本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
差別行為の放置とヘイトクライム
ここまで見てきたように、ヘイトクライムを裁く仕組み、防ぐ仕組み、具体的には法の制定と執行が、日本には不足ないし欠落している。日本政府は、他国に遅れて締結した「人種差別撤廃条約」第4条が要請する、人種差別を「処罰すべき犯罪であることを宣言すること」を、未だに留保しているのだ。
ヘイトスピーチ解消法(「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」平成28年法律第68号)はできたが、そこに処罰規定はないから、「処罰すべき犯罪であること」を未だに宣言できていないと言っていい。
「我が国の現状が、既存の法制度では差別行為を効果的に抑制することができず、かつ、立法以外の措置によってもそれを行うことができないほど明白な人種差別行為が行われている状況にあるとは認識しておらず、人種差別禁止法等の立法措置が必要であるとは考えていない」(2010年2月、人種差別撤廃委員会への日本政府報告・第4条関連)
この政府報告を引用したあと、同志社大学社会学部教授で朝鮮近現代史・植民地主義研究を行う板垣竜太(いたがきりゅうた)は次のように補足する。
「このように日本政府は、新たな立法をするほどの深刻な人種差別被害はないといい切っています。京都の襲撃事件の前にあたる2008年8月の報告でも、事件直後の2010年1月のときも、裁判で審議中の2013年1月も、日本政府は人種差別撤廃委員会で第4条の留保について一貫してこの論理をくりかえしてきました」(LAZAK編『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』影書房、p45-46)
「京都の襲撃事件」とは、2009年11月4日に起きた「京都朝鮮学校襲撃事件」である。
「在特会」メンバーらは2010年1月14日にも同様のデモを行い、裁判所による街宣差止仮処分命令も無視して、2010年3月28日にも差別街宣を強行し、威力業務妨害、器物破損(刑事)で有罪、民事訴訟でも京都地裁が1226万円の賠償と学校から半径200メートル以内での街宣を禁じる判決を下される。
2014年7月8日大阪高裁が被告の控訴を棄却、2014年12月9日最高裁が二審判決を支持し、原告(学校側)勝訴が確定した。
「『ヘイトスピーチ判決』として国内外に広く報道されたこの判決は、日本の裁判所がはじめて『人種差別の違法性』を正面から認めたものとして、画期的であると評価できる」(具良鈺「人種差別の違法性を認定―京都朝鮮学校襲撃事件判決」『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』p66)
判決文には、「刑事事件の量刑の場面では、犯罪の動機が人種差別にあったことは量刑を加重させる要因となるのであって、人種差別撤廃条約が法の解釈適用に直接的に影響することは当然のこととして承認されている」と、はっきり言明されている(同p82)。
こうした事件とそれに対して下された司法判断を経てなお、日本政府は「明白な人種差別行為が行われている状況にあるとは認識しておらず」と言い続けているのである。
あるいは、原告(学校側)勝訴を「既存の法制度で差別行為を効果的に抑制することができ」ることの証左にしようとしているのだろうか。そうだとしたら、民事訴訟において、自分たちの被害が否定されるかもしれないとの不安を抱えながら法廷に通った在日コリアンの労苦を無視している。
そして、襲撃当日「ここは北朝鮮のスパイ養成機関」「こいつら密入国の子孫」「犯罪者に教育された子ども」「スパイの子ども」と大声で罵倒され(中村一成「日本におけるヘイトスピーチ」『ヘイトスピーチの法的研究』金尚均編、法律文化社、p36)、怯(おび)え切って「朝鮮人って悪いことなん?」「朝鮮学校ってアカンのん?」「オンマ、私ら何か悪いことしてるの?」と親に問いかけた子供たちの大きな心の傷に思い及ぶこともない。
何よりも、昼日中子供たちが就学中の学校を、いわれもない罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけるヘイトデモの一団が襲撃した時点ですでに「明白な人種差別行為が行われている」のであり、そのことを「認識して」いない日本政府は、完全に誤っているのだ。すぐさま立法措置をとるべきところ、その後も繰り返されたヘイトデモを等閑視(とうかんし)した。
その結果、2013年2月には、「在特会」「神鷲皇国会(しんしゅうみくにかい)」などの自称「保守系市民団体」が、在日コリアンの集住地である鶴橋(つるはし)周辺で「日韓国交断絶国民大行進」なるデモと街頭宣伝が実施されるに至る。
鶴橋駅前で、女子中学生が「ここにいるチョンコが、憎くて憎くてたまらないんです!」「もう、殺してあげたい。みなさん(周囲に集まって歓声を上げる日本人たち)もかわいそうやし、私も憎いし、死んでほしい! いつまでも調子に乗っとったら、南京大虐殺じゃなくて鶴橋大虐殺を実行しますよ!」のヘイトスピーチを連呼したのだ。
そして、2021年8月の「ウトロ放火事件」である。犯人は、その後、愛知県民団本部への放火事件も起こしている。
日本政府が放置している間に、ヘイトクライムは、次々と繰り返されているのである。
法制化が困難なのはなぜか
日本政府が頑(かたく)なに法制化を拒む理由は、いったい何か?
政府のトップは、選挙によって選ばれた政治家である。政治家がもっとも恐れるのは、自らの支持層が離れ、票を失うことだ。では、彼ら彼女らは、自らの支持基盤をなす厚い選挙民層が、ヘイトクライム、ヘイトスピーチに同調しているとでも思っているのだろうか?
そうではあるまい。ヘイトクライムのあからさまな「差別」は、いかなるものでも許されないという原則は、多くの国民が共有しているはずである。ただし、いまの政府の支持する保守層が、その名の通り日本国を保守することに熱心なあまり、排外的な方向性をヘイト派と共有する傾向があり得ることは否めない。だが、そうした層も、ヘイト・デモにおける在日コリアンに対する激しい罵倒や誹謗(ひぼう)を、その多くは認めていないだろう。
では、なぜ、日本政府はヘイトクライムの処罰を定める法制定を躊躇(ためら)うのか?
だが一方、処罰規定を伴った法制化を躊躇っているのは、日本政府だけではない。
LAZAK(在日コリアン弁護士協会)代表の金竜介(きんりゅうすけ)は言う。
「『朝鮮人をぶっ殺せ』というような文言に対して刑罰を科すのは難しいということは私にもわかります。しかし、これを取り締まれないのはなぜなのか。なぜ、これに対応する法律をつくることに弁護士たちは反対するのか。私の感覚では、特に人権派と呼ばれているような弁護士さんのほうが強く反対するという傾向があるように思います」(『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』p145)
人権派は、社会的弱者の味方である。そして在日コリアンは、明らかに社会的弱者である。本来ヘイトスピーチ規制最先鋒(せんぽう)の法律の専門家であるはずの人権派の弁護士が、なぜその法制化に反対するのか?
以下は、『法律時報』64巻9号(1992年)に掲載された座談会「『差別的表現』は法的に規制すべきか」における横田耕一(法学者)の発言である。
「議論の前に、わかりきった話ですが、あらかじめはっきりさせておきたいのは、ここでの議論は、差別表現がいいとか悪いとかの問題ではないということです。差別的表現が悪いのは当然であるとしても、それを法的に規制することがいいかどうか。しかも、その場合にも、政策的にいいかどうかではなく、憲法的に許されるかどうかに、もっぱら議論を集中していきたいと考えています」(桜庭総「刑法における表現の自由の限界」『ヘイトスピーチの法的研究』p107で引用)
この発言に、人権派の逡巡(しゅんじゅん)のポイントが集約されているのであえて孫引きした。
「差別的表現が悪いのは当然」は、人権派にとって疑いようのない前提である。ところが、「法的に規制することがいいかどうか」、「憲法的に許されるかどうか」は、議論しなくてはならない問いなのである。
この二つの問いは、一見同じことのようだが、分けて考える必要がある。言い換えれば、法律と憲法には当然強い関係があるが、その役割には真逆な部分もあるのだ。
ときとして法律と憲法は矛盾・対立する場合があり、だからこそ法令その他の処分が憲法に違反していないか(憲法適合性)を審査し公権的に判断する、違憲審査制が存在する。違憲審査制という名が示すとおり、公準として強いのは憲法の方である。それが憲法が憲法である所以(ゆえん)である。
「一切の表現の自由」とは
「ヘイトスピーチの規制が合憲なのであれば他の表現の規制も合憲であると主張されて、政府や議会多数派に不都合・不人気な言論を禁止する法律を制定する突破口になるおそれがある。たとえば、ヘイトスピーチ規制の成立を受けて靖国(やすくに)神社批判の表現についても、戦士した兵士や遺族の尊厳を根幹から否定する強烈な害悪を発するものである規制すべきであると主張された場合に、これに対する従来の違憲論が通用しなくなるおそれがある」(小谷順子「言論規制章極論の意義と課題」『ヘイトスピーチの法的研究』p95)
リベラルな憲法学者である木村草太も、次のように言っている。
「私は憲法学者ですから、『ヘイトスピーチについてどう思われますか』と聞かれれば、憲法解釈の基本に照らして、『表現の自由は尊重しなければならない』的な発言をすることが多いです」(『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』p117)
憲法21条-1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
ヘイトスピーチの規制については、それが声に出して発せられたものであれ、書かれたものであれ、出版物その他に印刷されたものであれ、あるいはインターネット上に書き込まれたものであれ、常にこの憲法の条文が問題となる。「一切の表現の自由」が「保障」されているからである。
そもそも、条文全体を見ても、また歴史的経緯を見ても、第一にこの条文は、権力者を縛るものである。それまで、集会、結社、言論、出版などが禁止、処罰されたのは、主に権力者への批判的な表現に関してだったからである。
ヘイトスピーチの法規制を渋る本当の動機が、在日コリアンに対する誹謗中傷を行う人びとが自身の権力基盤の一部でもあり、その支持を失いたくないということであれ、あるいは国民に過度の「愛国」を求める自らの思想信条が排外主義的な言説に親和性を持っていることであれ、日本政府は本来、自身に向けられた矛(ほこ)であるこの条文を、自身を守るための盾(たて)としてしまっているのだ。
一方、人権派にとっては本来、権力者の差別的な攻撃から弱者を守る(すなわち、ヘイトスピーチやヘイトクライムを禁止する)ための言論の盾となるべきこの条文が、その言論に対する矛となってしまっているのだ。
その文字通りの、そして二重の「矛盾」によって、ヘイトクライムを規制・禁止するための動きが取れなくなっている。その袋小路から、脱出することはできないのか?
「言論の自由」は「何を言っても構わない」ということを意味しているわけではない。その認識は広く共有されている。脅迫、誹謗中傷、煽動(せんどう)の類が刑事罰の対象になることは、憲法21条には抵触しない。木村草太は、先の発言に続けて、次のように言っている。
「ただ、そういうと『ヘイトスピーチなんてどうでもいいと思っているんだろう』と思われがちですが、そうではありません。私の立場としては、表現の自由のために規制してはいけない一線はある、しかし現状は、絶対に規制すべきラインを超えた行為がなされているのに、規制されていない。このことについては、まったく否定するものではありません」(同p117)
そのラインの決定の困難さが、ヘイトスピーチを規制する法律の制定を遅らせていることも事実であろう。そのことは理解できる。書籍についても、ヘイト本とそうでない本を分けるラインを確定するのは、とても困難だと感じるからだ。
だが、実はそのラインの最終確定にこだわる必要はないのではないか?
木村が言う通り、「絶対に規制すべきラインを超えた行為」が現になされている。そうした行為を犯罪とすべきことには、ラインの微妙な位置取りは関係ない。明らかに犯罪的な行為を規制すること、そこから始めるべきではないだろうか。
そのために、犯罪とはなにか、法とは何かを改めて考えてみる。
「でも、その気もちもわかる」の怖さ
「日本では、どのような行為が犯罪となり、それに対してどんな刑が科されるかは、国会が制定する法律で決められなければならないという原則(これを罪刑法定主義といいます)が憲法上に存在しています(憲法31条・39条・73上6号但書)」(山口厚『刑法入門』岩波新書、p21)
「罪刑法定主義」は決して間違いではない。政治権力者や経済力を持つものの恣意(しい)で犯罪が定義されたり、量刑が決定されるべきでは、絶対にない。
「国会が制定する」とは、われわれ国民一人ひとりとは無関係な第三者が制定するということでは決してない。国会議員は、われわれの投票によって選ばれた人たちである。政局がどうの、世論がどうの、リーダーシップがどうのと言われる。だが、そうしたさまざまな夾雑物(きょうざつぶつ)が存在していようと、民主主義国家においては、法を制定するのは、主権者である国民であることが基本中の基本なのだ。そのことを否定することも、そしてその責任から逃避することも、民主主義の否定である。
在日コリアンへのヘイトクライムがあとを絶たず、ヘイトスピーチが巷間(こうかん)に蔓延(まんえん)し、それを咎(とが)め、防ぎ、罰するシステムがないことの責任の真の所在は、ネトウヨたちにあるのでも、日本政府にあるのでも、まして被害者である在日コリアンにあるのでもない。主権者である日本国民一人ひとりにあるのだ。
LAZAK代表の金竜介の次の言葉は、そのことをぼくたち一人ひとりに突きつけている。
「『朝鮮人をぶっ殺せ』という人間だけが怖いのではない。あれをみて『気にしなければいいでしょ』『たいしたことじゃないよ』『マイノリティに任せておけばいいんだ』と、そういう反応をしてくる大多数の人間が怖いのです。あるいは『たしかに朝鮮人ぶっ殺せはひどいよね、でも、韓国の「反日」活動をみてると、そういいたくなる気もちもわかる』というような、『自分は「朝鮮人をぶっ殺せ」といっているあいつらのような下品なまねはしたくないけれども、でもその気もちもわかる』という、大多数の人間が私は怖いのです」(『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』p172)
2023年2月27日更新 (次回更新予定: 2023年03月25日)
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