本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。
「反知性」的でもあり、「反・反知性」的でもある
第28回「『賢人と奴隷とバカ』と『NOヘイト!』フェア」で取り上げた『賢人と奴隷とバカ』(亜紀書房)の第I部に、酒井隆史(社会学者)は「01 現代日本の『反・反知性主義』」を措(お)いている。これは、もとは2015年2月号の『現代思想』(青土社)に掲載された文章である。それを書いたときの自身の思いを、酒井は書き下ろしである「02『反知性主義』批判の波動」の冒頭で、次のように書いている。
「『反知性主義』というテーマで『現代思想』誌から依頼があった。だが『反知性主義』という概念のにわかな流行には、共感したことがいっさいないどころか、きわめて大きな違和感があったので、そのタームをかこむ知的フレーム、知的感性を引き受けて分析する気にはとてもなれない。しかし、同時にこの概念が流行する時代的雰囲気はなんとなくわからないではない。というのは、この概念が二〇一〇年代の言説の傾向をなんらかのかたちで表現しているのではないかという直感はある、という意味においてである」(『賢人と奴隷とバカ』p45)
酒井は言う。
「大学制度における人文科学的知の排除の傾向や、『教養主義の衰退』とみなされるような趨勢(すうせい)はたしかに存在してる」(同p23)
大学で教鞭(きょうべん)を取っている酒井の、偽りなき実感であり、「この概念が流行する時代的雰囲気はなんとなくわからないではない」という所以(ゆえん)であろう。
だが一方、「現代ほど『知性』があふれている時代がそうあるのかという疑念にかられたりもしまいか。TVニュースには、人文社会系の学者がひんぱんに登場しているし登場番組もけっしてすくなくない。(中略)『知識人』たちはやはり、文化一般において『重んじられて』いる」(同p23)。酒井が「『反知性主義』という概念のにわかな流行には、共感したことがいっさいないどころか、きわめて大きな違和感があった」という所以である。
酒井によれば、この傾向は、インターネットが「知の空間」の多くを占めてきたことによって増殖している。
「この現代の『知性』の過剰が鮮明にみえる場は、マスメディアよりもインターネットの世界である。いまや、どのようにささやかな趣味であっても、知的に彩ることへの情熱に事欠くことはない。そしてここでも、『プロ』『アマ』問わず、現代の『有機的知識人』たちが、専門領域を軽々と越境しながら『普遍的知識人』と化しつつ、ほとんどあらゆる事象にみずからの意見を表明することをやめない。そこでは『知的であること』『賢明であること』が競い合われ、『頭が悪い』『教養がない』といった言葉が、議論を打ち切り、討議の相手を一蹴(いっしゅう)する決め言葉として氾濫(はんらん)している。現代ほど『バカ』という言葉がサディスティックなまでに否定的な感情の負荷を高め、その両義的なニュアンスを失った時代もないのではないか」(同p23-24)
後者、つまり現代は決して「反知性」を志向しているわけではないという見立てはそのとおりだと思うし、一方前者の「反知性」的傾向は、「本が売れなくなった」というぼくら出版・書店業界の実感とも整合する。つまり、酒井の今日の「反知性」というテーマに対する両義的(アンビバレント)な思いを、ぼくも共有している。
「反知性」的でもあり、「反・反知性」的でもある、一見矛盾した今日的情況を読み解くポイントは、酒井の次の言葉にあると思う。
「知そのものは人を解放するために機能することもあれば、人を拘束したり押さえつけたりするために機能することもある。いっぽうで、ヒエラルキーを解体し、わたしたちの共にある条件をよりよくすること、促進することにも決定的に寄与することもあるが、いっぽうで、ヒエラルキーを形成・強化し、専制支配を正当化し、不平等な富の配分に寄与することもある」(同p63)
後者の「知」=支配体制や富裕層に寄与する「知」への抗戦こそ、「かつてポール・ウィリスがいきいきと記録してみせた労働者階級の『反知性主義』」(同p30)であったのかもしれない(カルチュラル・スタディーズの古典的著作であるポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』ちくま学芸文庫)。
日本においても、「『アウトロー』『不良』、あるいは『ツッパリ』の『肉体言語』のようなものが、『蒼白(あおじろ)き文化系』になにがしかの畏怖を与え、またそこにみずからの思考を挑発する課題が見出されていた時代はそれほど遠いものではない」(『賢人と奴隷とバカ』p26)と酒井は言い、そのわかりやすい例として「『おまえさしずめインテリだな』という車寅次郎(くるまとらじろう)の有名なセリフに浮上する、『インテリ』が、不信と警戒を示すべき代名詞となる民衆文化の分厚い層があった」(同p27)と指摘している。
抑圧する側に手を貸す知性
「知」は、ときに解放の原動力であり、ときに抑圧に資する。「反知性」の両義性はそもそも「知性」が両義的であることに由来するのである。酒井もぼくも、「知」が抑圧の源であるときに「反知性主義」であり、「知」が解放の力であるときに、「反・反知性主義」となるのだ。
「問われるべきは『知性の不在』あるいは『知性への反撥(はんぱつ)』ではなく、支配的趨勢のうちで働いている諸知性の形態である」(同p31)
当初戸惑いを隠せなかった「反知性主義」というテーマへの酒井のこの回答は、ぼくが今このコラム「言論のアリーナ」で考え続けている、ヘイトやレイシズムにどう対していくかという課題に、大きな示唆を与えてくれる。なぜなら、ヘイトスピーチを撒き散らし、レイシズムを助長する言説もまた、「抑圧に資する知」を武器としているからだ。
酒井も、そのことに触れている。
「ある立場からどれほど欺瞞(ぎまん)と隠蔽と『無知』に満ちているようにみえようと、ネット上にあふれる排外主義、レイシズム、あらゆる差別の攻撃的な言語が、『出典』と『引用』をあげ、彼らの敵にもそれを要求する、ある種の『知的論戦』のようなみせかけをとることも見逃すことはできない」(同p24)
続けて酒井は言う。
「こうした言説のうちには『論破』への執拗なこだわりがみられ、いわゆる『反知性主義』につきものの、知識人のあり方そのもの、知性そのものへの懐疑のかたちをとることはすくない。極端にいえば、『反知性主義』どころか、むしろどこにも知識人しかいなくて、だれもが『賢明』であることを競い合っているというのが現代日本の風景であるようにもおもえてくるのだ」(同p24)
「『出典』と『引用』をあげ、彼らの敵にもそれを要求する、ある種の『知的論戦』のようなみせかけをとる」ことや「『論破』への執拗なこだわり」は、本コラム第19回「歴史戦、思想戦、宣伝戦」で取り上げた「歴史戦」や「思想戦」(山崎雅弘『歴史戦と思想戦』集英社新書)でも同様であった。そして重要なのは、「歴史戦」や「思想戦」、そして「ヘイトスピーチ」が、かつても今もある一定数の(あえて言えばかなりの数の)人々に説得的に響いてしまっていることである。そのとき「知性」は、あきらかに「抑圧する」側に手を貸しているのである。
まさに、フランシス・ベーコン(イギリスの哲学者)が言った「知は力なり」である。「力」は、残念ながらしばしば「暴力」として顕現する。
ならば、「抑圧する知」=「暴力」を封じ込めるべきではないか?
相手の「知」を一つの「知」として認められるか
すべての「ヘイト本」を書店店頭から外せという主張は、そうした「抑圧する知」の影響を阻止し、蔓延(まんえん)を防止するのに有効な、もっともな意見であるように見える。だが、隠されれば隠されるほど、その「知」の影響力は増す。昨今の陰謀論の流行を見ればわかるように、隠されれば隠されるほど、それが「真実」に見えてくる。だから、「抑圧的な知」に闘いを挑むならば、敵を見えなくしてはならない。逆にそれを白日のもとに晒(さら)し、敵の誤り=弱点を露(あら)わにして、打ち負かさなければならない。
自然科学の数学的な抽象だけでなく、どんな「知」も、汲(く)み尽くすことはできない世界の無限の情報の抽象である。それゆえ、すべての「知」は一面的である。必ず「裏面」がある。Aという概念または命題が立ち上がれば、必ず非Aという概念、命題が立ち上がる。意見の対立は、二項対立の形で生じる。思想の闘いは、この二項対立の場でなされる。非AはAの論理的な否定であるから、Aは非Aを論破し、その闘いに勝たなくてはならない。非Aもまた、Aを論破し、その闘いに勝たなくてはならない。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(ドイツの哲学者)が『精神現象学』で鮮やかに描写した「生死を賭けた闘い」は、あくまで相手を自分と同じ自立した「自己意識」であると認識、尊重することが前提となっている。「知」同士の闘いもまた、対極にある相手の「知」を一つの「知」と認めることを前提とする。その前提を引き受けず、闘いの前に相手の退場を要求することは、すなわち闘いの場(アリーナ)の解体を希求することであり、実は自身の闘いの場からの逃走を意味するのである。
「すべての『ヘイト本』を書店店頭から外すべし。そうしない書店は、『ヘイト』の片棒を担いでいる」と指弾する「正義派」は、よもや自分たちが闘いの場から逃げているなどとは思いもしないし、そのように言われたら激怒するだろう。
だが、相手の言説と直接対峙し対決するのではなく、それを見えなくする戦略が奏功したときに得られるのは、「勝利」ではなく「停戦」ではないか? 「停戦」を「勝利」と言いくるめることが決して闘いを終わらせはせず、戦闘と同様の、あるいはより大きな悲劇を生むことは、「北緯38度線」が立証してきたのではないか? そしてそれは、間違いなくその後今日に至るまでの「在日」コリアンの苦悩の大きな原因となったのだ。
哲学者の戸谷洋志は、『未来倫理』(集英社新書)で、次のような例を紹介している。
「ロングアイランドはニューヨークの保養地として知られており、その地を訪れるためには橋を渡らなければならない。しかし、その橋の車の高さ制限は非常に低く設計されており、大型のバスはその橋を通過できないようになっている。
なぜ設計者はわざわざそうした制約のある橋を設計したのだろうか。ラングトン・ウィーナー(アメリカの哲学者)によれば、それは大型バスの通過を妨げることで、自家用車を所有できない低所得者層、具体的には黒人たちをロングアイランドから排除するためだという。(中略)
誰かが黒人に対する憎悪を言葉で表現しているわけではない。『黒人はロングアイランドに来るな!』と叫ばれているわけではない。ただ、黒人がロングアイランドに来ることができないよう、技術的な設計が行われているのである。そしてそうした設計は、ヘイトスピーチによって黒人を差別するよりも、はるかに効率的に、黒人差別を実現してしまう。その端を利用して白人がロングアイランドにやってくるとき、白人たちは自分が黒人差別に加担していることに気づかない。そして、それに気づかせないことによって、黒人差別はより根深く、解消することが困難なものになっていくのである」(『未来倫理』p182-184)
無言、かつ効率的な差別の実現である。無言は、差別者の姿を見えなくし、差別そのものさえ見えなくする。誰も、自分が差別の加担者であることに気づかなくなる。見えなくすることは、差別と闘い、それを解消することを困難にするのだ。
一方、A対非Aの二項対立そのものも、世界の一面を切り取ったものに過ぎない。それゆえ、Aという知の一面性に起因するA対非Aという対立自体が、必ずその裏に、あるいは傍(かたわ)らに他の二項対立を持つ。そして、本来の対立が、傍らにある別の二項対立の方へとすり替えられていく場合も多い。
戸谷が言及している「ロングアイランドの橋」は、その典型例と言える。差別を目論(もくろ)む者たちは、「白人/黒人」の二項対立を、「富者/貧者」の二項対立にすり替えた。アメリカは「自由の国」であり、個々人の経済状況はその人の行動の結果であって貧者であることは自己責任であるという意識が強く、「富者/貧者」の二項対立の方が、「白人/黒人」の二項対立よりも「差別である」という糾弾を受けにくいからである。
何と対決すべきなのか
第27回「『動かぬ証拠』としての書物」に取り上げた『ネット右翼になった父』でも、著者の鈴木大介が生前の父親の言動に対して覚えた様々な違和感が、「ネット右翼/ネット右翼でない」という二項対立に収斂(しゅうれん)され、母や姉、伯父の証言によって「父はネット右翼ではなかった」という結論に落ち着いている。だが、世間が、あるいは鈴木自身が定義した「ネット右翼」の範疇(はんちゅう)に収まらないことが、父親の示した他民族や女性に対する差別的な言動を免罪するものではないはずだ。
また、第19回「歴史戦、思想戦、宣伝戦」で触れたように、安倍元首相狙撃事件についての議論が、政治家と統一教会の癒着問題に終始してしまったことも、安倍氏の政策や事蹟(じせき)を考えたとき、あまりの矮小(わいしょう)化であるように思う。そのことによって、国家権力にとって都合の悪い問題のいくつもが、霞(かす)んでしまったからだ。ある種の作為の疑いさえ、感じさせる。
酒井隆史は、第28回「『賢人と奴隷とバカ』と『NOヘイト!』フェア」にも触れた津村喬(つむらたかし)『横議横行論』の読みの中で、津村がそもそも「言葉の権力に対する読み手の叛乱(はんらん)」であった「差別言語糾弾」がまったく違ったものに変容していったことを述懐している箇所を取り上げている。
「それはむしろ、言葉とイメージを制約する言葉の権力性を解体し、自由と創造性の幅を拡大するものであったのだ。ところが、『一方にテレビ局の「放送用語言いかえ集」の頽廃(たいはい)を置き、他方に諸党派による糾弾ごっこの政治主義的利用という愚劣』によって、その意義が見失われていることがここですでに指摘されている」(『賢人と奴隷とバカ』p158)
つまり、本来「差別言語糾弾」が持っていた、権力の言葉が有する差別性との闘いが、「言いかえ」によってその差別性を隠蔽することに変容し、なされるべき闘争が「言いかえ」の失敗の糾弾合戦へと矮小化してしまうことによって、本来の闘争の場が消失してしまったのである。
同様のことが、津村喬らの闘争の半世紀後の今も、起こっているように思う。
差別意識に満ちた「ヘイト本」の内容に反論するのではなく、「ヘイト本」を店頭に置く書店を糾弾する。「ヘイト本」を書いた著者の差別意識を糾弾するのではなく、「ヘイト本」を並べた書店を非難する。「ヘイト本」をつくった出版社に真意を問うのではなく、流通させた取次や現在の出版流通システムを槍玉(やりだま)に上げる。
今日の出版流通システムに問題があることを、ぼくも認めるに吝(やぶさ)かではないし、そうした言説で指摘されている問題点について「然(しか)り」と思う部分も多い。だが、それは別の問題であって、「ヘイト本」の量産という問題、それを書く人間がいて、それを読み共感する人間が少なからずいるという社会的情況を明確にして、その情況と対決していくという本来の課題からは、逸れていってしまっているというべきではないだろうか?
2023年7月27日更新 (次回更新予定: 2023年08月25日)
言論のアリーナ の更新をメールでお知らせ
下のフォームからメールアドレスをご登録ください。