「従軍慰安婦」といった戦中の日本軍の犯罪行為を「無実であり、無根」と否定する強弁は、「ナチスの『ガス室』はなかった」の論法と軌を一(いつ)にしている。一方『マルコポーロ』廃刊と共に解任された花田紀凱(はなだかずよし)編集長は、のちに『Will』『Hanada』という保守系雑誌(あえて言えば右翼誌)の編集長として活躍する。1995年は、時代の大きな曲がり角であったといえる。

ナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)のユダヤ人大量虐殺は、日本でも多くの人が知る歴史的事実である。「ナチスの『ガス室』はなかった」の寄稿者は内科医で、歴史研究者ではない。アウシュヴィッツやマイダネクの強制収容所を訪れたとはいえ、記事そのものは収集した英文書籍を元に書かれたものだったという。

欧米ではその時点ですでに、ナチスのユダヤ人虐殺を否定する「歴史修正主義」が登場し、少なからぬ人びとが同調していた。日本では「新しい歴史教科書をつくる会」やその周辺の言説が「歴史修正主義」と呼ばれはじめるが、それには、欧米に「お手本」があったのである。

『歴史修正主義』(中公新書)の著者武井彩佳(ドイツ現代史研究者)によると、歴史学とは、多くの史料、証言を蒐集(しゅうしゅう)してそれらが何を語っているかを吟味し、ときには考古学的発掘によって物的証拠を手に入れながら、歴史の実像に一歩一歩近づいていく作業である。

新史料などの発見によって、それまでの「歴史」が修正されることは、歴史学において珍しいことではない。

武井は言う。

「そうした歴史の修正が『歴史修正主義』になったとき、何が本来の歴史学とは違ってきているのか?」

武井は、「主義=イズム」としての「歴史修正主義」を、次のように説明、定義する。

「どうやら歴史修正主義の問題は、政治的な意図の存在にあるようだ。歴史の修正の目的は、政治体制の正当化か、これに不愉快な事実の隠蔽(いんぺい)である。現状を必然的な結果として説明するために、もしくは現状を批判するために、歴史の筋書きを提供する」(『歴史修正主義』p16)

歴史学の修正は、史料の発見、視点の変化によって、あくまで過去の事実の解明に向かうが、「歴史修正主義」の「修正」は、「政治体制の正当化」や「不愉快な事実」の隠蔽を目的とするのだ。

近代的な「歴史修正主義」の嚆矢(こうし)として、武井は、19世紀末から20世紀にかけての「ドレフュス事件」を挙げる。ユダヤ系のフランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスが、軍の機密をドイツに漏洩(ろうえい)したスパイだと仕立て上げられた事件で、エミール・ゾラ(フランスの文学者)が冤罪(えんざい)として告発し、裁判のやり直し=修正を求め、フランス国内を二分する騒ぎとなった。

そして、冤罪であることが確実視されると、今度は右派勢力が、その判断を再度「修正」しようとした。前者が歴史学の修正、後者が「歴史修正主義」の「修正」に近い。前者はあくまで事実の解明を目的とし、後者は自身の政治的立場を守ることを目的としているからだ。

「言論の自由」が適用されないホロコースト否定論

時代は下って20世紀前半、アメリカのハリー・エルマー・バーンズ(歴史家)が第一次世界大戦勃発に関してドイツ免責を主張、第二次世界大戦後は陰謀論からホロコースト否定に傾く。

やがて、ドイツやフランスでも、ナチス・ドイツを擁護する言説が生まれ、1970年代には、ホロコースト否定論が無視できない影響力を持ち始める。

ホロコースト否定論がなぜ1970年代に登場したのか?

武井は二つの要因を挙げる。一つは、世代交代。戦争体験者が退場し、戦後世代が社会の主流となり、多くの国が1960年代末の学生運動などによる争乱と、社会変動を経験したこと。

もう一つは、国際的な要因。1967年、イスラエルが六日間戦争(第三次中東戦争)で勝利し、軍事強国となったこと。あわせてイスラエル国家のパレスチナ人抑圧、イスラエルのドイツへのホロコースト賠償金請求が、反発を生んだ。

明らかに、動機の主要な部分は、1970年代当時の世界情勢と各国の思惑であり、第2次世界大戦中の歴史的事実の解明ではない。

だから、証拠や論の整合性は不要なのである。

「歴史修正主義」は、「問いを立てるが、証明はしない。主張する本人が証明できないことを知っており、証明するつもりもないからである」と武井は言う。

「『可能性』を繰り返すことで、人々の認識の揺らぎを呼び起こす」(『歴史修正主義』p113)

彼らの意図にとっては、それで十分なのだ。

疑念だけを表明するそうした「論」は、日本でも「南京大虐殺はなかった」論や「従軍慰安婦はいなかった」言説でおなじみのやり方と言える。だが、欧米と日本には、重要な違いがある。

欧米では、ホロコースト否定論を「歴史修正主義」とは峻別(しゅんべつ)する。それは、「彼らの主張が歴史の再検証とは無縁だから」(同p7)だ。だからこそ、欧米ではホロコースト否定論に「言論の自由」を適用しないし、法によって罰することもできるのである。

一方、「日本では『歴史修正主義』という概念の幅はかなり広い。……歴史修正主義と否定論の明白な区別がないため、意図的に歪曲(わいきょく)された歴史像が一つの歴史言説として社会の一部で流通している」のである(同p73)。

確かに、日本には、特定の言説を罰する法は、ない。逆に言えば、欧米においては「ホロコースト否定論」は特別な意味合いを持つ言説なのだ。なぜだろうか? それは、ホロコーストの犠牲者の多くがユダヤ人であったからではないか? ユダヤ人が欧米の人びとにとって、

特別な「民族」であったからではないか?

66年も読み継がれている『ユダヤ人』

岩波新書青版『ユダヤ人』(J-P.サルトル著、安堂信也訳〈1956年1月刊行、2019年10月第74刷発行〉)は、66年以上読み継がれているロングセラーである。

章立ては、「Ⅰ なぜユダヤ人を嫌うのか」「Ⅱ ユダヤ人と『民主主義』」「Ⅲ ユダヤ人とはなにか」「Ⅳ ユダヤ人問題はわれわれの問題だ」。

哲学者は何かを論じる時、まず論じる対象の定義を提出するのが通例である。ところが、この本では、「ユダヤ人とはなにか」という問いが、本の半ばになって初めて現れるのだ。

この奇妙な章立ての順序が、サルトルの主張を顕(あらわ)にしている。それは、サルトルが、反ユダヤ主義者と「民主主義」者こそ、ユダヤ人をユダヤ人たらしめていると考えるからだ。

古代イスラエルがローマ帝国に滅ぼされ、「ユダヤ人」は、中東からヨーロッパ各地まで広い範囲に離散する。キリスト教圏となったヨーロッパにおいて、ユダヤ人はキリスト教の祖であるとともにキリスト殺害者の後裔(こうえい)であるという両義性を帯び、19世紀に国民国家の時代を迎えても民族としての定住地は与えられず、市民社会からは疎外され、あるいは疎外されるべき存在(中世以来キリスト教徒には禁じられた利子を取る金融業者)=必要悪として、居場所を与えられる。

長きにわたるディアスポラという民族属性はサルトルが生きた20世紀には、デフォルトとして社会に認識され、ユダヤ人差別を推進した。その終点こそ、ナチスによる「最終解決」=ホロコーストである。そして、フランスの人びともそれに加担した。

その責任を、第二次世界大戦時のドイツによる占領に帰することはできない。それ以前も、それ以後も、フランスには多くの反ユダヤ主義者が存在していたからである。

周知の通りユダヤ人には、アルベルト・アインシュタイン(ドイツ出身の理論物理学者)、アンリ・ベルクソン(フランスの哲学者)、チャーリー・チャップリン(イギリス出身の映画俳優)をはじめとして、学問や芸術で高い業績を残した人が多い。だが、反ユダヤ主義者にとっては、それさえも軽蔑、差別の理由になる。

「反ユダヤ主義者にとって、知性はユダヤ的なものである。したがって、安心して、それを軽蔑することができる。ユダヤ人の持つ、他のすべての特性も同様である。それらは、常に、平衡の取れた凡庸さに欠けているユダヤ人が、そのうめ合せに用いる補償手段にすぎない。自分の地方に、自分の故国に根を下ろし、二千年の伝統に支えられ、祖先伝来の叡智(えいち)を受け、試練を経た習慣に導かれている本物のフランス人には、知性など、必要がない」(『ユダヤ人』p22)

また、古くから金融業に徹してきたことにより、裕福なユダヤ人もたくさんいる。反ユダヤ主義者は、そのことをも、攻撃の道具にする。

「多くの反ユダヤ主義者、多分そのほとんどは、都会の小ブルジョワ階級に属している。官吏や、会社員、小商人などで、財産などすこしも持っていないのである。そこで、彼等は、ユダヤ人に向かって立ち上ることによってこそ、所有者としての自覚を突然持つことができるのである」(同p25)

これらの「論理」がかなりの強弁であることが、反ユダヤ主義者にとっての「ユダヤ人」の必要性を示している。

「(ユダヤ人が皆殺しにされてしまったら、)それまで、ユダヤ人の不正な競争のせいにしていた自分の失敗も、いそいで、なにか他の原因に帰するか、自分の中に探ってみるかしなければならなくなり、憤激と、特権階級に対する陰鬱(いんうつ)な憎悪に落ち込みかねない。このように反ユダヤ主義者は、その敵を打ち砕こうとしていながら、しかも、生かしておかなくてはならないという不幸に、悩まされているわけである」(同p28-29)

いわば、「ユダヤ人」は、反ユダヤ主義者の必要によって「構築」された概念なのだ。

サルトルの結論

サルトルは、「ユダヤ人種というものの存在を否定しはしない」、ただし「それ以上いい言葉がないので、仮に人種的特徴とわたしが名付けるのは、非ユダヤ人より、ユダヤ人において屡々(しばしば)見られる一定の遺伝的な身体構造である」(同p71)という。

しかし例えば、「その縮れて黒い頬髭(ほおひげ)。それはたしかに身体的特徴の一つである。しかし、特に私の気を引くのは、彼がそれを伸ばしているということである。それによって、彼は、ユダヤ共同体の伝統に結びついていることをあらわしているのである」(同p75)。

ユダヤ人をユダヤ人と同定するに際して用いられる特徴の多くは、生物学的というよりも、文化的なそれなのである。

そして、「もし、彼等すべてが、ユダヤ人という名を持つに値するとしたら、それは、ユダヤ人として共通の状況を持っているからである。すなわち、彼等を、ユダヤ人として取扱うどこかの共同体の中に生きているからである。ひとくちに言えば、ユダヤ人とは、近代国家のうちに、完全に同化され得るにもかかわらず、各国家の方が同化することを望まない人間として定義されるのである」(同p79)とサルトルは結論づけている。

「国家に同化され得るにもかかわらず、国家が同化を望まない」人間と、反ユダヤ主義者がユダヤ人に覆いかぶせる共通の「状況」こそ、「ユダヤ人」をつくり上げるのである。

一方、「民主主義者」がユダヤ人の周囲に見る「状況」は、そうした排除主義的なものではない。「民主主義者」はユダヤ人の味方だが、サルトルは、「なんと情けない味方であろう」と言う。なぜか?

「民主主義者は、すべての人間が、同じ権利を持つと主張し、人権擁護連盟も設立している。しかし、その言明そのものが彼等の立場の弱点を示している。彼等は、ユダヤ人も、アラビア人も、黒人も、ブルジョワも、労働者も知らない。知っているのは、古今東西、常に変わらない人間というものだけである」(同p63)からだ。

すなわち、「民主主義者」がユダヤ人を(も)擁護するのは、すべての属性を取り払った「人間」一般としてである。だから、「民主主義者は、ユダヤ人のうちに、『ユダヤの自覚』、すなわちイスラエルの集合体についての自覚が目覚めるのを恐れる」(同p65)。

結局、ここでもユダヤ人は「ユダヤ人であること」を許されないのである。

その挙げ句、「反ユダヤ主義者は、ユダヤ人が、ユダヤ人であることを非難するのだが、民主主義者は、ユダヤ人が、自分がユダヤ人と考えることを非難しがちなのである。こうして、ユダヤ人は、敵と味方に挟み撃ちされて、なかなか苦しいといわなければならない」(同p67)と、サルトルは言う。

そして、「Ⅲ ユダヤ人とはなにか」という問いに対し、敢然(かんぜん)として簡潔に、次のように答える。

「ユダヤ人とは、他の人々が、ユダヤ人と考えている人間である。これが単純な真理であり、ここから出発すべきなのである」(同p82)

「かつて、国家的でも、宗教的でもあったユダヤ共同体は、少しずつ、それらの具体的性格を失ってしまった」、だから「われわれは、それを、抽象的な歴史的共同体とでも呼んでよかろう」(同p78)と、サルトルは言っている。

ある人を「ユダヤ人」であると判定する、客観的、決定的な証拠は、もはやないのである。 かくして、「ユダヤ人」は「反ユダヤ主義者」によって定義される=存在する――と、弁証法的、構築主義的な議論を展開するサルトルだが、それでも、彼自身の周囲に多くの「ユダヤ人」が存在し、多くがナチスによって殺害されたという事実は生々しく記憶されている。

だから定義にいかに大きなゆらぎがあったにせよ、「わたしは、ユダヤ人種というものの存在を否定しはしない」というのである。

アイデンティティの虚妄

それに対し、『国家と実存』(彩流社)の立川健二(思想評論家)は、バビロン捕囚(ほしゅう)からイスラエルの建国まで、世界史大で「ユダヤ人」の通史を辿(たど)り、立川が嫌う「人種」概念においても、言語共同体という意味でも、「同一性」という、語の本来の意味での「ユダヤ人」のアイデンティティは存在しないことを丁寧に説いていく。

1948年のイスラエルの建国は、いわば「ディアスポラ」伝説の裏返しであり、決して「ユダヤ人」の同一性を担保するものではない。イスラエルの「ユダヤ人」は、アフリカ、アラブ、東西ヨーロッパのさまざまな民族の混淆(こんこう)であって、もはや血統的正統性は存在しない。

言語的出自もさまざまで、だから、イスラエルは「国民語」として、すでに使われなくなって久しいヘブライ語を掘り起こして「現代ヘブライ語」を作り上げなければならなかったのである。彼らの唯一の紐帯(ちゅうたい)はユダヤ教であるが、信仰の度合はさまざまである。

ぼくたちが映画などでよく見かけ、ユダヤ教徒の典型的なイコンと見做(みな)す敬虔(けいけん)な「超正統派(ウルトラ・オーソドックス)」はそもそもイスラエル「国家」を認めていないのだ。彼らにとって、ユダヤの教えを世界中に広めること、すなわち「ディアスポラ」こそ、神が導く道だからだ。

ただし、『国家と実存』における立川健二の意図は、「ユダヤ人」やイスラエルを貶(おとし)めることでは、決してない。パレスチナの先住民への差別や攻撃については糾弾するが、立川の本意は、「ユダヤ人」というアイデンティティの虚妄を暴きながら、油断をすると纏(まと)わりつく「アイデンティティ」を振り払うことであるように思う。

立川とぼくは、1970年代の終わりに成人を迎える同世代である。思えば、われわれが青年期を迎えた時代あたりから、「アイデンティティ」という言葉が巷間(こうかん)に広がっていったような気もする。

1980年代に、さらに広汎に「アイデンティティ」の追求が行われるようになったのは、もちろん、「戦後日本人」という「アイデンティティ」が揺らぎ始めたからである。ぼくの芝居仲間は、自作の挿入歌に「アイデンティティは、キオスクでは売り切れた」という歌詞を入れた。

そうして人びとは、手頃な「アイデンティティ」に安易にすがりつき、あるいは「アイデンティティ」を得ることができずに苦しみ始めた。

「アイデンティティ」に固執することが、さまざまな差別を生み、「アイデンティティ」に振り回されることが人を惑わせる。

立川健二が目指すのは、帰属意識に頼るのではなく、「実存」、「単独者」としての「個人」を生きる実践であり、そのことへの読者の誘惑なのである。

2022年5月25日更新 (次回更新予定: 2022年06月25日)

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