言論のアリーナ

第25回 『刑法入門』で考えるヘイト・クライム

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

犯罪とは何か

ヘイト・スピーチ、ヘイト・クライムを処罰する法律が、未だ日本には存在しない。

「人種差別撤廃条約」を批准した日本政府も、処罰規定を伴う法律の制定には躊躇(ちゅうちょ)し、一方「人権派」の人々にも逡巡(しゅんじゅん)が見られる。その間、在日コリアンに対するヘイト・クライムが横行しているにもかかわらず。

それがなぜなのかを考えてきた。そして、日本が民主主義国家である以上、法を制定する最終的な責任は、政府や国会ではなく、また、法曹界の人たちでも学問界の人たちでもなく、主権者である国民にある、と言った。

第24回「『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』を読む」の最後に引いたLAZAK(在日コリアン弁護士協会)代表の金竜介(きんりゅうすけ)の「『気にしなければいいでしょ』『たいしたことじゃないよ』『マイノリティに任せておけばいいんだ』と、そういう反応をしてくる大多数の人間が怖い」という言葉は、そのことと通底する。

ならば、国民が制定と執行に最終的な責(せめ)を帰(き)せられる「法律」とは、一体何なのか、そのことをぼくたちは改めて知り、考えなくてはならない。

憲法31条 何人(なんびと)も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若(も)しくは自由を奪はれ、またはその他の刑罰に科せられない

日本国憲法のこの条文は、犯罪に対して決定され強制される刑罰は、すべて法律に依拠することを定めている。それは、刑罰を受けるべき犯罪もまた、法律に依拠していることを意味する。

「刑罰」は「犯罪に対して課せられるもの」と定義されるが、逆に、「犯罪」を「刑罰を課せられるべき行為」と定義することもできるからだ。

「日本では、どのような行為が犯罪となり、それに対してどんな刑が科されるかは、国会が制定する法律で決められなければならないという原則(これを罪刑法定主義といいます)が憲法上に存在しています(憲法31条・39条・73上6号但書)」(山口厚『刑法入門』岩波新書p21)

憲法は、(十分に理解されていないように思われるが)国民を(国家その他の)権力から守るために存在している。山口は上の引用部分に、次のように続ける。

「つまり、犯罪とそれに対する刑罰の内容を決める罰則は、ほかならぬ『法律』として定められることが必要で、行政府や裁判所が、何らの行為を新たに犯罪として決め、それを処罰の対象にすることは許されていないのです。こうして、法律として制定される罰則は、何が犯罪で、どのような刑が科されるかを私たち国民に示すだけではなく、そこに定められた行為だけを犯罪とし、決められた刑だけを科すことを可能にして、国家機関を縛るという重要な意義があるのだといえるでしょう。この意味で、罰則は国民の行動を規制・統制する法であるとともに、国家機関の行動を規制する法でもあるのです」(同p21)

憲法31条の条文にある通り、刑罰とは「その生命若しくは自由を奪われ、またその他」の行為である。人の「生命若しくは自由」を奪う行為は、行為としては犯罪と同じである。法律とは、そうした国家権力の「犯罪行為」を例外的に容認する「お墨付き」とも言える。

人権派の弁護士が法律の制定に慎重になる理由は、おそらくここにある。誤解を恐れずにいえば、「犯罪は法律で作られる」(『刑法入門』第二章の章見出し)からだ。

ならば、その制定と執行に最終的な責を帰せられるわれわれ国民が知るべきは、まず人のどのような行為を「犯罪」とすることができるか、である。ところが、この第一の、最も重要と思われる公準が、一律不動のものではない。

「倫理に反する行為」から「他人の利益の侵害」へ

山口厚によると、刑法学の世界には二つの基準があり、しかもどちらが本流の基準であるかが、時代とともに変わってきたという。

1970年代まで、日本の刑法学の世界で有力な見解は、犯罪とは社会で守られるべき倫理・道徳(社会倫理)に反する行為だというもので、処罰の理由は「悪い行為をした」から。一定の倫理規範を、強制力を用いて守らせ、国民を倫理的に教化・教育することが刑法の目的・役割であった。

現在の主流は、犯罪とは、私たちの生命や身体、そして自由、さらには財産など、私たちのかけがえのない「利益」を害する行為であり、国家が国民の行動を禁止することが正当化されるのは、それが「他人に迷惑をかけた」、すなわち、他人の正当な利益を害したから(同p33-34)。

1970年代を境に、犯罪の定義は「倫理に反する行為」から「他人の利益の侵害」へと変わったのである。犯罪の本質から倫理を外したのは、時代が下るとともに、人びとの価値観が多様化していったことと並行する。

「一定の倫理を国民に刑罰によって矯正することは国家としてなすべきことではない、という理解が広く受け入れられているからです」(同p34)

昭和初期から太平洋戦争期にかけて、「国家主義」「軍国主義」的な「倫理」の国民への押し付けと、それに抗する人々への弾圧がどんどん亢進(こうしん)していったことへの反省という意味では、それは歓迎すべきことであるようにも思われる。

しかし、注意すべきはその変更が戦後、すなわち日本が民主主義国家として再出発してから4半世紀を経てのことであることだ。

それは人々が従うべき確たる規範がなくなったことの反映でもあり、日本社会が民主主義的な価値観の否定が台頭する余地を与えた、あるいは隙(すき)を見せてしまったことも否めないだろう。

さらに4半世紀(戦後半世紀)を経た20世紀末から今日にかけて、歴史修正主義者やいわゆるネトウヨが、排外主義的な主張を展開し始める。「ヘイト・スピーチ」が大手を振って、声高に語られるようになったのである。

証明が難しい精神的被害

「ヘイト・スピーチ」を犯罪とし、処罰する法を制定しようとするとき、そうした時代背景を踏まえる必要がある。

まず、「犯罪=他人の利益の侵害」という図式では、犯罪が成立するためには「利益を侵害された」被害の存在が必要である。

たとえば、「『人の身体を傷害した』ことを要件としている傷害罪(刑法204条)が成立するためには、人の身体の傷害という結果が発生したことが必要となります。人の身体の傷害とは、人の健康状態を悪化させることをいい、人の健康状態という保護法益の侵害を意味しているのです」(『刑法入門』p103-104)。

「ヘイト・スピーチ」には、確かに被害者がいる。その声高で暴力的な言説に、多くの在日コリアンをはじめとするマイノリティが、心に大きな傷を受けている。

「京都朝鮮学校襲撃事件」で、「朝鮮人って悪いことなん?」と怯(おび)えきって問いかけた子供たちの大きな心の傷、「いつまでも調子に乗っとったら、南京(ナンキン)大虐殺じゃなくて鶴橋(つるはし)大虐殺を実行しますよ!」と罵声(ばせい)を浴び、関東大震災時の「大虐殺」を想起し、実際にその可能性に恐怖した人たちの心の傷は、明らかに犯罪的行為による被害である。

しかし、被害の申し立てには、被害者に多大な負担を要求し、さらなる脅威を覚悟させてしまう。被害者として名乗り出ることは、自らの個人情報を晒(さら)すことになり、危険があっても決して警察の保護を受けることができない現在、さらなる身の危険を感じながら生きていかなければならないからだ。

木村草太(憲法学者)は言う。

「適切に警察権力を発動させるために、警察に対する市民監視の仕組みをつくるとか、あるいは専門の警察の部局をつくるなどして継続的に見張り、『彼らはこういう行動をしています』、『とりあえずは安心ですよ』とか、『ちょっと気をつけてください』というようなコミュニケーションを朝鮮学校の方たちと定期的にとるようにする、そういうことをしてくれていたら、どれほど朝鮮学校の方たちが楽になっただろうかと思います」(LAZAK編『ヘイトスピーチはどこまで規制できるか』影書房p131)

日常的に被害者たちを守るためには、そうした状況が必要だった。法律は、一部「法益が実際に侵害されるのを待たずに、それ以前の段階で成立する」犯罪も裁くことができる=「危険犯」(『刑法入門』p105)。しかし、そもそも「ヘイト・デモ」「ヘイト・スピーチ」を犯罪と認める法がなければ、それもかなわない。「京都朝鮮学校襲撃事件」後も、警察は木村の言うような対応、朝鮮学校に通う子どもたちを守る姿勢は見せなかった。

傷害罪(刑法204条)が、このような被害をもたらした行為に適用されるかは微妙である。それが、「人の身体を傷害した」ことを要件としているからだ。

「ヘイト・スピーチ」による被害は、多くの場合、精神的な被害である。それがいかに甚大なものであっても、「身体を傷害」したわけではないという強弁による反論がありうるだろうし、目に見える身体的な被害と比べて、精神的な被害を証明することには、被害者側の負担はさらに大きくなるだろう。

だが、そうした精神的な被害がきわめて甚大であり、「人の健康状態を悪化させ、人の健康状態という保護法益の侵害」したことは間違いない。だからこそ、新たな法律が求められていると言える。

自分たちが被害者だと思っている加害者

もう一方のアクター、加害者についても、犯罪が成立するための条件がある。

刑法38条1項 罪を犯す意思がない行為は、罰しない

「犯罪が成立するためには、犯人は、自分の行為によって犯罪となる事実が生じることを知っていなければならないのが原則です。このように、犯罪となる事実が生じることを認識し、予見している心理状態を故意といいます。このような故意がなければ犯罪とはならない、故意のない行為は処罰しないのが、日本の刑法の大原則です」(同p149)

これも、「ヘイト・スピーチ」を断罪する際の障壁となるのだろうか?

「ヘイト・スピーチ」をためらいなく発し「ヘイト・デモ」を断行する人々に、おそらく「罪を犯す意思」はない。在特会(在日特権を許さない市民の会)などの人々、「鶴橋大虐殺」に「そうだ!」と呼応する人たちは、むしろ自分たちが被害者だと信じている。

だから彼ら彼女らは無罪である、とはならないだろう。逆にわれわれには、そこに罪の意識がないことが、より一層大きな問題だと感じられる。

「ヘイト・スピーチ」が、罪の意識を伴いながら発する場合は罰せられ、罪の意識をまったく感じないで発する場合は無罪となる、というのは、あまりに不条理である。その不条理を回避するためにも、立法化が急がれるのだ。法律に犯罪であると記された行為は、その行為の主体が何と思おうと、犯罪として罰せられるからだ。

あるいは「そんな法律は知らなかった」と嘯(うそぶ)くかもしれないが、それは免罪の理由にはならない。

「刑法38条3項には『法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない』としています。つまり、自分の行った事実を知っていれば、それが犯罪になるとは思わなかったとしても、故意は否定されないのです。

自分の行為が犯罪となること、法的な禁止に反している(違法である)ことを知らなかった場合に故意を否定するのでは、国民としては、法を知らないほうが処罰されることもなくてよいことになりかねません。したがって、自分の行為が違法だという意識が故意犯の成立に必要ないとするのは理由のあることです。この意味では、国民は法を知る義務があるといえるのです。もちろん、その反面として、国は国民に法を知らせる義務を負います」(同p159)

法律を知らなくても処罰されるが、法律がなければそれも叶(かな)わない。だからこそ、「ヘイト・スピーチ」を断罪する法律が必要なのだ。

「国民は法を知る義務がある」という表現は、法による国家の強制を感じさせ、かつての国家主義的な権力の横暴を想起させるかもしれない。だが、それは、法律とは政府=国家権力が恣意(しい)的に作るものだという誤解によるものだ。実際にそうなっているのなら、それは権力の恣意を許してしまっている国民の側の問題なのだ。法律は、あくまで憲法によって主権者であると規定されている国民がつくる。ある行為を犯罪であると見なす、国民の総意の反映であるはずである。

「ヘイト・スピーチ」を禁じる法律をつくる第一の理由は、レイシストたちに罪の意識を感じさせるため、あるいは彼らを罰するのに必要だから、ではない。マイノリティの被害を補填(ほてん)するためではない。そこにとどまっている限り、すべてが後追いになり、レイシストたちの犯罪行為が先行し、マイノリティの被害が止まないのではないだろうか?

そうではなく、「ヘイト・スピーチ」が疑う余地もない犯罪であるから禁じるのだ。国民は法律制定に、その確信を持って当たるべきだと思う。

確かに、在日コリアンやその支援者に罰則をともなった「反ヘイト法」の制定を求めさせているのは、レイシストたちの野蛮で暴力的な発言、行為であり、それが在日コリアンをひどく傷つけている事実だ。だが、それが野蛮で暴力的なのは、そもそも彼らの差別的言動が、倫理的に許されないものだからである。

だから、引き返してもいいと思う。「犯罪とは倫理に反する行為だ」という定義に。

書物、出版、書店でウェーブを生み出せるか

誤解されやすいが、倫理とは、家父長制や国家主義につながる儒教倫理だけではない(儒教倫理もまた、即家父長制や国家主義と見なされるのは不本意であろう)。

ドイツの哲学者イマヌエル・カントのいう定言命法(定言的命令)のような、抽象的な公準だけではない(カント自身、さまざまな具体的な状況を考察している)。同じくドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、「人倫」に、土地の風土や歴史を踏まえた習俗に近い意味を持たせている。

目指すべき反「ヘイト・スピーチ」立法も、在日コリアンのたどった歴史を踏まえ、それを条文に具体的に反映させなければならない。そうして初めてわれわれは、権力による悪用を恐れて立法化を躊躇(ためら)うのではなく、反レイシズムの倫理を法に体現させ、逆にその法を活用して反レイシズムを強化する道を歩むことができるのだ。

そのとき必要なのは、日韓の歴史を遡(さかのぼ)って、そこで起こったこと、その結果としての在日コリアンの苦難の歴史を、知ることである。そして、歴史的事実を自分とは無関係なこととは決して思わず、その負債を放置することが、自分たちの加担であると認識し、その認識を広く日本全体に広げていくことである。

「言論には言論で」という立場に対し、「ヘイト・スピーチ」を吐く側と吐かれる側の力の非対称、吐かれる側は暴力によって黙らされてしまうから、そもそも対等な言論闘争は不可という意見がある。

現状では、確かにそのことは認めざるを得まい。だが、その現状をそのままにしているのは、「ヘイト・スピーチ」を吐く人々ではない。もちろん、吐かれる人たちでもない。あえて言えば、「ヘイト・スピーチ」の被害者を支援する側にある。ここまで述べてきた歴史認識と反レイシズムの思想を、日本の国民に広く浸透させることができていないからだ。

「ヘイト・スピーチ」を耳にしたら即座に反論、糾弾する日本人が増えてきたら、すなわち在日コリアンへの「加勢」が当たり前になってきたら、いつか力の非対称がなくなり、さらには逆転していくのではないだろうか。それを目指すべきではないだろうか。

書物、出版、書店という場が、そのような動きに連動する、もっといえば、そのようなウェーブを生み出し拡大強化していくことを、願う。

2023年3月27日更新 (次回更新予定: 2023年04月25日)

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