本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
「教育と愛国」と『何が記者を殺すのか』
2022年8月31日、毎日放送報道情報局ディレクターの斉加尚代(さいかひさよ)監督「教育と愛国」に、「JCJ賞」が贈られた。「JCJ賞」は、今年で65回を迎えた日本ジャーナリスト会議(JCJ)が、1958年以来、年間の優れたジャーナリズム活動・作品を選定して、顕彰してきた賞である。
永田浩三(ながたこうぞう)編著『フェイクと憎悪』(大月書店)での共著者でもある斉加の受賞を、心から喜び、祝したい。
映画「教育と愛国」は、大阪の毎日放送が、月一本、最終日曜日の深夜0時50分から関西で放送している「MBSドキュメンタリー『映像』シリーズ」で、斉加がつくった「教育と愛国~教科書でいま何が起きているのか」(2017年7月30日放送)の映画版である。
放送から3年余り経った2020年9月に、千葉県浦安市のドキュメンタリー映画配給会社「きろくびと」の中山和郎に「映画にしませんか?」と声をかけられ、社内交渉を重ね、再取材も敢行して、ドキュメンタリー映画として完成、2022年5月に劇場公開された。2022年9月4日のMBSの発表によると、3ヶ月あまりで、3万5000人が劇場に足を運んだという。
劇場公開の前月2022年4月15日、斉加は「『教育と愛国』の映画化に走り出して」を終章とする『何が記者を殺すのか』(集英社新書)を上梓する。2022年3月に難波店からMaruzen&ジュンク堂書店梅田店に異動したぼくは、新著のトークイベントを企画、2022年5月12日にオンライン配信した。
対談相手を、やはり旧知のノンフィクション作家松本創(まつもとはじむ)にお願いした。松本は、2021年12月に上梓した『地方メディアの逆襲』(ちくま新書)で、斉加に1章を割いていた。2日後の2022年5月14日に映画「教育と愛国」の東京公開を控えていた。
『何が記者を殺すのか』の「第一章 メディア三部作」で、斉加は「教育と愛国」を含めた、「MBSドキュメンタリー『映像』シリーズ」の三本の番組を振り返っている。いずれも、斉加がその時々の社会的事件・社会情勢に敏感に反応して急ぎ企画されたもので、あらかじめ長期的な計画があったわけではないが、2本の沖縄取材に続いて、教科書への権力の介入を入り口に、沖縄の基地問題の根源でもある日本の保守化、右傾化をテーマとした「教育と愛国」へと進んでいく底に、斉加の一貫した時代感覚と問題意識が流れている。
沖縄の問題は、大阪の問題でもある
三部作の最初の作品は、「なぜペンをとるのか」(2015年9月27日放送)である。「ペンをとる」のは、沖縄の新聞記者たちだ。
企画のきっかけは、自民党所属の若手国会議員が開いた「文化芸術懇話会」(2015年6月25日)での作家百田尚樹の発言「沖縄の二つの新聞社は潰さなあかん」、そしてそれに先立つ大西英男衆議院議員(東京16区)の「マスコミを懲らしめるには広告収入がなくなるのが一番だ。経団連に働きかけてほしい」などの発言であった。
百田に名指しされた2社のうち、琉球新報本社の記者たちの日常を密着取材したのが、「映像」シリーズを制作する部署に異動した直後の、斉加の最初の仕事であった。「潰さなあかん」発言は、斉加にとっても他人事(ひとごと)ではない。この最初の番組が、その後の斉加尚代の仕事の方法性を決定づけたと言える。
「沖縄戦を体験した沖縄で戦争を繰り返しちゃいけないという、平和な島をまた戦争の島にしてはいけないという、そういう言動をするために沖縄の新聞社は存在している」(『何が記者を殺すのか』p45)
「取材することを先輩から学ぶんじゃないんですよ。沖縄戦でつらい思いをした人から取材を学ぶんですね。私もそうでしたし、だから沖縄の新聞社は沖縄戦のことを忘れちゃいけないと思います」(同p46)
目を潤ませながら語る松永勝利(まつながかつとし)政治部長のこの言葉に、斉加尚代は「心を鷲摑(わしづか)みにされた」。
それは、番組タイトルに冠せられた問いへの答えでもあった。そして、放送後にSNSで矢継ぎ早に寄せられた、差別意識の溢(あふ)れるバッシングが、後に斉加にある決断を迫ることになる。
2作目は、「映像 ’17 沖縄 さまよう木霊」(2017年1月29日放送)。
「どこつかんどんじゃ、このボケ、土人が……」
沖縄本島北部の米軍施設(ヘリポート)建設工事に抗議する住民側に向かって大阪弁で毒づいたこの差別発言が、きっかけであった。大阪府知事も沖縄及び北方対策の特命大臣も、機動隊員の肩を持つ。
思えば、沖縄の二つの新聞社を潰せと言った百田尚樹も、大阪出身であった。沖縄の問題は、大阪の問題でもある。斉加は再び沖縄に向かった。
軍事施設建設反対派を過激派暴力集団呼ばわりするデマ言説は、同業他社の援軍を得ていた。TOKYO MXの情報バラエティー番組「ニュース女子」の沖縄基地特集である。
反対運動の人たちを撮影し、根拠もないデマや好き勝手なコメントで彼らを貶(おとし)めるこの番組に対しても、番組の根拠となったデマを拡散させた男性や出演者への取材を敢行し、対決姿勢を鮮明にした。
当然反撃のバッシングが返ってくる。しかし、斉加尚代は決して怯(ひる)まない。むしろその経験が、次の仕事に反映されていく。
バッシングの背後に何が
三部作の第三弾「教育と愛国」(2017年7月30日放送)の舞台は大阪と東京で、いったん沖縄から離れるように見えるが、斉加の問題意識はブレていない。沖縄の問題は日本全体の問題であることを確信した上でのことである。
「本土」の人間が、沖縄の人たちの基地反対の心を理解しないことは、日本全体の右傾化と連動しており、「教育勅語」の再評価や「日の丸」「君が代」への敬意の強制、そして教科書の内容や採択など、教育現場へのあからさまな介入が関係している。
教科書検定制度を利用した国家の教科書の内容への介入・攻撃は、「侵略」「従軍慰安婦」そして「沖縄戦での集団自決」などに向けられて久しい。
斉加は、「このテーマを選んだのは、沖縄へ再度、取材に行けると考えたからです」と明かしている。
「慰安婦」や「集団自決」という文言を含む教科書を採択した私立学校には、「OB」を名乗る人たちなどから大量の抗議ハガキが届く。その中心に、地方教育行政法改正(2014年)によって教育行政に関与できるようになった自治体の長もいる。歴史学研究の重鎮もいる。斉加は、ハガキの送り主と目される人物に果敢にインタビューを重ねていく。
彼らは、戦後歴史教育を「自虐史観」に毒されていると言って憚(はばか)らない。彼らにとって歴史教科書によって子どもたちが学ぶべきは、歴史事実ではなく「国家にとって歓迎すべき『道徳』=愛国心」なのである。
インタビューを通じて、彼らの信念はまったくぶれない。特に、中学歴史教科書で唯一、「教育勅語」を「国民の道徳の基盤になった」と紹介している育鵬社(いくほうしゃ)版の代表執筆者である東京大学名誉教授の伊藤隆(いとうたかし)氏の存在感は、「教育と愛国」に登場するインタビュアーの中でも群を抜いている。そのことは、斉加も認めているし、ぼくもそう感じた。
「映像 ’17 教育と愛国~教科書でいま何が起きているか」は、ギャラクシー賞テレビ部門大賞(放送批評懇談会が優秀な番組、個人、団体を顕彰してきた賞)を受賞、その映画版がこのたびJCJ賞を受賞したことは、冒頭に書いたとおりだ。
斉加にとって、力づけられ、自らの方向性の正しさを確信できた受賞に違いないが、同時に、強大な「敵」の存在を思い知った取材でもあったのではないだろうか?
『何が記者を殺すのか』「第二章 記者が殺される」では、「映像 ’18 バッシング~その発信源の背後に何が」(2018年12月16日放送)が、取り上げられる。
「第一章 メディア三部作」約120ページに対して、遜色(そんしょく)ない約100ページを使ったこの章は、この作品を語ることが、斉加がこの本を書いた目的であったことを感じさせる。確かに、それだけ重要なことを、「映像 ’18 バッシング~その発信源の背後に何が」は、ぼくたちに語りかけている。
「寒い冬は、首まで暖かなタートルネックのセーターをよく着ます。寒空の下で人を待つという取材も珍しくなく、防寒のセーターは6色ほどに、そのうちの淡いピンクにも見える『ベージュ』はお気に入りの1枚です」(『何が記者を殺すのか』p140)
一見、お気に入りのセーターを紹介する、自分語りのようであるが、その裏には、斉加尚代の並々ならぬ決意が隠れているのだ。
「『バッシング』では、ベージュのセーターを着て自身を何度も登場させました。意図的に顔を晒(さら)したのには理由があります。(中略)差別と偏見を煽(あお)りバッシングの波を作り出すブログ主宰者と電話でやりとりする場面にもベージュで出演しています。その後、私自身が写っている画面や実名がネット上で挙げられ、批判や中傷の対象になります」(同p141)
斉加は、「『バッシング』の制作は、当初から自身に火の粉が降りかかると自覚」していた。そして「そのことも映像化できればさらにリアルだ」と考えたのである。
それまでも斉加は、ディレクターでありながら自らインタビューを行い、それを映像化していた。
限られた予算の中で人件費も十分に使えないゆえの苦肉の策は、一方で生粋のドキュメンタリー作家である斉加の心性にもかなっていた。ドキュメンタリーのプロットを動かすのは、あくまで取材対象・被写体であり、インタビュアーである。
インタビュアーも、ディレクターも、ドキュメンタリーのプロットをあらかじめ決めることはできない(あらかじめそれを決めて、ドキュメンタリー番組をつくることを「ヤラセ」というのだろう)。
取材対象によって語られた内容で作品の方向性を判断・決定するためには、ディレクター自らが、証言の現場に立ち会わなければならないのだ。
さらに、斉加がベージュのセーターにこだわったのは、自分の存在を強調するためだ。
映像に顔を晒し、実名を書き込み、衣服までも同一にすることによって、誰がこのドキュメンタリーを撮っているのかを、明確にしたのである。実際には、斉加はベージュとパープルの2枚のタートルネックのセーターで取材に臨んだという。ところが、「取材がうまくいくのは、なぜかベージュの日ばかり」(同p143)。その結果、画面に現れる斉加は、いつもベージュのセーターを着ている。「神意」とまでは言わないが、この偶然が斉加の企図を後押しした。
「その後、私自身が映っている画面や実名がネット内に挙げられ、批判や中傷の対象になります」(同p141)
「デマやヘイトを発信する人たちに自ら接すれば、自分もやり玉に挙げられるだろう」(同p217)と予想し、それまでの取材で目の当たりにしたネットバッシングの実態を捉えるために、自らをいわば「餌(えさ)」にしたのである。
「今回は伝えるために満身創痍(まんしんそうい)になってもいい」(同p143)
斉加は、政府の製作に批判的な学者へのデマに満ちた誹謗(ひぼう)、民主的な弁護士への懲戒要求、在日コリアンや沖縄の人たちへのヘイトスピーチを発信する人物たちへの取材に駆け回る。
さらに、在日コリアンや韓国へのヘイトスピーチに満ちたブログ「余命三年時事日記」の主宰者への電話取材。そのブログを書籍化した、「ヘイト本」を量産する出版社、青林堂の社長にインタビューを申し込み(取材拒否される)、保守系論壇誌の凄腕編集長、花田紀凱(はなだかずよし)とも対峙する。
身を晒して名乗り、土俵に上る
予想したように、取材が積み重なるにしたがって、バッシングが殺到した。斉加を「ブラック記者」として拡散するアカウントが次々に増える。かねてからの計画どおり、斉加は、SNS上の自らへの攻撃の分析を専門家に依頼、その結果浮かび上がってきたのは、「ボット(ツイッターで同じような内容を作成・投稿する自動投稿プログラム)」の関与であった。
2018年12月16日、ついに電波に乗った「映像 ’18 バッシング~その発信源の背後に何が」には、次のテロップが流された。
「当番組は放送前、ネット上で一部の人々から標的にされた。
先月末から6日間で、取材者を名指しするツイートの数は5000件を越えた。
その発信源を調べるとランダムな文字列のアカウント、つまり『使い捨て』の疑いが、一般的な状況に比べ、3倍以上も存在した。
およそ2分に1回、ひたすらリツイート投稿するアカウントも複数存在した。
取材者を攻撃する発言数が最も多かったのは『ボット(自動拡散ソフト)』の使用が強く疑われる。
つまり、限られた人物による大量の拡散と思われる」(同p224)
斉加尚代の勇気と胆力、行動力には脱帽する。
残念ながら、今の社会にはいわれなく弱者を攻撃する人々が、間違いなく存在する。在日外国人、障碍(しょうがい)者、性的マイノリティーなど、社会的弱者はそのような輩(やから)の攻撃によって、日々傷つき、大きな害を被っている。
そうした、我々が目指すべき社会の「敵」と対峙するためには、自ら攻撃される覚悟を持たなくてはならない、身を晒し、名を名乗り、舞台に上がらなくてはならない。その覚悟の重要性こそ、斉加と共有し、教えられた最大のことである。
「沖縄 さまよう木霊~基地反対運動の素顔」(2017年1月29日放送)を見た大先輩から、斉加は「インターネットや、悪意のある人たちに対して、同じ土俵で闘いすぎていませんか、という不満があります」という感想をもらったという。
斉加がことごとく切って捨てる筋立ては痛快だが、視聴者としては「その先」が見たい、というのだ。
だが、闘いの現時点で、斉加の取った戦略は間違っていないとぼくは思う。インターネットという靄(もや)の中で、敵がまだはっきりと見えていないからだ。自ら危険を犯して土俵に上がり、敵も土俵に引き摺(ず)り出して、その姿をはっきりと見極めなければならないのだ。
敵は「ボット」という兵器を活用して、ネットの炎上を引き起こしていた。それを突き止めたのは、斉加が得た成果だ。だが、敵の姿が、「ボット」という兵器の陰に隠れて、ますます見えにくくなったとも言える。
そもそも、敵は、最初からインターネットの靄を利用して、攻撃を仕掛けてきていたのだ。自らは安全な場所にいて、相手のみを傷つける、ドローンを使った爆撃のように。
ひるがえって、ぼくたちの「土俵」である書店現場は、如何(いか)に? と思う。その「土俵」は今もアナログの牙城(がじょう)である。本を使って他者を攻撃しようとすれば(ペンネームであったり、ごく稀〈まれ〉に匿名であることもあるが)、著者名は明確にせねばならず、奥付には発行者名が不可欠である。対決すべき敵は見えている。
斉加の闘いに共感し、参戦していくならば、そのことを戦略に組み込まない手はない。
「土俵」に着弾した敵の武器を、目を逸(そ)らすことなく見つめること。どのような論理が、敵の弱者攻撃の動機となっているのか? 敵はどのような戦法で読むものを説得し、その攻撃の輪を広げようとしているのか?
敵は眼前に現れている。援軍の数も比較的計数しやすい(人が書店で本を購入した結果である実売数は、ボットが拡散するツイート数などに比べれば、ずっと有意であるはずだ)。
ぼくが、書店を「言論のアリーナ」と呼ぶ所以(ゆえん)である。
敵が姿を現してくれているなら、さらに、こちらも逃げることなく、「土俵」に上り闘いに赴かなくてはならない。
大きな勇気を与えてくれた、斉加尚代に倣(なら)って。
2022年10月25日更新 (次回更新予定: 2022年11月25日)
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