本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
「いま、ヘイトクライムを問う」
MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店では、2022年10月8日(土)、トークイベント「IMAJU」83号刊行記念「いま、ヘイトクライムを問う~相模原障碍者殺傷(さがみはらしょうがいしゃさっしょう)事件と在日コリアンへのヘイトをどう考えるか~」を開催した。登壇者は、「劇団態変(げきだんたいへん)」代表の金滿里(キム・マンリ)とフリージャーナリストの中村一成(なかむらいるそん)。
「劇団態変」は、「身体障害者の障害じたいを表現力に転じ未踏の美を創り出す」という着想で、金が1983年に立ち上げたパフォーマンス集団で、舞台に上るアクターは全員が身体障碍者である。金自身も3歳のときにポリオを罹患(りかん)、小児麻痺(しょうにまひ)の後遺症が残る障碍者で、子供時代には10年間施設に収容され、「全国青い芝の会」の活動にも参加、「劇団態変」では、主宰・芸術監督・作家・演出家を務め、自身も舞踊家として舞台に上る。
以前からその活動に関心を持っていたぼくは、2020年にジュンク堂書店難波店で、劇団発行の雑誌「IMAJU」のバックナンバーフェアを展開。金滿里のトークイベントも、第1回大島渚賞(映画の未来を拓く新しい才能に贈られる賞)を受賞した小田かおり(監督/フィルムメーカー)との対談を2021年3月に、上念省三(じょうねんしょうぞう、舞台芸術評論家)との対談を2022年8月に難波店で開催した。
劇団態変の活動、金滿里のパフォーマンスをトークのメインテーマにした前2回の難波店でのトークを受け、2022年10月のMaruzen&ジュンク堂書店梅田店では、ヘイトクライムをテーマとした。
相模原障碍者殺傷事件とウトロ放火
ヘイトクライムは、在日コリアンの障碍者である金にとって、舞台でのパフォーマンスに勝るとも劣らず重要なテーマである。
2022年夏号の「IMAJU」83号の特集は、「ヘイトクライムを許さない」。「クロスオーバー対談 郭辰雄(カク・チヌン、コリアNGOセンター代表理事)×金滿里『日本が許容するヘイトクライム 7.26虐殺×ウトロ放火―優生思想とレイシズムへの闘いを結ぶ』」が巻頭を飾った。
「7.26虐殺」は、2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の障碍者施設「津久井やまゆり園」に元施設職員の男(事件当時26歳)が侵入し、入所者19名を刺殺、26人に重軽傷を負わせた相模原障碍者虐殺事件をいう。
「ウトロ放火」は、2021年8月30日、在日コリアンが集住する京都府宇治市ウトロ地区の空き家に22歳の男が火をつけ、周辺の住宅を含めて計16棟を全半焼させた事件である。けが人はなかったが、犯人は同年7月、名古屋市にある韓国民団の系列施設と韓国学校にも火をつけていた。犯人には、「朝鮮人に対して恐怖を与え、これが社会的に注目をされればインターネット等では自分に対する賞賛の声がおくられてくるはず」という動機を嘯(うそぶ)いている。
この二つの事件は、決して別々の事件ではない。「IMAJU」83号の巻頭対談から、金滿里と郭辰雄の言葉を引く。
郭「2016年は障碍者差別解消法であったり、ヘイトスピーチ解消法、部落差別解消推進法など、いろんな人権に関わる法律ができたにもかかわらず、ヘイトスピーチは広がって相模原の事件は起こった」
金「ねえ、その年に起こったっていうところがショックなんですけど。(中略)2021年前後くらいから、そのヘイトデモが酷(ひど)くなってきて『鶴橋大虐殺、やりますよ』っていう中学生の発言が出てしまった後に、2016年に本当に障碍者が19人も殺されてしまったっていうのは、まさしく私にとってはね、ヘイトのデモがずっと続いてきた延長線上に障碍者の虐殺があったというふうに思ってるんですよね。時代はどんどん変な方向に経過する。そういう中で、本当に殺されてしまったのが、障碍者なんだってことをやっぱりものすごく力説したいんですよ」(p15)
二人は、相模原障碍者殺傷事件で被害者の名前が公表されていないことも、問題にしている。
金「私は在日コリアンとして、自分の名前を奪われてきたっていうところには非常に敏感でして、障碍者の名前を同じように、その殺されてもまだ奪うっていうところのね、その問題っていうのは、普通の日本人が感じるよりも、これは絶対犯罪なんやと、二重の意味で殺してるんやっていうことを強く思うのですよ」(p16)[*注]
郭「相模原のヘイトクライムがどういう事件であるかを踏まえ、ウトロ、愛知の民団施設などへの連続放火事件という在日コリアンへのヘイトクライムと連なるものとして、考えていく必要があると思います」(p17)
金は、2016年7月26日に神奈川県相模原市にある障碍者施設津久井やまゆり園で殺された19人の障碍者の四十九日から毎年行われている大阪梅田での追悼アクションに欠かさず参加、2022年7月26日のアクションでは、最初のスピーチを行っている。
ウトロの起源
2022年10月8日のトークイベントのもう一人の登壇者中村一成には、これまで『ルポ 京都朝鮮学校襲撃事件』、『ルポ 思想としての朝鮮籍』(ともに岩波書店)などの著書があり、2022年4月に『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』(三一書房)を上梓した。
この本は、中村が20年にわたってウトロの人たちから聞き取りを行い、生きた言葉によってウトロに住んだ在日コリアンの戦中戦後から今日までの苦難の歴史を描き出している。
ウトロの在日コリアン集落は、戦争勃発を見据え、1940年に着工された「京都飛行場」建設に起源がある。中国との戦争の長期化、欧米との関係悪化の中で空軍力の増強が目論(もくろ)まれたこの飛行場建設は、逓信省(ていしんしょう)と民間飛行機会社「日本国際航空工業」が事業主体となり、京都府の実務を仕切った。
1日約2000人が働き、うち1300人が朝鮮人労働者だったという。1943年、滑走路用の土砂を採集した後にできた「くぼ地(宇土〈うと〉)」に、いくつかあった朝鮮人の飯場が統合されたのだ。その宇土口(うとぐち)、その読み間違えである「ウトロ」が後に正式な地名になったという。
日本の敗戦(朝鮮にとっては解放)後、朝鮮人労働者は補償もないまま置き去りにされる。
「解放」後の状況は、過酷だった。地名が表すようにウトロは「くぼ地」であるから、何度も水害に襲われた。
下水道も浄化槽もないから、廃材を貼り合わせた箱の下に壺(つぼ)を置いただけの共同便所から、糞尿(ふんにょう)が溢(あふ)れ出す。
「台風がくると水浸しですわ。私ら正直、ウンコの中を泳いでいたようなもんです」
住み家は、雨漏りはもちろん、隣家との隔ても十分ではなかった。
「松の木だから節が多くて、子供が押すと穴が開いて向こうが丸見えになる。どこの家も同じようなことをやった。隣の様子が筒抜けになるから、『隣はあんなええもん食べてる。おかずが多いなあ』なんて言ったら、みんなで一緒に食事したりしてね。みんな貧乏やったけど、助け合ったわ。だからやっていけた」
安普請(やすぶしん)は、住民の結束も強めたのである。
一夜にして「外国籍」となる
敗戦直後の混乱を抜け出した日本は、在日コリアンを、より過酷な状況に追いやった。
「日本では『主権回復の日』とされる1952年4月28日、ウトロ住民らを含む在日朝鮮人、台湾人は、植民地化で強要された日本国籍を今度は一方的に喪失させられる」
一夜にして「外国籍」となった彼らは、戦後保障、社会保障の対象外とされる。そして、「解放」された祖国を分断する戦火。住処(すみか)に隣接する、自分たちが建設した軍事飛行場には、連合軍が進駐していた。
「鉄屑(くず)拾って売ってたけど、あれ結局朝鮮に流れて、戦争で使ったんだと今思うのです。(中略)自分の国、滅ぼしてくれいうて鉄、運んでいるようなものです。当時そんなんわからへんやん。ただ食うだけのことや」
「戦後の混乱が収束し、才覚や力で糊口(ここう)を凌(しの)げた時代が終わると在日朝鮮人の経済状況は悪化」していた。生きるための「闇(やみ)」酒、「闇」煙草の製造は警察の介入の恰好の材料となり、唯一可能だった生活保護は、しばしば「不正受給」摘発の対象となった。
そのように在日コリアンを経済的に追い詰めることは、1959年に始まる北朝鮮への「帰国」運動とセットであった、と中村は指摘する。
「歴史の証人であり、謝罪と補償の対象である在日朝鮮人の国外追放が政府にとっての『帰国事業』だった」
「段取りはしたんや。帰りたい気持ちはあったよ。でも帰る余裕なかった。今になれば、『いかんでよかったな』って思ったりもする。解除なってから二つに別れた。それで大変やってな、食べるもんもないとか、ヨモギ1本もないちゅうて、評判があまりようなかった。そやから一緒になったらと思って、うちらそのまま朝鮮籍持ってた。そやからなかなか帰られへん」
「そやから一緒になったらと思って」という言葉は重い。今なお指示する対象のない「国」籍の存在の意味を、(特に「在日特権」などと言う人たちは)ぜひ知ってほしい。
郷土史家不在のウトロ
時代は下り1980年代、思いもしなかった問題が住民たちを襲う。土地登記者である日産車体(飛行場建設時に登記した日本国際航空工業が戦後、日産と合併した会社)が、「不法占拠」としてウトロの在日コリアンに土地明け渡しを迫ったのだ。騙(だま)し同然で集めて重労働を課し、何の保障もなく放ったらかしにしておいて今さら出ていけとは、何をか言わんやである。そもそも土地の所有権とは一体何なのかと思わされる。
裁判への戸惑い、強制執行の恐怖、地上げ屋の跋扈(ばっこ)、同胞の「裏切り」……。だが、一方で日本人協力者、援助者も現れ、韓国では2002年に金大中(キム・デジュン)大統領を象徴に、ようやく成った民主化が故国の人々の目をウトロに向けさせた。韓国政府や運動団体の日本の政府や行政への働きかけ、そして市井の人々の広範な寄付がウトロの人々を支援し、奮い立たせる。
ウトロの歴史は、戦後日韓史の縮図なのだ。それは、植民地支配の歴史的責任、戦後補償の棚上げを問う、ウトロ住民の困難にして不屈の闘いの歴史である。
『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』での中村一成の仕事も、そうだったのではないか。戦後ウトロに生き続けた在日コリアンは、敗者、死者ではないが、戦後日本の欺瞞(ぎまん)に抑圧され、苦しめ続けられた人々だ。しかも、彼らには自分たちの苦難に満ちた生活を記録する術(すべ)もなく、そうした発想を持つ余裕もなかった。
中村は、聞き書きを本にするにあたっての困難を、次のように書いている。
「日常、しかもそこに住む者にとっては『普通』である日々の営みを後々のため記録する者など滅多にいない、ましてや極貧の集落である。識字率の低さもあり、ウトロに『郷土史家』はいなかった」
にもかかわらず、否(いな)それゆえにこそ、中村の聞き書きは、豊穣(ほうじょう)である。ウトロの人たち一人ひとりが、書き留めることができなかった歴史を、溢れ出す思いで中村に語っている。ただし、ほぼ聞き書きであることに、中村はいささかの危惧を覚えている。
「加えて住民たちの体験を時系列に位置づけることの難しさだ」
参照する記録もなく住民たちの記憶の正確さを検証できるのか、時系列できちんと整理することができるのか、膨大な証言を一冊にまとめる困難は、想像に余りある。だが、ウトロの歴史的経緯と、敗戦後も振るわれ続けた構造的暴力の量と質、今なお残る(ときにますます強まる)レイシズムを思いながら、中村はその困難に立ち向かう。
「遺されたものが歴史と向き合う上で大事なのは、客観的事実以上に、彼、彼女にとっての真実だと思う。誤解を恐れずにいえば、語られたことが事実である必要はない」
証言も筆記も人間の営みだから、誤りも虚偽もそこに潜入し得る。相互に矛盾する場合もあるだろう。そもそも膨大な数の史料のどれを選択して「歴史」を組み立てるかに悩む。
打ち捨てられた歴史
中村の悩みに答え、エールを送ると思われるのが、歴史学者・藤原辰史(ふじはらたつし)の研究姿勢である。藤原は、自らの歴史学を「屑拾い」と言う。歴史は常に勝者、生存者によって描かれ、敗者、死者は歴史を語る口を封じられてきたので、それぞれの時代の全体像をつかむためには、「屑」として打ち捨てられた後者の証言を掘り出すことが不可欠だからだ。
藤原は、それぞれの時代の人々の具体的な生を復元せんがため「大きな物語」に接続しえず顧みられなかった名もなき人々の日記や生活記録を大切に、丁寧に拾い上げる(『歴史の屑拾い』講談社)。
膨大な候補から有意な史料を発見するのは、干し草の中に針を探す作業である。それを支えてくれるのが、研究者仲間や先人の研究、すなわち時空を超えた歴史研究者のネットワークである。歴史研究は共同作業であり、個人の恣意的な創作ではないのだ。
中村が悩む個々の史料の参照適格性については、藤原も「一次資料を恣意的に選択し配置することは、読者の感情にダイレクトに訴えるのと引き換えに、ひとりよがりな歴史観への扇動や誘導にも容易につながる」(『歴史の屑拾い』p103)と言い、慎重な扱いの指針として次のように語っている。
「できるかぎり多くの史料と歴史研究を読み込み、出来事の文脈を探らなければならない。それができてようやく一次史料の『手触り』を保ちながらの歴史叙述の方法を探り続けるという困難な道への扉を、開くことができるのである」(同p103)
藤原は、その「困難な道」をたどるための道標、エネルギー源を、次のように言っている。
「大事なのは、方法をあれこれ模索すること以上に、自分を引き付けてやまないテーマに会い、それに振り回され続ける、ということに他ならない」(同p63)
中村一成にとって、「自分を引き付けてやまないテーマ」は戦後日本が在日コリアンを遇してきた「歴史的経緯と、敗戦後も振るわれ続けた構造的暴力の量と質」(『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』p347)であろう。
ウトロの人たちの証言が汲(く)み尽くせぬほど溢れたように、そのテーマは戦中戦後の清算がまったくされずに先送りされている(あわよくば、ないものとされようとしている)この国において、より深く究(きわ)められねばならないものだ。中村の執筆活動は、その一里塚である。
この国の多くの人が、『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』をはじめとした中村の著作、また、在日コリアンの歴史と現在を知ることのできる良質な著作に出会い、この国が何をしてきたかを知らなければならない。今日、そのことがまったく不十分であるからこそ、冒頭に書いた放火事件が起こり、その犯人が法廷で許すことのできない発言をするのである。
2022年10月8日のMARUZEN&ジュンク堂書店梅田店のトークイベント「IMAJU」83号刊行記念「いま、ヘイトクライムを問う~相模原障碍者殺傷事件と在日コリアンへのヘイトをどう考えるか~」で、中村一成が作成、使用した資料から、ウトロ放火事件の被告が法廷で語った言葉を引用する。
「今日本や世界で多くの罪のない人たち、困窮者たちが支援を受けられず見殺しにされている。その一方で戦争の被害者だという一方的な理由で国民以上の支援を受けている人たちがいる。私のように差別、偏見、ヘイトクライムの感情を持っている人たちは至る所に多くいる。仮に私を極刑で裁いたとしても、一個人の身勝手な事件だと部分的に切り取って終息させたとしても、今後色々な事件、さらに凶悪な事件が起こることが容易に想像できる」
「今後、同様のそれ以上の事件が起き、その時は命を失う人が出るかもしれない。この事件は単なる個人的な感情の問題ではない」(2022年6月21日)
この言葉を受けて中村は「彼が法廷でなしたもの。彼の犯行を『悪感情』『嫌悪感』などと評して『個人的感情』に押し込めようとする検事と、『考えを変えつつある≒反省の色が見え始めた』と主張して情状を求める弁護士の意見陳述に反発したのだろう。最後に自らの行為をヘイトクライムであると事実上、宣言し、後に続く者たちの犯行を予言した」と記している。
[*注]2019年7月18日に36人が死亡した「京都アニメーション放火事件」でも被害者の実名報道の是非についての議論があった。事件の背景は異なるが、金の言葉は、報道姿勢に対して示唆を与えているように思う。
2022年12月26日更新 (次回更新予定: 2023年01月25日)
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