言論のアリーナ

第21回 書店という生業の存在理由

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

「ネットで調べたらわかる」VS. 「現地へ行って調べろ」

MBS(朝日放送)の斉加尚代(さいかひさよ)が、身を挺(てい)して自身を曝(さら)け出してSNS上の誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)やヘイトスピーチの発信源を視聴者の前に引きずり出そうとした戦略は、当の相手が機械であったことによって、一種の肩透かしを食らった形となった。

それに対して書店という土俵に上がった書物は、原則として著者・発行者の名前があり、言説の発信元にその真意を正したり、批判したりすることができる。

国立国会図書館への納入義務に忠実ならば、原理的には一度出た本はいつでも誰でもアクセス可能である。著者・発行者は、逃げたり雲隠れしたりはできない。言説の責任の所在は明確で、かつ永続的である(事故その他の理由で、例外はもちろんあるが)。

そのため、校閲、校正、事実確認、引用の正確さの確認と出典の明示などが徹底して行われる。それが「編集」という作業の重要な部分であり、その結果世に出されるものが書籍という商品である。

ただし、その原則が守られない場合も(最近特に)多い。「ヘイト本」「歴史否定論」などのほとんどは、そうである。編集の杜撰(ずさん)さは文章や版面に必ず現れる。本の外観やパラパラとめくったページの佇(たたず)まいで、「ヘイト本」や「歴史否定論」がそれとわかる所以(ゆえん)である。

SNS、ウェブ、あるいはたとえニュースを装っていても、多くのネット上の言説には、今言った「編集作業」はない。思いついたことを、裏を取らぬまま、あるいは誰かを貶(おとし)めるなど何かの目的があって裏も取らずにアップされたものが多い。ところが近年とみに、そうした言説のほうに「真実がある」と信じる人が多くなってきた。

「『ネットで調べたらわかる』『ネットで調べろ』。これら多数の意見に対し、取材者の私は面食らいます。『現地へ行って調べろ』というなら理解できます。けれど、そう書く人は、皆無です。皆が口を揃(そろ)え『ネットに真実がある』と訴えかけているようでした」(斉加尚代『何が記者を殺すのか』集英社新書、p51)

テレビ・ディレクターとして「裏取り」を大切にしてきた斉加は、忸怩(じくじ)たる思いを抱いたに違いない。その思いは、書物を商材としてきたぼくたちも共有する。

ボットの介在に気づく前、斉加は一人の「ヘイトスピーチ」の発信源の一人への電話取材に成功している。空振り続きの末にようやく得た接触であった。その相手は、在日コリアン弁護士への誹謗中傷、大量懲戒請求の発生源となったブログ「余命三年時事日記」の主宰者であった。

斉加の「ブログは本当にあなたが書いたのか?」という質問に対して、彼は臆面もなく次のように答えている(同p204-205)。

「書いているのは初期のあれなんか、単なるコピペですからね。他のいろんな情報なんかの。本人のそういう体験は、ほとんど入っていないんですね」

「作り話ですか」という斉加の質問に対しては、

「いや作り話ではないですよ。事実をコピペしているだけ。何の変哲もない、ふつうのコピペブログですよ」

「事実をコピペ」とは、一体何だろう。それが「何の変哲もない、ふつうのコピペブログ」と言っているのは、彼が、ブログとはおしなべてコピペの連鎖から成り立っていると認識していることを意味する。「コピペ」であるから、ブログに移されたのもデジタルの文章である。

「単なる」という言葉は、その作業が非常に簡単なものであると感じさせる。コピー元は電子書籍ではなく、ネット上の文章だと考えて間違いはなかろう。こうして、無署名の、根拠薄弱な、あるいはまったく事実無根の情報が次々と増幅されていくのだ。そうした情報の受発信者の多くは、「ネットで調べたらわかる」と信じているのである。

ブログ「余命三年時事日記」の著者は、生活保護の在日の人たちが「一銭も払わないで日本人の15倍も20倍も余計に取っている」「年金も一銭も払わなくても全部もらえる」などの「在日の蛮行」を「事実に基づいて書いている」と嘯(うそぶ)く。そしてひとたび日韓の間に緊張が走ると在日コリアンは国家にとっての脅威となり、いざ戦火を交えたときには何より恐ろしい「獅子身中(しししんちゅう)の虫」になると妄想するのである。

ブログ「余命三年時事日記」は、青林堂からシリーズで書籍化されている。

「作りたいという青林堂に、じゃあどうぞと言っただけの話で、あとはもう向こうが勝手になってるだけで、私は一切関わってませんよ。前書きは書いたけどそれだけですよ、だから青林堂はお金儲(もう)けでやっただけでしょう」(同p205)

事実確認どころか、著者とのやり取りもない「編集」。

さきほど言った「原則が守られない本」「ヘイト本」の典型である。そうした書籍も、きちんと編集された書籍と同じ範疇(はんちゅう)に入れてよいのか? 同じように書店の棚に並べて、読者に提供してよいのか? その問いが、ぼくたちに突きつけられる。

「絶版本」の重要な役目

書店という「アリーナ」に参戦した書籍は、ある一定の期間を経て退場する。商品としての力を失った(つまり売れなくなった)タイトルを出版社が「絶版」(*注1)とするケースが大半だが、本の内容が問題視されて出版社が「商品回収」を行い「絶版」扱いにすることも稀(まれ)にある。

公権力が後者を指示した場合それは「発禁本」となるが、戦後日本では、日本国憲法第21条において検閲が禁止され、法制度上の発禁は原則存在せず、もっぱら著作権やプライバシー権などをめぐる私人間の民事訴訟において、裁判所の判決または仮処分により出版等の差止めが命じられる場合に限られる。

だがドイツでは、ヒトラーの『わが闘争』が書店では買えないように、ナチズムを称賛する書籍の出版、販売は法律で禁じられている。

「あなたが、いまこそ語りたい『絶版本』はなんですか?」という問いかけに、そうしたナチズムの古典を挙げたのが、農業史研究者の藤原辰史(ふじはらたつし)である。2022年10月に刊行された『絶版本』(柏書房)は、その問いかけに対する24人の研究者、著述家の回答をまとめた本であるが、その中で藤原は、リヒャルト・ヴァルター・ダレエ(ドイツの政治家)の『血と土』(黒田禮二〈くろだれいじ〉訳、春陽堂)を選んだ(「ナチスの聖典は絶版にすべきか」藤原辰史『絶版本』p31)。

原題は『血と土から生まれる新貴族(Neuadel aus Blut und Boden)』、タイトルが示すのは、「前近代の貴族ではなく、土を耕し、自然と親しみ、高貴な心を持つ「アーリア人」の農民」である(同p33)。

「血と土地(Blut und Boden)」(同p33)は、農民帝国の復興を謳(うた)い、農民票を獲得して政権の座を射止めた、「ドイツの農村でこそ、健康な民族の知が育成される」と訴える農本主義的なスローガンだ。ドイツ民族、「アーリア人」の卓越性を主張し鼓舞した、きわめて人種主義的な本である。

ナチズムの古典中の古典であるから、現在ドイツでは古本屋以外で入手することができない(同p34)。藤原自身、「絶版でよかった、絶版で当然だ」(同p32)と言っている。では、なぜ藤原はこの本を「いまこそ語りたい『絶版本』」に選んだのか?

ひとつには、藤原が大学四年生のとき、卒論執筆のために貴重なバイト代をつぎ込んで購入したことによるのであろう。藤原は、「これまでの貴重な二十年を私は『血と土』というわずか三文字の言葉の解読に費やしてきてしまった」という(同p32)。

だが、藤原は次のようにも言っている。

「地球の危機、土壌侵食の危機、農業の危機が叫ばれる今だからこそ、私はこの本に膨大な注をつけた新訳版が出て然(しか)るべきだと考える。ダレエの思想を普及させるためではもちろんない。世界恐慌時に、ナチスがなぜ農村で多数の支持を得たのかを知るのに役立つからだ。逆に、どうして共産党や社会民主党がナチ党ほど農村票を獲得できなかったかを見極めることもできる」(同p34)

つまり、「絶版でも当然であるような本にも重要な役目がある」(同p35)のである。

ヘイト本の展示法は書店の大きな課題

もう四半世紀前の話になるが、書籍の「重要な役目」について、ぼくも同じような思いを持ったことがある。ジュンク堂書店京都店に勤務していた1995年、「地下鉄サリン事件」の犯人がオウム真理教の幹部だったことが判明した後、全国の書店のほとんどが書棚から外した麻原彰晃(あさはらしょうこう)の著書を含めてオウム出版の本を販売し続けたときである。

もちろん、ぼくの決断に対して、疑問の声も上がり、クレームも寄せられた。しかしぼくは、事件発覚後もオウム出版の本を売り続けることを、三つの理由をあげて宣言したのである。その一つが次のものだ(*注2)。

「オウム真理教があのような大事件を起こしたのであれば、識者と言われる人々は、つまりは学会やジャーナリズムは、その原因や発生させてしまった『状況』について発言する、少なくとも考える責任がある。その原資料として、オウム出版の本を販売する場を設けることこそ、書店人の責任と思う(現に、京大の社会学の研究室から、手に入るオウム出版の本をすべて入手したいという依頼があり、そのとき持っていた商品を何十冊も車でお届けしたことが、その後あった)」(福嶋聡『希望の書店論』人文書院、p193-194)

事件を起こしたオウム真理教幹部たちは、ほぼぼくと同世代であり、学歴も高い。彼らが何ゆえに無差別殺戮(さくりつ)を計画・実行したのか、それはぜひ知りたい、知らなくてはならないと思った。

ぼくと同学年の大澤真幸(おおさわまさち、社会学者)は『虚構の時代の果て』(ちくま新書)を書いた。年は少し上だが映画監督の森達也(もりたつや)は映画や著作でオウム真理教を追い続け、最後まで彼らの処刑に反対した。森もまた、決して彼らの犯罪を弁護するのではなく、なぜあのような事件が起きたのかを知ることにこだわり続けたのである。

麻原はじめ教団幹部の著作は、それによって多くの若者が入信したことを考えても、事件の究明に不可欠な原資料ではないか。

だが、注意深く読むと藤原は、「膨大な註をつけた新訳版が出て然るべき」と言っている。「膨大な注をつけた」という条件を読み飛ばしてはならない。「膨大な註」はおそらく、『血と土』の主張を読者が鵜呑(うの)みにしないための予防線であろう。先に、ナチズムを称賛するような本の販売を禁止する法律がドイツにはあると言ったが、藤原はより正確に、次のように書いている。

「ナチスの思想を代表する本を膨大な註釈を付けずに刊行するのは、ドイツでは禁止されている」(『絶版本』p34)

すなわち、膨大な註釈を付ければドイツでも刊行できることになる。つまり、その本の存在さえも秘し、決して人目につかぬようにする、ということではないのだ。それは、かつての国を挙げて行ってしまった過ちを、決して忘れないという姿勢にもつながるかもしれない。どこかの国は、明らかにその姿勢を欠いている。

ただし、ぼくがかつてオウム出版の本を事件発覚後も販売し続け、今もすべての「ヘイト本」を書棚から外すという行き方に留保を表明していることには、

その「註釈」が付されていないと指弾されうるのも確かだ。 だから、批判をする。置く以上は批判という形の「註釈」をつける。ケント・ギルバート『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社)百田尚樹『日本国紀』(幻冬舎)李栄薫(イ・ヨンフン)『反日種族主義』(文藝春秋)、他の批判的な書評(「百田尚樹『日本国紀』は歴史書ではなく『物語』」、「K・ギルバート氏の本で心地よくなってはならない」、「『反日種族主義』の『ありがたい』解釈に、心地よくなってはならない」)を朝日新聞社の「ウェブ論座」に寄稿した(*注3)。

だが確かに、「ウェブ論座」と書棚との距離は遠い。そんな書評は、断乎(だんこ)として「ヘイト本」の店頭販売を認めない人たちからは、「そんな書評はアリバイづくりに過ぎない」と言われるかもしれない。

「棚から外せ」とまでは言わないが「せめて他の本と区別して、展示エリアを特定すべき」という人もいる。だが、「有害コミック」の扱い方への指示と同様、同じ書店内に並べている以上、そのことの効果には疑問を否めないし、かえって目立たせるような気もする。

展示の仕方について工夫が必要であることは、ぼくも感じているが、今のところ、決め手となるような策は思いついていない。書店人として、大きな課題であると思っている。

「復刊」の必要性

『絶版本』を読んでいると、「絶版本」の意味が昔とは変わってきたと言える。

文筆家の吉川浩満(よしかわひろみつ)は言う。

「いまはプリントオンデマンド(POD)も普及してきたし、電子書籍版もあったりして、こうなるとまた絶版の意味と価値も変わりそう」(「『絶版』がモンダイなのだ」『絶版本』p159)

新刊文芸書の絶版までの期間の短さをかこつ斎藤美奈子(文芸評論家)も、「この忌々(いまいま)しい状況は、近年急激に改善されつつある。ひとつはAmazonマーケットプレイスに代表されるインターネット上の古書店である」と言っている。(「『本がない!』からはじまる旅」『絶版本』p198)

プリントオンデマンド(POD)や電子書籍の登場、インターネット上の古書店の充実によって、「絶版本」を読むことは、随分と容易になっている(ぼく自身も、Amazonマーケットプレイスを使って、出版社にも残っていなかった「絶版本」を入手したことがある)。加えて、図書館も、質量ともに、かつてよりもずっと充実してきている。今や、「絶版本」は、読みたくても読めない本ではなくなりつつある。その状況を受けて、社会学者の西田亮介(にしだりょうすけ)は「事実上の絶版が生じるのは、版元が電子化を行わず、紙の新刊本をストックし流通させることに経済合理的理由を見いだせなくなった結果、在庫切れ状態が放置されるからだ」(「血の散逸を防げるか」『絶版本』p85)と言う。

言われていることは確かにその通りだが、出版社の怠慢が「事実上の絶版」を発生させ、研究者や読者に不便を被らせているという非難のニュアンスには、出版流通の一端にいる者として、やや抵抗感がある。

西田が「経済合理性」という言葉を使っているように、売れず利益を生まない本を後生大事にしていられるほど我々の業界に余裕があるわけではない。吉川や斎藤が言うように、「絶版」になったからと言ってまったく読めなくなるわけではないし、また、電子化が万能なわけでもない。西田は次のようにも言っている。

「それどころか中小出版社のなかには、積極的にAmazonでの流通すら行わないところもある。過渡期においてはそうした選択肢もあり得たかも知れないが、勝敗決したあとの現在においては、もはや日本語の知識流通を明確に阻害していると言わざるをえない。電子化に抗うことも到底現実的ではないし、版元の美学以外に特段利点は見いだせない」(『絶版本』p90)

「勝敗決したあとの現在」には、不快感を隠せない。読書猿(読書家)の「なぜ本を読む猿は『復刊』をライフワークとしたのか」は、他の回答者とは着眼点と議論の方向性が違っている。彼は、昭和38年に今はなき中央図書出版社から刊行された学習参考書『現代文解釈の基礎』をちくま学芸文庫のひとつとして復刊し、文庫解説を担当した。そして、「今は受験でもここまでいらないんですよ」と言われかねない往年の難度の高い名参考書を、「学習参考書」としてではなく、(国語や読むことが軽んじられているこの時代に、真剣に読むことを鍛えたい人のための教本〈トレーニングブック〉)として復刊、多くの新たな層の読者を獲得、ちくま学芸文庫のベストセラーの地位に就かせたのである。(「なぜ本を読む猿は『復刊』をライフワークにしたのか」『絶版本』p167)

「電子書籍、電子古書店、納本制度によってすべての書物を収集、保管する国立国会図書館の資料デジタル化と個人配信によって、事実上『絶版本』はなくなる」、そうした「風説」が広まる中、「なぜ復刊が必要なのか」という問に対して、読書猿は次のように答える。

「その答えは、『書物は、閲覧可能であるだけでは、読まれるようにならないから』である。『個人配信』は確かに画期的だが、これを利用するのは、そもそも国会図書館を利用していた/少なくとも国会図書館がどういうところかを知っていた人にとどまるだろう」(同p165)

読書猿は、「良書の存在を知らせるだけでは十分ではない」と言う。「『良い本』であるだけでは、いかなる読書家であろうと、希少な人生の時間の一部を差し出したりはしない。書物は、各読み手の知的好奇心や情報ニーズ等に触れない限り、開かれることはない」からである(同p166)。

「復刊」の必要性、そして「復刊」にあたって必要なことを、彼は次のように纏(まと)める。

「内容(コンテンツ)は同じでも、その書が世に出た状況は、現在とは異なる。異なる時代に生まれた良書を召喚するためには、新たな文脈(コンテクスト)を与えてやらなくてはならない。『なぜいまこの書物なのか』という問いに、復刊に携わる者は答える義務がある」(同p166)

『現代文解釈の基礎』を文庫の形で復刊し解説を加えるという仕事は、読者がその本に出会い手に取るために必要な、「コンテンツを変えずコンテクストを変える」(同p167)作業だったのである。

ここに、書店という生業の存在理由(レゾン・デートル)もあると思う。立ち寄ってくださったお客様が、思いもかけなかった本に出会える空間を創造し、整えること。もちろん、書店もまた、「なぜいまこの書物なのか」という問いに、答えなければならないのだ。


(*注1)実際には、出版権の放棄となることを嫌い「品切れ重版未定」と称することが多いが、その場合も実際に重版するケースは少なく、事実上「絶版」と同じである場合が多い。

(*注2)あと二つの理由、そしてその表明の機会を与えてくれた京都大学生協書籍部へのクレーム騒動については、『希望の書店論』を参照いただきたい。

(*注3)三著は、通常「ヘイト本」とは名指されない。何十万冊も売れたベストセラーだからか。だが、これらの本の主張が日本の戦争責任を免罪する「歴史否定論」であることは間違いない。多くの読者に受け入れられやすいこうした本こそ、ぼくは危険だと思うのである。対して、「地下鉄サリン事件」へのオウム真理教の関与が明らかになった後のオウム出版の本は、読者がそれらの本に感化されて入信する危険性はきわめて低い。それが、ぼくがオウム出版の本を棚から外さなかったもう一つの理由であった。

2022年11月30日更新 (次回更新予定: 2022年12月25日)

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