本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
「すき間」が生む「対話の余地」
「アイデンティティ」について論じた前回のコラム(第16回 『脱アイデンティティ』と『自我同一性』を読み返す)の最後、「分断のスラッシュを決して引かないことが、何よりも大切なことである」という一文について、少し丁寧に補足する必要があると思う。
急ぎ足の展開であったことに加え、このことこそ、「言論のアリーナとしての書店」をテーマに連載を続けてきたコラムの中で、いささか古めかしくなった「アイデンティティ」を持ち出した理由があるからだ。
「第14回 差別の相対的構造」に紹介した金城馨(かなぐすくかおる)の「異和共生」に触発されて、ぼくが抱く図式は、次のようなものだ。
実際にアイデンティティが異なる二人の人間または二つの集団(金城の例ではウチナンチュとヤマトンチュ)の間には、「壁」が存在するのが自然である。「壁」は、出会い時には、コミュニケーションの不可能性である。
どちらかが、あるいはどちらもが性急に「壁」を崩して不可能性を打ち崩そうとするとき、それは必ず多数(マジョリティ)が少数(マイノリティ)に同化を促す(強制する)結果となる。それを回避するための思想が、金城の「異和共生」である。
金城は、その「壁」が一枚だからこそ、そして、それを打ち崩そうとするからこそ、コミュニケーションが不可能になるのだと考える。
「そのために壁が重要になるのです。壁をきちんと持った上で対応しないと違いを維持できません。壁がなかったらだんだんマジョリティに混ざっていくわけですから。違いを維持するということは壁があってできることです」(解放出版社『冲縄人として日本人を生きる』p57)
ここで言われている「違いを維持」する壁は、対峙する双方がそれぞれに持つ。そのことによって、壁と壁の間に「すき間」ができる。
「壁と壁の間にすき間を空ける。そのすき間がコミュニケーションになる」(同p57)
「異和共生」とは、対峙する双方が、互いの違いを認め、その違いを尊重し、そのことによって「すき間」をつくり、コミュニケーションを可能にするという行き方なのだ。
「分断のスラッシュ」は、一枚岩ならぬ一枚壁である。
「A/非A」という図式であり、Aと非Aの間に「すき間」はない。日本人か日本人でないか、ヤマトンチュかヤマトンチュでない(ウチナンチュ)か。
そして、大抵の場合あるいは常に、スラッシュの左側がマジョリティとなり、右側がマイノリティとなる。決して数の問題ではない。左側が一般で右側が特殊、左側は自らを正とし、負である右側を取り込もうとする、そしてその力を実際に持つ。
20世紀の終わりに流行した言語学=記号論を想起してもよいだろう。そこでは、有徴(ゆうちょう)によってマイノリティが生み出されて、かつマジョリティがマイノリティを包含しつつ上位に立つ言語の働きが指摘された。
man(人間・男性)にwo(妻)が付されることによってwoman(女性)となり、man(人間)がwoman(女性)を包含しつつ、man(男性)がwoman(女性)の上位に立つ、といった具合である。近年では、「女社長」や「女流棋士」という呼び方は適切でないとされる。「男社長」や「男流棋士」とは言わないからだ。
同時に、「A/非A」という図式には多様性が存在しない。非AはAの補集合だからである。
もちろん、本来前者の非Aはさまざまな国籍を持った人々から形成され、後者の場合は、小さな集合にすぎない{A/非A}の外側に多くの民族が存在するはずだが、それらは一絡(ひとから)げにされたり外部を無視されて議論されるため、二項対立が固定されてしまう。その「/」が「分断のスラッシュ」なのである。
完全に固定された二項対立だから、その間に「すき間」はない。その結果、金城が言うように、二項間のコミュニケーションが成立せず、敵対視だけが存続していく。それに対して金城は、自らが主催するエイサー祭りの参加者の半分以上がヤマトンチュになっていく過程を目の当たりにし、参加者たちが「ヤマトンチュ/ウチナンチュ」という二項対立から抜け出していっていることを悟ったのだ。
そうして、当初の自らの意識、「冲縄人としての誇りを取り戻すんだ」、「差別を跳ね返すんだ」も変化していったという。エイサー祭りに参加する人々が、自らのアイデンティティに縛られなくなり、心に「すき間」ができて、対話の余地が生まれたのである。
今再びキルケゴールに学ぶ
そう、アイデンティティは、変わり得る。自らを雁字搦(がんじがら)めに縛る強力な審級から、ときに応じて柔軟に逃れられるものとなる。さらには、「アイデンティティ」の意味自体が、「別様(べつよう)のものにもなり得る暫定的な行動基準」へと変化していく。
「アイデンティティ」概念の生みの親であるエリック・エリクソンは、発達心理学者であり、彼が注目したのは、青年期である。人間がその一生の中で心身ともに最も変化する時期である。
個々の「アイデンティティ」、すなわち自分が何者であるのかについての認識も揺れ動く。青年期は「アイデンティティ」が最も危機に直面する時期なのだ。だからこそ、エリクソンは「アイデンティティ」の安定にこだわったのである。
つまり、「アイデンティティ」とは、決して盤石(ばんじゃく)なものではなく、またあらかじめ正解が定まっているものでもない。
さしあたりは他者の引き写しでしかない「アイデンティティ」に固執して他の可能性を見ないことは、「アイデンティティの安定」ではなく、自己と他者の間に「分断のスラッシュ」を引いて、吟味や対話を拒み、変化を受け付けず、成長を自ら止めるそうした姿勢こそ、むしろ「アイデンティティの危機」なのだ。
そのような青年期の危機を自ら体験し、それに抗(あらが)って思索を深めたのが、エリクソンの約1世紀前を生きたデンマークの哲学者、セーレン=キルケゴールであった。「人間は自由であるように呪われている」と喝破して20世紀の青年たちの熱狂的な支持を得たジャン=ポール・サルトル(フランスの哲学者)にも冠せられる「実存主義」の祖といわれる人である。
主著のテーマとした「絶望」や「不安」、そして「単独者」という概念は、20世紀の青年たちにも受け容れられた。社会の危機、青年期の危機が、1世紀を隔ててもなお、共通していた、あるいはより深化していたからであろう。
さらに半世紀を経た今日、再びキルケゴールに学ぼうとしたのが、須藤孝也(すとうたかや、哲学研究者)の『人間になるということ──キルケゴールから現代へ』(以文社)である。
時代を越えて、多くの青年たちの心をつかんだキルケゴールの「単独者」は、当時のデンマーク国民に対し、「連帯によって数にものをいわせるのではなく、各人が何が真理なのかをその内面で判断すべきことを訴えるものであった」(『人間になるということ』p23)。
「数にものをいわせる」という姿勢は、「民主主義」の意味を誤解する現代政治、同調圧力が大手を振る現代社会に通底する。そこでも、各人が「単独者」として「何が真理なのかを内面で判断」することはない。須藤は、今日の多くの人々について、次のように描写する。
「近代民主主義は、自分の判断に自信を持つ諸個人を前提とするが、この国にはそうした個人はいまだ半分にも満たないであろう。何かある問題について、自分よりも詳しい人に判断してもらう方が適当だと考える人間が無数にいる」(同p186)
史上最長の任期を誇った元首相が兇弾(きょうだん)に倒れた瞬間、安保法制やモリカケサクラ問題など、議論・追求すべき問題が霧散し、ただただ称揚する人々の多さを思えば、須藤のこの見立ては間違っていないと言わざるをえない。
そして権力や権威にすべての判断を任せ、それに従うことをよしとする人々に、違いを認め、違いから学ぼうとする姿勢はない。だから、金城がいう壁と壁の間の「すき間」はなく、議論が、対話が生まれる余地はない。すなわち、真のコミュニケーションはない。
「彼ら彼女らは意見の違いを超えていこうとはしない。超えていこうというイメージをそもそも持っていない。相手の意見は否定してはいけないもの、肯定するもの、と最初の時点で確定しているから、相手の意見を聞くといっても、その正誤を吟味しながらしっかり聞いているわけではない。自分が何かを言う場合も同じである。しっかり伝えれば相手の同意を得られると思って伝えようとすることはない」(同p5)
冒頭、前書きの文章だけに、ひょっとしたら身近にこういう人が多くいることが――須藤が教えている大学生諸君に過度にその責任を負わせるつもりはないけれども――、本書執筆の大きな動機ではないかと思われるほど、この箇所の須藤の書きぶりはきわめて厳しく、しかし今の社会状況を鋭く言い当てている。
すなわち、キルケゴールの時代と現代の共通性を強く感じ、キルケゴールの警鐘が今も鳴り響き、その提言がなお有効であることが、今回のこのコラムで、須藤の導きによってキルケゴールに学ぼうとする理由の第一である。
他者もまた「単独性」を生きる
キルケゴールの「単独者」は、抽象的な概念ではない。
「諸個人は単独者として自己形成するのである。自身の特殊な状況を取り去ることが自己形成の中身ではなく、これを直視し、引き受け、これに自分に可能な仕方で関わっていけるようになることが自己形成である。他者もまた単独性を生きるはずのものである」(『人間になるということ』p216)
「単独者」は、一人ひとり具体的な、別様な概念である。自身の特殊な状況から逃れるわけではない。その意味では、仏教的な「空」や「無」ではなく、隠遁(いんとん)を勧めるものではない。当然、一人ひとりの「単独者」の属性は多様である。
「諸個人は単独者として自己形成するのである。自身の独自な状況を取り去ることが自己形成の中身ではなく、これを直視し、引き受け、これに自分に可能な仕方で関わっていけるようになることが自己形成である。他者もまた単独性を生きるはずのものである」(同p216)
キルケゴールの「単独性」とはそれぞれが自身の状況を引き受けるもので、それゆえにこそ、「他者もまた単独性を生きるはず」と確信できるのである。その確信は、他者とのコミュニケーションを可能にする。
このことを須藤は、「単独性は、個別性のみならず、人間であるという普遍性とも不可分の概念である」(同p32)という。
「個別性」は、各人が自身の独自な状況を引き受けること、「普遍性」は「他者もまた単独性を生きる」ということである。
ぼくは「個別性」に金城がいう「壁」を、「普遍性」に「すき間」、すなわちコミュニケーションの条件を重ねて読んだ。それが、今回キルケゴールを選んだ第二の理由である。
キルケゴールの「単独者」は、「神の前の単独者」である。「神の前の単独者」であることによってすべての「単独者」の平等が担保される。
神による担保によって、「人間の単独性が意味するのは、『人間のうちにある最高のもの、最も高貴なもの、最も神聖なもの』を『各人』が持っているということ」(同p87)であり、「善は人間のうちにあるのではなく、それは神から派生するものであり、根源的には神のうちにあるのである」(同p149)。
揺籃としての「折り合いの悪さ」
ところが須藤は、本も半ばを過ぎてから、次のように告白している。
「第一に、私はキルケゴールとキリスト教信仰を共有していない。キルケゴールはキリスト教信仰を前提に議論を展開していたが、私にはそれはできない。超越性の思想には賛同するが、特定の神の啓示を私は信じることができない」(『人間になるということ』p190)
第4章のこの冒頭こそ、この本のいわば扇の要(かなめ)といえ、それまでの叙述のすべてを反転(決して否定ではない)させる。全体の三分の二強が過ぎたところでの須藤のこの「告白」は、良質な推理小説のように、読者に落胆ではなく、新たな興味と期待を、キルケゴールを読むという行為に新たな可能性を与えるのだ。
須藤は言う。
「キリスト教信仰を前提とするところについてはカッコに入れて聞くとしても、私達はまずできるかぎりキルケゴールの話に耳を傾けなければならない」(同p246)
「しかしそうした神を信じないとしても、人間が惨めな存在であることは理解できるはずである。そしてまた人間がケアを必要とする存在であることも理解できるはずである。自分が惨めな存在であり、いたわりを必要とすることが理解できれば、そこから他者もまた惨めな存在であり、いたわりを必要とする存在であることを想像することは決してむずかいしことではない」(同p204)
須藤は、「神の前の」という前提を外しても、「単独者」は輝きを発していると言うのだ。
「単独者」は他の「単独者」を尊重し、必要ならばケアする。「単独者」は「この世の」価値観に支配されず、統計的数値に惑わされない。
が、単独者は「引きこもる」のではなく、真理へ向かって人格の成熟を目指すがゆえに、対話・議論にも積極的だ。「単独者」は決して付和雷同をよしとせず、「折り合いの悪い」他者に対しても思考を啓(ひら)き、ともに深めていこうとする。「単独者」のこれらのあり方は、今日の日本にこそ求められているものではないか。
須藤自身、「キリスト教信仰をめぐって私とキルケゴールは『折り合いの悪い』関係にあるが、しかしだからこそそこから学ぶことは多い」と言い、「哲学を、折り合いの悪い他者に対して思考を拓く行為、そうして積極的に他者とともに思考を深めていく行為として理解」すると言う(同p230)。
この姿勢こそ、須藤の『人間になるということ──キルケゴールから現代へ』を取り上げた第三の、そして最大の理由である。須藤が言う「折り合いの悪さ」は、まさに金城の壁と壁の「すき間」なのだ。それは嫌悪や憎悪の源泉となるだけでなく、一方で思考や対話、議論の揺籃(ようらん)ともなるのである。
そして、「折り合いの悪さ」を感じるにも拘(かか)わらず、否そうであるがゆえにキルケゴールの著作に向かっていく須藤の姿勢こそ、ぼくが「アリーナとしての書店」を提唱する源泉であり、「アリーナとしての書店」が存立する絶対条件なのである。
2022年7月25日更新 (次回更新予定: 2022年08月25日)
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