本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
「満員電車」への痛烈な批判
金城馨(かなぐすくかおる)の「異和共生」(第14回 差別の相対的構造)に触発されて以来、ぼくは「スキ間」の存在にこだわり、前回のコラム(第17回 「アリーナとしての書店」の絶対条件)では、キルケゴールの「単独者」も、それぞれの属性を引き離すことによって、むしろ他の「単独者」と繋(つな)がり、共生できることを見た。
今一人、マルティン・ハイデガーやハンス・ヨナス、ハンナ・アーレントという、前世紀の半ばにおいてきわめて親しく、一方でときに相手を鋭く批判するドイツの哲学者たちを研究しながら、自身が「スキ間」にこだわる、より正確にいえば「スキ間」のない状態を嫌う若き哲学研究者である戸谷洋志(とやひろし)に、今年ぼくは出会った。戸谷は、『スマートな悪』(講談社)で、「満員電車」を痛烈に批判・告発しているのだ。
「満員電車は疑いの余地なく暴力的である。朝のさわやかな風も、あたたかな日の光も、鳥たちの陽気な歌も、満員電車から降りた頃にはすべてドロドロの疲労に変わっている。嫌な汗をかくし、服はしわだらけになる。近くの人の口臭をかぎ、咳に耳を傾けなければならなくなる。自由に荷物を出し入れすることもできない。そんな状態が一時間以上続くことだってある」(『スマートな悪』p126)
戸谷は、そうした「満員電車」を「異常な事態」と呼び、さらにそこでは様々な暴力が出来(しゅったい)していることを告発する。
「満員電車に無理に乗り込もうとする人は、既(すで)に過密状態の車内の人々を、容赦なくぐいぐいと押す。それによって、すでに中に乗車している人の体は大きな圧力を受ける。腕で防御することなどできないから、多くの場合、胴体に対して大きな圧力がかけられることになる。また、電車から降車するときも、人は周囲をぐいぐいと押しながら外に出る。それによって車内には不自然な人の流れができて、その流れに巻き込まれれば、降りる駅ではないのに電車の外へと押し出されてしまうこともある。あるいは不安定な姿勢のままに動かされ、転びかけることもあるだろう。
(中略)出発間際の電車に乗り込もうとする人は、すれ違う人々を容赦なく突き飛ばすことがある。もちろん筆者自身にもそうした経験がある。(中略)ラッシュアワーのホームで体当たりされたり転びそうになったことは、一度や二度ではない。鳩尾(みぞおち)にアタッシェケースをぶつけられ、大変な苦痛を味わったこともある」(同p127)
一読したとき、この告発は、戸谷自身の経験がもたらした「恨み節」のように思えた。だが、戸谷と同じような経験は、通勤・通学経験を持つ大多数の人たちが共有しているものだ。戸谷は続ける。
「満員電車のこうした暴力性は、多くの場合、覆い隠されている。それは、人々が都市生活を送るための『仕方のない』現象であると見なされ、そもそも暴力として理解されていない。そして、それが暴力であるにもかかわらず、暴力ではないものと見なされる点にこそ、満員電車の暴力性の厄介さがあるのだ」(同p128)
ぼくが「恨み節」だと思ってしまったことこそ、戸谷が「仕方のない」現象であると見なされ、そもそも暴力として理解されていない「満員電車の暴力性」であるのだ。
都市システムへの適合と暴力性
戸谷は、ちょうど百年前の寺田寅彦(てらだとらひこ、物理学者・随筆家)の随筆を引き、外国帰りの寺田が、改めて日本の「満員電車」の異様さに気づいた文章を引く。
「電車に乗ると大抵満員――それが日本特有の満員で、意地悪く押されもまれて、その上に足を踏みつけられ、おまけに踏んだ人から『間抜けめ、気を付けろい』などと罵(ののし)られて黙っていなければならなかった」。(同p131、寺田寅彦「電車と風呂」より引用)
「最後に出て来る結論は妙なものになる。すなわち『第一に、東京市内電車の乗客の大多数は――たとえ無意識とはいえ――自ら求めて満員電車を選んで乗っている。第二には、そうすることによって、みずからそれらの満員電車の満員混雑の程度をますます増進するように努力している。』」(同p132、寺田寅彦「電車の混雑について」より引用)
そして、寺田と今日の真ん中の時期に、社会学者の磯村英一(いそむらえいいち)が「満員電車」の不快感や暴力性を回避することよりも優先されていることこそ、「満員電車を不可欠とする都市のシステム」だと喝破したことを紹介している。
「逆説的にいえば、都市に住む者の大多数は強制的に、定められた時刻、定められた職場に、定められた学校に集合することが要求される。もしそれができないとか、阻害されるような場合には、人間は都市生活のなかで不適格だというらく印を捺(お)されることになる(磯村英一『人間にとって都市とは何か』日本放送出版協会)」(『スマートな悪』p135)
日本の電車の発着時刻の遵守の「至高性」は有名である。ヨーロッパから帰国した寺田寅彦に違和感を覚えさせたそれは、百年経っても変わっていない。ぼくたちは、電車がダイヤ通りに運行しないことに、無用なまでの腹立ちを感じていないだろうか。「人身事故」によって電車が一時停止したとき、ひょっとしたら命を失った事故の犠牲者に対して、怒りの矛先(ほこさき)を向けていないだろうか。そのことも、大きな暴力であると、戸谷は言う。
「システムに最適化しているがゆえに、車内で押し潰されることに対しては文句を言わない乗客も、そのシステムの機能を麻痺(まひ)させるような事態、たとえば人身事故に対しては憤怒(ふんぬ)を爆発させる。たとえその事故によって誰かが亡くなっていても、『迷惑だ』などと心無いことを思ったり、言えたりしてしまう」(『スマートな悪』p138)
白状すれば、ぼくも同じような感情を抱いたことがある。否、「〇〇駅で起きた人身事故のため、電車の運行をしばらく見合わせています」という駅や車内のアナウンスを聞くたびに、苛立(いらだ)つ。会社の始業時間に遅刻する、あるいは約束の時間に遅れるという「都市のシステム」への適合を、一人の人間の死の可能性よりも重視してしまう。
戸谷はこのようなぼくたちの心性(しんせい)を、ナチスのホロコーストに加担した罪で処刑された、かのアドルフ・アイヒマンに重ねる。
「悪の凡庸さ」の矛先
アドルフ・アイヒマンは、「ヨーロッパ各地のユダヤ人を効率的に強制収容所に移送するための、車輌の確保や移送計画の立案を行い、虐殺に加担することになった」(同p72)ナチスドイツ親衛隊将校である。1945年、アメリカ軍によって逮捕されるが、捕虜収容所から逃亡し、アルゼンチンに潜伏。1960年にイスラエル諜報(ちょうほう)特務庁によって拉致(らち)され、エルサレムにおいていわゆる「アイヒマン裁判」の結果、1960年12月15日に死刑が確定し、1961年6月1日に刑が執行された(同p75-76)。
1938年にオーストリアに派遣されたアイヒマンは、現地のユダヤ人を国外に強制的に移住させるための洗練されたロジスティクスを構築したのだ。それはまさに「自動化された工場」であり、目的を達成するためにそこにある要素を組み合わせ、最適化させてみせたのである(同p67-70)。
その実績を買われたアイヒマンは、1942年の「ユダヤ人問題の最終的解決」について話し合われたヴァンゼー会議に出席、「ヨーロッパ各地のユダヤ人を効率的に強制収容所に移送するための、車輌の確保や移送計画の立案を行い、虐殺に加担することになった」(同p71-72)。
だが、アイヒマンは1960年の裁判において、自らの罪状を終始否認した。
「尋問員であるアヴネール・レスは、アイヒマンがアウシュヴィッツにおいて大量虐殺が行われていると知りながら移送計画を策定していたのなら、それは虐殺に加担したことになる、と問い詰める。しかし、アイヒマンは、自分がアウシュヴィッツと『本来全く無関係』であり、自分の仕事は『国家指導者の命令』に応じて『移送列車の運行計画を立てるという、全くの技術的な問題でした』と弁明する」(同p76)
「私はユダヤ人の殺害とは何の関係もありません。私は一人のユダヤ人も殺していません」(同p76)
エルサレムで裁判を取材したハンナ・アーレントは、アイヒマンの弁明に接し、「悪の凡庸さ(banality of evil)」という言葉を用いる。
「彼女がアイヒマンを形容するために生み出したのが、『悪の凡庸さ(banality of evil)』という表現である。何百万人ものユダヤ人を虐殺することに加担したアイヒマンは、実は『凡庸な』、ごくありふれてわれわれの周囲によくいるような人物(官僚・サラリーマン)だった。しかしそのような平凡な人物が、特別な悪意も罪の意識も持たずに、ただただ与えられた任務を忠実に遂行することによって、何百万もの無辜(むこ)の人々を死に追いやったところにその恐ろしさがあるのだ」(戸谷洋志、百木漠『漂白のアーレント 戦場のヨナス』慶應義塾大学出版会、p130)(*注)
当初、多くのユダヤ人虐殺に加担したアイヒマンは、悪鬼(あっき)のような人間と予想された。しかし、実際に裁判がはじまり、とつとつと自らの無罪を主張するアイヒマンは、自らを単に上の命令に忠実な役人だったと主張し、そして、その通りの人間に見えた。多くの人は、肩透かしを食らったと感じ、驚き、または落胆の感情を持ったかもしれない。あるいは、決してアイヒマンの弁明を認めず、信ぜず、彼への憎悪をさらに滾(たぎ)らせたかもしれない。だが、アーレントは、アイヒマンの姿に「悪の凡庸さ」を見て取った。
そのことによって、アーレントは同胞であるユダヤ人から敵意を持たれた。アイヒマンの罪を軽く見積もろうとしたかに誤解されたのである。生涯の親友であるハンス・ヨナスからも非難された。それでも、彼女はアイヒマンの「悪の凡庸さ」を撤回しなかった。アーレントは決してアイヒマンを許したわけではない。「悪の凡庸さ」にこそ「悪鬼」よりも大きな危険性を見出したのだ。
それは、免罪ではなく、より広い範囲での断罪であったと思う。というのは、ナチス治世下のドイツ国民もまた、「ヒトラーやナチスに騙(だま)された」とは免罪せず、ヒトラーを指導者として仰いだことを示唆するものだからだ。
快感からの覚醒
敷衍(ふえん)するならば、アーレントは考えてはいなかっただろうが、「悪の凡庸さ」の矛先は、戦中の(そして戦後の、今日に至るまでの)日本国民にも向けられ得る。今回のコラムで、「満員電車」の「スキ間のなさ」にかこつけて、ぼくが『スマートな悪』に言及した最大の動機は、そこにある。
このコラム連載のそもそものモチーフである「ヘイト本」や「ヘイトスピーチ」の蔓延(まんえん)に対抗するためには、さまざまな機会に垣間見られながら未だ主題化(ターゲット化)されていない、今日の日本社会の「悪の凡庸さ」こそ、ターゲットにしなくてはならないのではないか、と思うのである。
なぜ「ヘイト本」が書店に溢(あふ)れ、それらが攻撃する在日韓国・朝鮮人をはじめとする弱者にいわれなき精神的暴力を与えつづけるのか? 出版が商行為である以上、それを買う人々がいるからだ。それゆえに、かつて『ガロ』を出していた青林堂は、社の経営状況が悪化したときに、あからさまな「ヘイト本」の量産で経営改善を図り、実際に存続を続けている。百田尚樹の本はベストセラー、ロングセラーとなり、日本の出版社を代表するといっていい講談社も、社内外の顰蹙(ひんしゅく)を買いながら、ケント・ギルバードの本を売り続けた。
それらを書く人たち、確信犯的な差別主義者の集団が互いに購入するだけでは、それは一種の「タコの足食い」であり、実際の販売数は説明できない。「ヘイト本」が売れるのは、いわゆる「一般読者」、市井の人々がそれらに手を伸ばしているからにほかならない。
「だから書店は、そうした本を置くべきではない」という主張があるが、それは根本的な解決ではない。あからさまに差別的なタイトルや装幀(そうてい)を持つそうした本を目にしたときに、多くの人が手を伸ばしてしまう、そのモチベーションは手つかずのままだからだ。
「ヘイト本」を隠すことよりも、そのモチベーションを多くの人々に根づかせてしまう由来と構造を、明らかにすることが重要なのだ。そのときに、「満員電車」とアイヒマンの「悪の凡庸さ」を結びつける戸谷の議論が参考になると思うのである。
戸谷は言及していないが(そして、それを彼は感じてはいないのかもしれないが)、本当の「満員電車」の「スキ間のなさ」には、ある快感がある。ほぼまったく身動きできない状況は、例えば電車の揺れや周囲の人たちの動きに対応して、あるいは電車の揺れに対抗してバランスを取ろうとする必要も、倒れぬように足を踏ん張る必要もない。車内の誰もが動けない状況には、あきらめと、ある種の安堵があるのだ。
状況に身を任せるしかないというあきらめ、自分の力で何かをしなければならないということがないという平安、自分が何かを決定しなくてはならないことがないことへの安堵。党の決定、上司の指示という絶対的なものに身を任せたアイヒマンが感じた安堵はやがて、死刑を執行されることによって間違いであったことが判明するが……。
より大きなシステム、一見、否定・反抗のできないような体制に、アイヒマンのように従ってしまうこと。自分で考えるのではなく、自分で動こうとするのではなく、そして自分が動くことのできる状況を切り開こうとするのではなく、今自分を支配しているかに見える状況に身を委ね、その状況を決定・固定しようとする「大きな声」を「我が意見」としてしまう安易さ。それこそが他者を苦しめ、いずれ自分をも縛ってしまうことに気づくこと、気づかせることが何よりも大切なことだと思うのである。
それは、戸谷が寺田寅彦や磯村英一を援用して指摘するとおり、そもそも「満員電車」に乗り込まなければならないという思い込みが、大きな社会システムに縛られていることだと知ることである。
「満員電車」の中で身動きができないことに逆説的に――あるいは被虐的に感じている快感から覚醒することである。そのことが、寺田や磯村の時代以上に必要とさせているのは、戸谷が指摘する、次のような時代状況である。
第5期科学技術基本計画が称揚(しょうよう)する「Society5.0」=「スマート社会」では、これまで個別に取り組まれていた各分野の課題が、統合的なサイバー空間のもとで処理され、トップダウン型で「解決」されることが目指される。
フィジカル空間(現実)は、サイバー空間の決定に抵抗することができず、ひたすら調整の素材として扱われるのである。そのとき、制御される人間自身は自分が自由であると思い込んでいる状態が、好ましいとされる。
この世の人間は、まさに超越的な世界における決定について考えることも疑問を持つこともなく従い、ましてや反論・反抗することなど決してなく、すべてを委ねることが理想とされるのだ。「シンギュラリティ」を実際に迎えてAIに圧倒的な能力差をつけられる前に、人間は自ら進んでシステムの「最適化」に身を任せようとしている。
ところで、戸谷が指摘していることで面白いのは、「スマート」が「痛み」を意味する言葉を語源としていることだ。痛みによって人間は、他の感覚、思考、関係から遮断される。それは、スマートフォン一つに様々な機能が搭載され、余計なものと関わらなくても済むという状態とパラレルなのである。
と同時に思うのは、やはり、「思考欠如」の前段階にはやはり「痛み」が、それも大きな「痛み」を伴っていたということであり、「思考欠如」の結果、忘却してしまったその「痛み」を想起すること、決して愉快ではないかもしれないその作業を遂行すべきということである。それによって「満員電車の中で身動きの取れない」ことの不合理と不条理を改めて感じ取り、その状況からの脱出を図ることこそ、今の人間と社会双方にとって、重要な課題なのではないだろうか。
(*注)「banality」を『スマートな悪』の戸谷は「陳腐さ」と、『漂白のアーレント 戦場のヨナス』でアーレントの章を担当した百木漠は「凡庸さ」と訳している。ここでは、破裂音も含まず、元の英語に近い、またその属性のあいまいさをより表現していると感じる「凡庸さ」を採用したい。
2022年8月23日更新 (次回更新予定: 2022年09月25日)
言論のアリーナ の更新をメールでお知らせ
下のフォームからメールアドレスをご登録ください。