本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
“誇らしげに”名乗りを
「謝罪も反省もない。検察の仕立てを否定、弁護人の陳述を無視し、自らの犯行をヘイトクライムだと宣言、次の『犯行予言』までやってのけたのである。廷内の空気がざわめき、裁判長が目を剥(む)いて被告の顔をまじまじと見つめる。傍聴席からは『求刑やりなおせ!』の怒号が飛んだ」
「言論のアリーナ」第22回「名もなき人々の歴史を伝える著作」の最後に引いた、ウトロ放火事件被告の法廷での差別意識に溢(あふ)れた「居直り」発言の際の様子を、フリージャーナリストの中村一成(なかむらいるそん)が『部落解放』に寄稿した「ウトロ放火事件判決とヘイト犯罪との闘い―反差別規範の積み上げの先にある差別認定」で再現した箇所である。(『部落解放』2023年1月号p81)
怒号。
無理もない。放火事件が起きてから、ウトロの人たちの心は、かき乱されている。火事が起きた直後は、警察は「事件性なし」、つまり放火ではなく失火と判断した。
住民側には、放火を疑う人が何人もいたが、「失火」を願う声も少なくなかったという。そのことは、「自らと家族、そして同胞たちの歴史、喜怒哀楽を刻み付けた故郷が、ここにきてなおヘイトの対象であるなどと思いたくはない」という気持ちの反映だ、と中村は説明している。(同p74)
そんな人たちの前に、「放火犯」が“誇らしげに”名乗りを挙げたのだ。「住民の衝撃、『やっぱりな』との悲しみと落胆」(同p75)は大きかった。
被告は、「拘置所内でメディア各社の取材に応じ、『朝鮮人が嫌い』『恐怖を与える』『ブツを狙った』『ヤフコメ民にヒートアップした言動を取らせる』などと語り続けた。『ヘイトクライム』であるのは明らかだった。後は裁判所が『差別的動機』を認定し、量刑を加重すればいい」(同p75)と中村は重い刑罰を期待した。
だが、求刑は「懲役4年」だった。「明確なヘイト犯罪で、死傷者が出る恐れもあった事件でこの量刑だ」(同p80)と、中村は天を仰ぐ。
法律として明文化されていないヘイトクライム
放火は非常に悪質な犯罪である。刑法第108条は、「放火して、現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物、汽車、電車、艦船又は鉱坑を焼損した者は、死刑又は無期若(も)しくは5年以上の懲役に処する」と量刑の幅を規定している。死刑もあり得る重罪なのだ。
「懲役4年」の求刑は、この規定には当てはまらない。すなわち、ウトロ放火事件は、「現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物」への放火とは見なされなかったのだ。
被告は、地区の共有倉庫として使われていた空き家に侵入して、手製の発火装置で火を放った。確かにそこは「現に人が住居に使用し又は現に人がいる建造物」ではなかったが、その結果全半焼させた7棟のうち2棟には子供2人を含む5人が住んでいた。筋向かいの住宅にも住む人がおり、死傷者が出なかったのは運が良かったからなのだ。立派な「殺人未遂」ではないか。
傍聴席から、「求刑やりなおせ!」の怒号が飛んだ所以(ゆえん)である。
しかし、判決も「懲役4年」。中村を含めた傍聴席の人々の落胆、怒りはいかばかりであったか、と思う。
一方、弁護士で外国人人権法連絡会事務局長の師岡康子(もろおかやすこ)が『世界』2022年11月号に寄せた論考「ウトロ等連続放火事件 判決の意義と課題」での判決への評価は、少しニュアンスが異なっている。
「求刑の八掛けほどの言渡しをうるのが一般的であり、特に被告人が犯行当時二二歳と若く、初犯であることを考慮すると、動機の悪質性等を踏まえて通常より量刑を重くしたともとらえることが可能である」(『世界』2022年11月号p17)
また、判決文についても、次のように書いている。
「判決は『社会の不安をあおって世論を喚起する』ことなどは『民主主義社会において到底許されるものではない』と指弾し、検察の論告求刑にはなかった『民主主義』という用語から、裁判官のヘイトクライムに歯止めをかけなければならないという危機感がうかがわれる」(同p17)
中村もまた、「裁判体は彼の言動を『民主主義社会において到底許容されるものではない』と断罪した」(『部落解放』2023年1月号p81)と言う。
最初に挙げた「裁判長が目を剥いて被告の顔をまじまじと見つめる」という中村の報告とも整合する。
だが、これはあくまで求刑―判決の関係性の元での評価である。事件の、そして勾留(こうりゅう)中から法廷における被告の言動を見る限り、「求刑やりなおせ!」の怒号にリアリティーがある。
師岡も、判決文について、次のように批判している。
「他方、同判決文には『差別』『ヘイトクライム』との用語はなかった。被告人自身が『差別偏見、ヘイトクライム』との用語を使い、かつ量刑の内実はヘイトクライムの実体をかなり踏まえていることから、あえてその用語を避けたと思われる。『差別』『ヘイトクライム』そのものへの非難はなく、在日コリアン全体にもたらす被害についても言及がないため、ヘイトクライムを抑止する一般予防効果は不十分であり、画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くと言わざるを得ない」(『世界』2022年11月号p17)
それでも、「そもそもヘイトクライムを含む差別を禁止する法律もない現状では、個々の裁判官にとって、とりわけ罪刑法定主義から類型的な判決が求められる刑事裁判においては前例のない判決を出すのは容易ではないことは想像に難くない」(同p17)のである。
罪刑法定主義は、どのような行動がどのような刑罰に値するかをあらかじめ法律で定めておかなければならないという、民主国家なら当然採用している原則である。人々を、国家などの権力による恣意的な量刑の決定から守るため、裁判においてこの原則は遵守されなければならない。
逆にいうと、罪悪極まりないと思われる犯罪でも、法律に定められていない限り罰せられることはないのである。そして日本に、「ヘイトクライム」を罪として明文化した法律は、ない。
「ウトロ放火事件」の公判で、被告が堂々と「ヘイトスピーチ」を繰り返すことができた所以である。
世界的な潮流は、決してそうではない。
無視する司法、看過する政府
中村一成は言う。
「差別との対峙は第二次大戦後国際社会における大きなテーマだった。人種差別撤廃条約が発効したのは1965年、国連の人権条約では最も早い。個別国を見てもドイツ刑法の民衆扇動罪(1960年)を皮切りに、欧州各国では差別を禁止する法整備を行い、その後も改定を重ねてきた。ヘイトスピーチを『表現の自由』とする米国でも、1964年には新公民権法を制定し、差別を禁止している。ヘイトクライムについても、米国や欧州諸国など、量刑加重を制度化した国も少なくない。
なぜか。端的に言えば『過去』に学んだのだ。植民地支配、奴隷貿易、二度の世界大戦、人種隔離政策を見据えた『国際社会』が、今のままではいけない、二度と繰り返すまいと考えたとき、対処すべき元凶の一つは『差別』だった。世界人権宣言と、そこに続く国連の人権条約の数々はその誓いだ」(『部落解放』2023年1月号p75-76)
翻(ひるがえ)って、日本ではどうだったか?
「植民地化で朝鮮人、台湾人を『臣民』の枠に引きずり込んだ日本は当時、戸籍の違いで彼らを『二級臣民』とした。レイシズムの制度化である。
敗戦後は、『戸籍』を『国籍』に切り替えた。日本が執った敗戦後初の外国人政策は『戸籍』の違いを理由にした参政権停止だった。その後の外登・入管体制による管理、監視、追放の対象化や、戦後補償、社会保障からの徹底した排除など、これら旧植民地出身者に対する差別措置の『根拠』は、軒並み国籍だ。『戦後』のスタートにあたって日本は、差別をその背景とした」(同p76)
日本は、「過去」に学ばなかった。そして、ここに書かれた内容は、敗戦後80年近くを経た現在も変わっていない。今も、日本は「過去」に学ばないままなのだ。
世界も、そのことを知っている。日本は、国連などの国際組織から何度も勧告を受けてきた。
「日本も加盟する人種差別撤廃条約第4条(a)はヘイトクライムについて、『いかなる人種若しくは皮膚の色若しくは種族的出身をことにする人の集団に対するものであるかを問わずすべての暴力行為またはその行為の扇動』等を『法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること』と定めている。また同条約により設置された人種差別撤廃委員会は『市民でない者に対する差別に関する一般的勧告30』(2004年)において『人種的動機または目的をもって犯罪をおこなったことが、より厳格な刑罰を認める刑の加重事由となるとする規定を刑事法の中に導入すること』(22項)とし、明確にヘイトクライムの加重処罰を求めている」(『世界』2022年11月号p15)
「悪意の観点から参照し、量刑の重さに反映される」
これは、2010年2月、ジュネーヴの人種差別撤廃委員会が日本政府の報告書審査を行った年の日本政府代表の答弁である。この答弁自体玉虫色だが、それでも、「量刑の重さに反映される」との答えはヘイトクライム対策における日本政府の「国際公約」である。
ところが、同時に起こっていた「在日特権を許さない市民の会」などのレイシスト集団による京都朝鮮第一初級学校に対する度重なる襲撃事件の主犯格4人に対して、京都地裁が翌年言い渡した判決は、執行猶予4年付きの懲役1~2年であった。果たして彼らの多くは執行猶予中に同様の街宣を繰り返し、2人は実刑判決を受け、執行猶予を取り消され収監された(『部落解放』2023年1月号p72-73)。
明らかに「国際公約」違反による失態である。今回のウトロ放火事件の判決を見ても、日本の司法は10年以上、「国際公約」を無視し、日本政府もそれを看過してきたと言わざるを得ない。
「差別を裁く」とは何を裁くのか
こうした事態、経緯を鑑み、中村は最後に三つの提言をしている。
「まずは進行中の民事訴訟を支援し、判例を積み重ねること」(『部落解放』2023年1月号p82)
具体的には、在日コリアン三世の崔江以子(チェカンイヂャ)、フォトジャーナリストの安田菜津紀(やすだなつき)がそれぞれインターネット上での差別、中傷に満ちた投稿の主に、損害賠償を求めて提訴した2件を挙げている。
「加えて立法である。(中略)法的応戦の『成果』を基に、新規立法、条例制定を視野に、国や自治体、議会を動かす必要がある」(同p82)
前述のとおり、そもそもこのような立法については、2004年に日本も加盟する人種差別撤廃条約により設置された人種差別撤廃委員会から、「人種的動機または目的をもって犯罪をおこなったことが、より厳格な刑罰を認める刑の加重事由となるとする規定を刑事法の中に導入すること」(22項)との勧告を受けている。
日本は、20年近く、その宿題を放ったらかしにしてきたのだ。2016年6月3日に「ヘイトスピーチ解消法」(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律〈平成28年法律第68号〉)が公布・施行されたが、この法律に罰則規定、すなわち「より厳格な刑罰を認める刑の加重事由となるとする規定」はない。
中村は、「次の山は相模原(さがみはら)市の反差別条例制定運動である」と、知的障害者施設「津久井(つくい)やまゆり園」で19名の入所者が刺殺され、入所者・職員26名が重軽傷を負った「やまゆり園事件」が起きた相模原市の条例制定に期待を寄せている。
師岡もまた、「川崎市では2019年にヘイトスピーチを犯罪とする条例が制定されている。現在神奈川県相模原市では、ヘイトスピーチの禁止と罰則に加え、『ヘイトクライム』という用語を条例に明記すること等を市に求める答申を作成中」(『世界』2022年11月号p18)と、注目している。
だが……。
「ヘイトスピーチ規制を含む人権条例に関する答申について検討している相模原市人権施策審議会が24日、開かれた。不当な差別的言動(ヘイトスピーチ)に罰則規定を盛り込むことを7月の審議会で決定したが、市作成の資料には『罰則を付すか否かは決着していない』と記載されており、委員らが軌道修正する事態となった」(2022年9月25日神奈川新聞)
相模原市長の本村賢太郎は、2022年内の成立を目指していたが、断念した。[*注]
どうして、こうなるのだろう。差別発言を禁じ、違反者に刑罰を課すことが、どうしてこれほど難しいのか?
国の反差別の法律としては、2016年8月ようやく「ヘイトスピーチ解消法(本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律)」が施行されたが、「取組の推進に関する法律」という名が示すとおり「理念法」で罰則規定を含んでいない。
川崎市は全国に先駆けて罰則規定を設けた条例を2020年7月に全面発効させたが、「ヘイトクライム」を防止するにはその罰則規定は未だ不十分という声も多い。
なぜ、明らかに人の心を傷つける、言い訳の余地のない犯罪に対して、法律が十分な対抗措置を、なかなか取れないのであろうか?
中村の三つ目の提言は、「一人ひとりがあらゆる回路を使って、『反差別』を発信すること」(『部落解放』2023年1月号p82)であった。
直感的かつ結論的には、「差別を重罪に!」という思いは揺るがないが、それを具体化するプロセスでは複雑な問題が輻輳(ふくそう)し、実際に法律化し実効性を持たせるためには、熟慮と議論が必要だと思われる。
憲法21条の「表現の自由」を声高に掲げられることには、すでに提出されている多くの説得力ある反論が参照可能だが、「差別を裁く」とは何を裁くのか、差別者の内面か? 実際の行為か? それによって被差別者が受けた被害感情か? それらは、量刑に反映すべく定量可能なのか? さらに、そもそも人を裁くとは何か?
考えるべきことは多い。学ぶべきことは多い。参照すべき言説、議論は、多くの書物の中に刻印されている。課題が困難であればあるほど、書店の役割は重要となる。
(次回へ続く)
[*注]その後、2022年10月19日夜、本村が諮問(しもん)していた市人権施策審議会が答申案を発表、2022年12月13日には、反差別条例の制定を求める五つの市民団体が合同で約13万筆の署名を市長に手渡した。2023年4月の市長選への再出馬を明言していない本村は、かねてより、「たとえ次の市長になっても、条例化に関しては継続される」と語っているという。
2023年1月30日更新 (次回更新予定: 2023年02月25日)
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