本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、そこに登場してきた数々の本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
刑罰を処す根拠
ここまで、いくつかの「事件」を検証した上で、ヘイト・スピーチを糾弾し、ヘイト・クライムを防ぐためには、それを禁止する法律の制定が不可欠であるという結論に至った。その上で、そうした法律の制定に対する政府の怠慢のみならず人権派の逡巡(しゅんじゅん)にも目を向け、それらが何故(なにゆえ)なのかを手繰(たぐ)っていくと、そもそも「法律」というものの役割、何のために法律があるかについての見解が実は一枚岩ではなかったことが分かってきた。
法律の役割は、人のどのような行為を犯罪と見なすか、罪を犯した人にどのような刑罰を課すかを確定することであるが、犯罪を形成する要件は重層的であり、ある行為を犯罪と断ずる根拠も1970年代に「倫理に反する行為」から「他人の利益の侵害」へと時代によって変わってきたことを、第25回「『刑法入門』で考えるヘイト・クライム」で見た。
一方、刑法が定める刑罰についても、事情は同様である。山口厚(最高裁判所判事)の『刑法入門』(岩波新書)によれば、罪を犯した人間を刑罰に処す根拠については、大きく分けて二つの考え方がある、という。
その一つである「応報刑論」は、刑罰は行われた犯罪に対する反作用であり、罪を犯したことに対する応報として正当化されるとする(同p46)。
もう一つは、「目的刑論」。これは、「国民の共同生活の安全を確保し、そのかけがえのない利益を保護することを目的として刑罰を科し、それによって追求される犯罪予防効果によって刑罰を正当化する考え」(同p48)である。
目的刑論は犯罪予防効果を及ぼす対象によって、さらに二つに分かれる。罪を犯した者が将来再び罪を犯すことのないようにする「特別予防」と、国民に対し、犯罪を行うと刑罰が科されることを予告し、それによって犯罪が行われることを防ごうとする「一般予防」である。
刑罰は「応報刑論」では犯した罪の「報い」であり、「目的刑論」の「特別予防」では犯罪者自身の再犯を防ぐ「更生、矯正」、「一般予防」では他の人々が同じような罪を犯さないための「見せしめ」ということになる。
感情論から言えば、刑罰とは犯罪者にやったことの報いを受けさせるものだという「応報刑論」が、被害者や被害者家族はもとより、報道などで犯罪を知った第三者にとっても受け入れられやすいだろう。「犯人には、罪を償ってほしい」ということだ。
被害者や被害者家族にとって
このコラムの第23回「反差別の発信」冒頭で紹介した、「ウトロ放火事件」法廷での「求刑やり直せ!」の怒号も、傍聴席のウトロ住民が自分たちの居住地への放火という犯罪に対する求刑があまりに甘すぎることへの怒りから発したものであり、決して被告の更正のための期間の短さを勘案してのものではないだろう。
その思いの根底には、怒りの感情がある。あえて言えば、仕返し/復讐(ふくしゅう)願望がある。
だが、民事訴訟における損害賠償と違い、刑事罰は被害者に被害の保障をもたらすわけではない。殺人の場合、犯人が死刑を含むいかなる重罪に科せられたとしても、被害者が戻ってくるわけではない。被害者家族の悲しみが犯人の受刑で癒(い)やされ、生活が復旧するわけではない。喪失感は、決して癒やされない。
だから多くの場合、被害者や被害者家族からは、次のような言葉も聞かれる。
「犯人には、自分の犯した罪をしっかりと見つめ直し、二度と同じ過ちを繰り返さないように反省してもらいたい」
「自分のような悲しみを、また他の人が味わわないように」
このとき、被害者や被害者家族の刑罰への期待は、「特別予防」や「一般予防」に移っていると言っていい。
「ウトロ放火事件」法廷での怒号も、きっかけは「検察の仕立てを否定、弁護人の陳述を無視し、自らの犯行をヘイトクライムだと宣言、次の『犯行予言』までやってのけた」「反省も謝罪もない」被告の態度であった。
すなわち、ウトロの人たちも、被告の再犯や模倣犯を防ぎたいという思い、いわば判決が「特別予防」や「一般予防」につながってほしいという願いを強く持っていると言えるのだ。
刑罰にはらむ危険
「応報刑論」によってのみ刑罰が科される、すなわち刑罰は被害者や被害者家族らの仕返し/復讐願望の実現であるとすると、おそらくその仕返し/復讐願望は加害者に「転移」する。
加害者が受刑を、すなわち刑罰によって自由を奪われことを自らへの加害と見なした場合、その原因となった犯罪被害者を加害者とみなすからだ。そうして出所後に、あるいは服役中でも仲間を使って仕返し/復讐――今もそうした表現が使われるのかどうか確信はないがいわゆる「お礼参り」が目論(もくろ)まれるとするならば、それは復讐の連鎖へと発展してしまう。
本来、社会の安寧(あんねい)のために設けられたはずの法が、社会不安を増幅してしまうのである。それゆえ、個々の事件における被害者や被害者家族の心情も、また社会一般の刑罰観も、「目的法論」へとシフトしていくのは、望ましいと言える。
だが、近代哲学史上の先哲はそうは考えなかったと山口厚は指摘し、「犯罪予防のために処罰することは、個人を他人の目的のための手段として物のように扱うことになってしまうとして、それを否定したカントや、犯罪を法の否定とし、刑罰を否定の否定、犯罪を止揚(しよう)するものと理解したヘーゲル」の「刑罰を科することが社会に対してどのような効果をもたらすかとは無関係に、犯罪に対する反作用であること自体によって正義にかない、正当化される」とする「絶対的応報刑論」に言及している(『刑法入門』p46-7)。それは、当初の刑罰論や被害者・被害者家族の最初の反応と近い。
「このような応報刑論は、犯罪に対する応報という私たちの素朴な感情に合うものであるだけに、根強い支持を受けています」(同p47)
だがすぐに山口は、応報刑論には、先にぼくが指摘した仕返し/復讐の連鎖を生む危険以外にも、疑問や問題が提出されるという。
「応報刑論は、正義の実現を根拠として刑罰を正当化するものですが、果たして正義を実現することが国家の任務なのかということ自体、そもそも問題となりえます。(中略)国民の校風や共同生活の安全といった現実的目的・利益から離れた観念的な理念の実現のために、国民の生命を奪い、その自由を制限することが正当化されるかについては疑問があるということができるでしょう」(同p47)
犯罪者に刑罰を科して執行するのは国家であり、犯罪者の立場からみれば「国家的暴力」である。国家にそこまでの権限を許していいかということが留保されているというのである。とはいえ、応報刑論をそのままに、刑の執行をたとえば被害者や被害者家族に委ねるとすれば、それは「リンチ(私刑)」であり、さらに許されるべからざるものであろう。
ヘイト・クライム法においても
応報刑論の下でわれわれにできるのは、刑罰の執行は国家に委ねるが、その範囲を法によって明確に定め、正義の名の下での「国家的暴力」の行き過ぎを防ぐことぐらいであろう(〇〇年以下の懲役、〇〇円以下の罰金」というように)。だから、国家が刑罰を処す根拠としては、「目的刑論」が穏当であろう。国家の存在理由が社会の安定・安寧にあることを思えば、国家にとっての刑罰の目的は、犯罪の「一般予防」に重きが置かれるであろう。
ただし、目的刑論の下でも、刑罰の範囲を定めておくことは必須である。刑罰=見せしめ論である「一般予防」論を徹底すれば、刑罰は重ければ重いほど他の人々がその罪を犯さないように威嚇(いかく)でき、その効果は大となると考えられる。そのため、さして重罪でない場合でも「市中引き回しの上、打首獄門(うちくびごくもん)」が妥当になってしまうからだ。
ことほどさように、刑罰に関しても、その根拠や目的についていくつもの議論が絡み合いながら、おそらく未だ決着を見ないまま、錯綜(さくそう)しているのである。もちろん、処罰の根拠をどれか一つに限定・確定する必要はないかもしれないが、私見では、「特別予防」論が最も穏当であると思う。
「特別予防論」には、「一般予防論」のように犯罪者以外の人々に対する「見せしめ」(≒脅し)の要素はなく、個人を他人の目的のための手段として物のように扱うとは言えず、また、「応報刑論」のように仕返し/復讐の連鎖への発展の蓋然(がいぜん)性が低いからだ。
われわれの課題、処罰規定を伴う反ヘイトスピーチ/ヘイト・クライム法の制定に際しても、この観点が有効/必要であると、ぼくは考える。
在日コリアンに対してヘイト・スピーチを繰り返し、ときに暴力に及ぶ人々は、それが犯罪だとは思っていない。むしろ、自分たちは「在日特権」による被害者だと信じている。彼らの言動は、彼らにとっては「正義」なのである。その「正義」に「応報刑論」による贖罪(しょくざい)を求めても、彼らは決してそれが「贖罪」だとは思わないだろう。理不尽な法律によって、言われもない被害が加わったと感じるだけであろう。そうして、仕返し/復讐の連鎖が限りなく増幅していく。
「一般予防論」もまた然(しか)り。「見せしめ」的な懲罰は、被害者、加害者双方が自らの「正義」を主張しあっている限り、仕返し/復讐の連鎖を亢進(こうしん)させていくばかりだろう。
『それでは釈放前教育を始めます!』を読めば
元吉本興業専務の竹中功(たけなかいさお)は、2015年7月に退社後、吉本時代の宣伝広報室などでの実務体験を生かして、謝罪・広報マスターとして活躍しているが、その一貫として全国の刑務所で釈放前教育を行っている。竹中は、自らの活動への思いと実際、今の刑務所や受刑者の実態をまとめて、2023年3月に『それでは釈放前教育を始めます!』(KADOKAWA)を上梓した。
竹中の釈放前教育は、満期釈放または仮釈放で出所日が決まった受刑者に対して行われる、4時間の「コミュニケーション授業」である。刑務所に赴く竹中がいつも念頭に置いているのは、その大きな目的を、「やり直しが利く人生を!」「被害者を出さない社会作り」というワードだという。
「再犯防止のための『改善指導』の担当者として私のような民間人、しかも教育界からではなく、エンタメ界、それも吉本興業から現れ出た者が心に決めて伝えたいことがこの二つです」(『それでは釈放前教育を始めます!』p35)
そのための授業のミッションは、「出所者が二度と刑務所に戻らないこと」「出所者が違反で被害者を作らないこと」であり、そのことを叶えるために、「『出所後の社会とは人に助けられ、人を助ける所だ』、そして『それぞれの人間の足りないところを補い合う関係が重要だ』ということを話すことは決めていました。平穏無事な社会生活を過ごしてもらうためには『コミュニケーション力』を身に付けることが大切だと考えたからです」(同p90)。
そして竹中は、「刑事施設として、本来の目的は『更生』です。(中略)更生は、刑務官他の職員の生の教育なくしては成し得ないことです」(同p32)と言い切っている。
法学者らが刑罰の目的についてアレコレと議論している一方で、竹中がその最後を締め括(くく)る現場の刑務官たちの活動は、「特別予防論」を当然のこととして採用していると言える。
そして、塀の外に出る元受刑者に対して、彼らは一様に声をかけるのである。
「もう、二度とここに帰ってくるんじゃないぞ」
ところが、2022年の『犯罪白書』によると、「前年に刑法犯で検挙された人のうち、再犯者(道路交通法違反を除く)の割合を示す『再犯者率』は48.6パーセント」(同p5)だという。このことは、受刑によって犯罪者が更生していたら、すなわち刑事施設による「特別予防」が成功していたら、犯罪は半減するということなのである。犯罪が半減するということは、被害者もまた半減する。
竹中はそのために刑務所の「出口」で尽力し、刑事施設の職員も日々の努力を続けている。だが、「二度と帰ってくるな」という彼らの願いも虚(むな)しく、その多くが再び刑務所の門をくぐるのである。
懲罰が足りないのか? 十分に反省させることができていないのか? 刑事施設での「教育」の失敗というべきなのか?
それらの疑問を完全に否定することはできないだろうが、おそらく問題はそれ以上に、出所後の元受刑者が「娑婆(しゃば)」でどう生きて行けているか、社会が彼らをどう受け入れているかにあるのではないか。
反ヘイト法が成立したとしても
処罰規定を伴う反ヘイト・クライム法が成立し、実際にそれを犯した者を処罰した場合、刑事施設での「教育」はさらに困難だろう。「ウトロ放火事件」の被疑者の法廷での様子を見ても分かるように、そもそも多くのヘイト・クライムの実行者には自分が悪いことをしたという自覚がないからだ。ヘイト・クライムが文字通り「犯罪(クライム)」であることを、受刑期間に「教育」することは、残念ながら現状では困難ではあると言えるだろう。
「教育」のためには、少なくとも刑務官ら関係者がヘイト・クライムが犯罪であることを確信していることが必要である。そのためには、社会全体がそのことを確信していることが前提となるのではないか?
そして仮に、幸運にもあるいは奇跡的にも刑事施設の環境が受刑者にヘイト・クライムにつながる偏見を改めるようなものであり、実際に受刑者が改心したとしても、出所後の「娑婆」がむしろ受刑前の彼/彼女を歓迎するような社会であったならば、先に言った社会が元受刑者を受け入れようとしないのと逆の意味で、多くの人の努力が水泡(すいほう)に帰(き)すことになりはしないだろうか?
誤解しないでほしいが、ぼくは処罰規定を伴った「反ヘイト法」の制定に反対したり、それが無駄だと言いたいわけではない。ぼくが言いたいのは、「反ヘイト法」を成立させるための前提として、そして「反ヘイト法」成立後にそれを有効ならしめるためにも、ヘイト・スピーチやそれを生み出す言説への反論と糾弾の手を緩めてはいけないということなのだ。
「反ヘイト法」は、それが成立しただけではヘイト・クライム撲滅への決定打とはなれない。それを支える世論の醸成、ヘイト的言説・感情への持続的で粘り強い反撃こそが、それを生かす。
「反ヘイト法」が差別なき社会をつくってくれるのではなく、差別なき社会が「反ヘイト法」を成立させ、実効化させるのである。
反撃のためには、まず、世に蔓延(はびこ)り、実際に扇動的な力を今持っているヘイト・スピーチ、ヘイト言説が一体何を言っているのか、それを知る必要がある。ヘイト言説と向き合うための一つの場が書店の棚であり、課題は、そこに戻ってくるのだ。
2023年4月25日更新 (次回更新予定: 2023年05月25日)
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