言論のアリーナ

第16回 『脱アイデンティティ』と『自我同一性』を読み返す

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

書店にあふれた「占い」本

「私金星人、あなた何星人?」

「ぼくは、木星人」

「えっ、ウソー。見えな~い!」

いつの間にか日本全国を宇宙人たちが席巻(せっけん)し、初対面でも、互いに自分が何星人かを名乗り合うことが当たり前であった時期があった。1980年代後半から1990年代にかけてのことだったかと思う。今から30年以上前のことである。

約20年前には、日本中が動物園になった。

「私は狸(たぬき)。あなたは?」

「実はライオンなんだ」

宇宙人を席巻させたのは、2021年11月に亡くなった細木数子(占術家)が中国古来の易学、算命学、万象学などをもとに提唱した六星占術であり、日本中を動物園にしたのは、1999年に流行しはじめた「動物占い」である。

「占い」ものは、間歇的(かんけつてき)に大きな流行の波が来るジャンルである。そのたびに、書店現場の風景を変えてきた。書棚には、星人ごとの、動物ごとの性格や運勢を解説する本があふれた。

だが、いわゆる「〇〇占い」の多くが本当に「占い」の名に値するのか、ぼくは常々疑問に感じてきた。亀の甲羅を焼いてそのひび割れ方で未来を予測する中国古代の亀甲占い、あるいは筮竹(ぜいちく)を使った易者など古来の占いでも、偶然そこで発生した結果が、未来予測の種となる。

卜ランプ占いもまたそうで、占いとは、世界を、未来を偶然性に満ちたものとして捉え、同じく偶然性に満ちた行為によって予測するものだったはずだ。

ところが、六星占術も、動物占いも、一時は注目されてもやがて忘れ去られていったその他多くの占いも、さらに言えばそれらよりもずっと長いスパンで人心を掌握している西洋占星術も、生年月日による決定論である。

両者は、真逆の論理で成り立っていると言えるのではないか? そして、ここ数十年の本の売れ方を振り返ると、確かに前者の根強いファン層はあるものの、多くの人は、目まぐるしく意匠を変える後者に靡(なび)いてきたように思われるのだ。

なぜか?

なぜ、生年月日による決定論に多くの人が惹(ひ)かれるのか?

近代以降の人類の歴史は、自由を希求し続ける歴史ではなかったか?

それがどうして、六つや十二個の類型のどれかに自分を当てはめ、自らの性格や相性や生き方を決定づけられて、むしろ安心し、あるいは喜ぶのだろうか?

自分が何者かを、他の誰かに確定してもらうこと、そこに安心と喜びの源泉があったのか? 同じ時期、本気で自分の「前世」を探り、信じた人も多かった。

「アイデンティティ」という概念の起源

ジャン=ポール・サルトル(フランスの哲学者)が「人間は自由であるように呪われている」と言ったのは、そうした占いが流行り出したほんの少し前のことだった。

サルトルはむしろ人間が自由であることに賭けていたのだから、この発言は両義性を持つが、それから数十年後、人々は誰も彼もがその言葉を文字通り受け取って、まさに「呪い」から逃れるべく、自分自身をいくつかの類型の一つに当てはめたのである。

前回のコラム(第15回 アイデンティティがもたらすもの)でぼくは、1980年代以降、「アイデンティティ」という言葉が巷間(こうかん)に広がっていき、人々が「アイデンティティ」を追求し、手頃な「アイデンティティ」に安易にすがりつき始めたと書いた。

星座型の占いの一つ一つのタイプは、まさに手頃な「アイデンティティ」だったのだ。

おそらくは、人々のそうした希求に気づいた上野千鶴子(社会学者)は、2005年に『脱アイデンティティ』(勁草書房)という論集を編む。それは、そもそも「アイデンティティ」とは何かを学説史的に明らかにし、その概念が日本人と日本社会に対して、どのような役割を果たしたかを振り返ろうとする仕事である。

その本の序章、「脱アイデンティティの理論」で、上野は次のように書く。

「人口に膾炙(かいしゃ)しているわりには、というよりも人口に膾炙しているがゆえに、かえって、『アイデンティティ』という概念の起源はよく知られていない。

『アイデンティティ』という概念を初めて使ったのは、フロイト派の社会心理学者、エリック・エリクソン Erik H. Erikson(一九〇二 ─ 一九九四)である。エリクソンが影響を受けたフロイトにとっては、『アイデンティフィケーション identification(同一化)』という用語は重要な概念だが、フロイト自身は『アイデンティティ』という用語を生涯にわたってほとんど使っていない。(中略)『アイデンティティ』の歴史は、思いのほか浅い」(『脱アイデンティティ』p3)

「文芸評論家の江藤淳(えとうじゅん)が、『成熟と喪失』[1967]のなかで紹介したことをつうじて、日本社会に浸透し、定着した」(同p4)。

エリクソンの『アイデンティティとライフサイクル』が『自我同一性』(小此木啓吾〈おこのぎけいご、精神科医〉訳、誠信書房)という邦題名で、日本で刊行されたのは1973年である。さきほど挙げたいくつもの占いブームの到来を準備する時期とも言える。

重要なのは、「アイデンティフィケーション(同一化)」が「アイデンティティ」に先んじていることである。すなわち、「アイデンティティ」とは、終始一貫した、実体的な「同一性」ではなく、何か(他のもの)と同一化することによって獲得されるものだということだ。

「エリクソンはアイデンティティを変化するものと捉えた。アイデンティティは変容し、解体し、再編される対象に対して与えられた名前である」(『自我同一性』p8)

発達心理学者であるエリクソンにとって、「アイデンティティ」は、人間の成長と強く結びついた概念であり、それゆえ、必ず変容を伴う。そして、動的な作業または作用による「アイデンティティ」の獲得は、成功することもあれば、失敗することもある。そのことを、エリクソンは、次のような図式で描き出す。

すなわち、「自己同一性(self identity)」を「個人的同一性(personal identity)」(わたしとは何者であるかをめぐるわたし自身をめぐるわたし自身の観念)と「社会的同一性(social identity)」(わたしとは誰であるかと社会および他者が考えているわたしについての観念」)とに峻別(しゅんべつ)し、「これが一致した状態がアイデンティティが安定した状態であり、このあいだに不一致が起きるとアイデンティティの危機が起きる」(同p6)と、エリクソンは見なしたのである。

すなわち、「アイデンティティ」の安定化のためには、「社会」「他者」の観念が、そしてそれを自らのものとして受容することが不可欠なのだ。

エリクソンは、「アイデンティティ」の「安定/危機」の分かれ目を、主に青年期に見る。青年期に「アイデンティティの安定」を、すなわち「個人的同一性」と「社会的同一性」が乖離(かいり)してしまった状況が「精神病」なのである。

そして、両者の一致が目指されながら未だそこに至っていない状況を、エリクソンは「モラトリアム」と呼んだ。「アイデンティティの安定」の成否は、民俗学や人類学が世界中から渉猟(しょうりょう)する「通過儀礼」の成否と重なる。

自分探し、占い、前世探し

一方、ジャック・ラカン(フランスの精神分析家)の理論においては、「アイデンティティ」への他者の介入の時点は、そもそも「自我(Ego)」の発生段階まで遡(さかのぼ)る。

「ラカンによればエゴとは『境界を定めることも対象を指定することもできない、ひとつの現象』だが、同一化を通じて『主体化』される。同一化には第一次同一化と第二次同一化があり、第一次同一化は『鏡像段階』とも呼ばれ、鏡に映る自己像への同一化をとおして身体の統一性を獲得していく過程であり、第二次同一化とは、言語への参入を通じて『語る主体』へと主体化する過程である。

ところで、両者の過程をつうじて、『主体化』とは『他者になる』過程にほかならない。というのは自己鏡像とは自己の外部にある他者にほかならず、言語もまた自己以前の他者に属する外在的な存在だからである」(『自我同一性』p25)

ラカンは、「自己(Ego)になる」「主体化」とは「他者になる」ことだというのである。一見奇妙で逆説的なラカンのこの主張は、しかし、冷静に自分自身の来し方を振り返れば、納得できる。

「主体」であるとは、ぼくたちが自分自身の規範によって行動することだと言えるが、その規範自体、ほぼすべての場合に、他者から得たもの、他者に倣(なら)ったもの、他者を真似たものだからだ。

高倉健の任侠(にんきょう)映画を見た観客が、映画館を出ると肩で風を切って歩いたという伝承を持ち出すのは、ちと古いだろうか。また、そもそも言語の習得とは、まさに他者の模倣である。

『脱アイデンティティ』の第三章「消費の物語の喪失と、さまよう『自分らしさ』」で、三浦展(みうらあつし、社会デザイン研究者)は、「消費文化」の場面での人々の「アイデンティティ」の変遷を捉えている。

1980年代にパルコでマーケティングや広報を担当していた三浦の分析は、とても具体的でかつ説得力がある。

「明治以来、日本の国民は、近代化、富国強兵という『大きな物語』を共有していた。戦後は、国家主義的なアイデンティティは否定されたが、新たに高度経済成長、中流化という『大きな物語』が登場した。そこでは、戦前のムラと軍隊という共同体が企業という『生産共同体』として再編され、かつその従業員は『消費共同体』としての家族を形成し、二つの共同体が相互に補完しあいながら、社会を発展させる推進力となった」(『脱アイデンティティ』p103)

「大きな物語」には、模倣すべき他者が明確に存在している。1945年までは、文字通りの兵士であり、その後は「企業戦士」である。

「企業戦士」は裏返せば「消費戦士」でもあった。だが、世紀末に近づくにつれ、日本においては、戦争は「遥(はる)か昔」の出来事として忘却されはじめ、高度経済成長時代も終わりを迎える。

「われわれは高度成長期のように『大きな物語』に支えられながら自らのアイデンティティを持つことはできない(だからこそ『最後の絆』として愛国心と愛郷心と歴史教育の復権が声高に叫ばれる。消費がアイデンティティに結びつくということもない。今や、消費者は自らの物語を創出しなければならなくなったのである)」(同p104)

その「自らの物語」の創出衝動が「自分探し」と呼ばれ、占いブームや「前世探し」ブームへとつながっていったのではないか。

分断のスラッシュ

こうした「時代精神」のもう一つの傾向が、「マニュアル志向」である。

「言うまでもなく『自分らしさ』もまたひとつの『小さな物語』である。しかし現実にはその『自分らしさ』という物語を十全に生きることのできる消費者ばかりではない。いや、そうではない消費者のほうが多いのは当然だ。すると、そういう消費者のために消費することの意味(物語)を手とり足とり教えるマニュアルが生まれることになる。

こうして1980年代、『もてる男の子、女の子』という物語を軸にした『ポパイ』『JJ』といった若者向け雑誌が全盛期を迎えた。中でも『ホットドッグプレス』はデートやセックスの仕方を事細かに享受するマニュアル雑誌として人気を集めた」(『脱アイデンティティ』p106)

「しかし、こうしたマニュアル化傾向が極限まで進んでくると、当然のことながら、マニュアル通りに生きる自分と、それに満足できない自分との間に分裂が生じ、『本当の自分』『本当の自分らしさ』への危急をますます強めるという循環構造が生まれ、『自分探し』ブームが拡大することになる」(同p107)

その「自分探し」ブームの拡大が、「日本人」という「アイデンティティ」に行き着いたのではなかったか。

「新しい教科書をつくる会」の誕生は、1997年である。

「日本人」という「アイデンティティ」を身に纏(まと)うのは容易だからである。戸籍を確認すれば、否、多くの人たちにとってそのような手間をかける必要もなく、「自分は日本人だ」という「アイデンティティ」の獲得は容易であろう。容易な分だけ、それは非常に危険なものとなる。

なぜなら、容易に獲得された「アイデンティティ」は十分な内包(定義、属性)を持たず、それゆえ対になる意味を持った集合もないからだ。勢い、全体を自らの集合と補集合に、すなわち「日本人」と「非日本人」にのみ分断してしまう。

「日本人」と「非日本人」との間のスラッシュこそがすべてであり、「非日本人」の中でとりわけ在日韓国朝鮮人を差別し、攻撃するのは、在日の人々が弱者だからであって、新たに移民労働者の立場の弱さを見て取ると、同じように差別・攻撃を仕掛けるのである。

ラカンの議論を思い出そう。

獲得した「アイデンティティ」は、すべて「他者」である。「アイデンティティ」として獲得された「日本人」も、他者なのである。

ことさらに自らが日本人であることを誇り、日本人の美徳を述べ立てる人ほど、その言葉が空虚なのは、だからである。

当然、太くしっかりと引いたつもりのスラッシュも、じつは細い破線でしかなく、吟味すればするほど、消えていく定めにある。そのことを糊塗(こと)すべく、彼ら彼女らは、繰り返しスラッシュをなぞり続ける。

そのなぞり書きは、しかし、空虚な決まり文句でしかない。

そして、空虚であるがゆえに固執するスラッシュに、濃淡のある幅はない。境界に、朝鮮半島の38度線にさえ存在する、緩衝地帯はないのである。白か黒か、白でなければ黒、黒でなければ白、である。

前々回(第14回 差別の相対的構造)でご紹介した金城馨(かなぐすくかおる)の「異和共生」を、思い出していただきたい。

「『壁と壁の間にすき間を空ける。そのすき間がコミュニケーションになる』(『冲縄人として日本人を生きる』p57)。

『壁と壁の間』でのコミュニケーションこそ、共生の道なのだ。

この道を、金城は『異和共生』と呼ぶ」

一人ひとりの人間は、それぞれの出自と経歴から、様々な属性を身に纏っている。具体的な属性を否定することはできない。

大切なのは、それらの属性を「アイデンティティ」として絶対化しないこと、他者とのコミュニケーションの中で、自らの「アイデンティティ」を切り崩すことのできる「余地」を維持していくことである。

そのために、「すき間」=緩衝地帯を置く。

分断のスラッシュを決して引かないことが、何よりも大切なことであると思う。

2022年6月27日更新 (次回更新予定: 2022年07月25日)

言論のアリーナ の更新をメールでお知らせ

下のフォームからメールアドレスをご登録ください。


メールアドレスを正しく入力してください。
メールアドレスを入力してください。
言論のアリーナ 一覧をみる