言論のアリーナ

第30回 「ヘイト本」の放逐が意味すること

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

「水洗トイレ」の社会的便益

「いかなる『ヘイト本』も、それらが攻撃し誹謗(ひぼう)する人たちの受ける傷を鑑(かんが)み、すべからく速やかに書店店頭から駆逐すべし」という言説に接するときに、ぼくがいつも思い出すのは、今から約30年前に出された、非常に刺激的で説得的な一冊の本、評論家・翻訳家金塚貞文(かねづかさだふみ)の『人工身体論』(青弓社)である。この本の主題は、「水洗トイレ」。

今日では、トイレすなわち「水洗トイレ」である。この本が出た1990年代においても、すでに「水洗トイレ」が一般であった。それでもまだかろうじて「汲取式(くみとりしき)トイレ」が、あるいはその記憶が残っていた時代に、「なぜ『水洗トイレ』への移行が『必然』と感じられたのか?」を問う金塚の文明論的考察は、21世紀の今日を生きる我々にとって、「当たり前」を問い直す、重要な示唆に富んでいる。金塚は問う。

「一体、水洗トイレの社会的便益とはいかなるものであろうか」(『人工身体論』p34)

その答えとして、「コレラ、チフス、赤痢(せきり)といった消化器系感染症及び寄生虫病が減った」ことがある。だが、すぐに金塚は、「直接的な因果関係は大いにあやしいし、水洗トイレ以外の形態でも、病原菌の伝染防止は十分に可能であったはず(ファン・デア・リン『トイレットからの発想』)」と、その「効用」を決定的な理由とすることを否定する。

「下水道の建設、浄化槽の設置」が、経済活動を賦活(ふかつ)したという論も、そうした結果論を「社会的便益とは言わない」と退け、「肥料となる糞尿(ふんにょう)を流し捨てることで、化学肥料の需要を作る」という動機も、「事情は逆で、化学肥料が経済的だから糞尿が下水処理されるようになった」と否定する。

その上で金塚が提出する答えは、「水洗トイレの社会的便益とは、悪臭のはね返りからの解放、要するに『一時的にあなたの目の前から、見えないどこかへ移すだけ』のことにすぎない」というものである。そして、「不潔を嫌うという、いわば審美的な満足感のためだけだとしたら、しかし、それは社会的便益と言い得るだろうか」と問いかけ、「莫大な資源を浪費し、しかも、水質汚染等のいわゆる外部不経済をもたらしている」ことが、「水洗トイレの便益」の割には合わないのではないか、というのである(『人工身体論』p35)。いうまでもなく、「水洗トイレ」の普及のためには下水道や浄化槽などの巨大なインフラの建設が必要とされ、水質汚染などへの対策も十分ではないからである。

「見えないどこかへ移すだけ」という手段

「ちょっと待て」というツッコミが聞こえてきそうだ。「今回のコラムの冒頭の一文、『ヘイト本を書店店頭から駆逐すべし』という言説からこの本のことを思い出すということは、つまり、お前は『ヘイト本』を『糞便』扱いしているのか!?」。

「然(しか)り」と答えれば、「ヘイト本」を「ヘイト本」などとは決して思わず、反「自虐史観」が紡ぎ出す「歴史修正」を真実の歴史と信じる人たちの怒号を覚悟せねばなるまい。一方、過去に肥料としての糞便の有用性があったことを引き合いに出したりしたら、「『ヘイト本』にも価値があると言いたいのか!?」と、「正義派」の突き上げをくらうことになるだろう。

左右両極からの攻撃には馴(な)れているが、ぼくがここで注目したいのは、糞便の価値云々(うんぬん)ではなく、糞便に負性を見出して選択された「一時的にあなたの目の前から、見えないどこかへ移すだけ」という手段選択であり、そのための装置としての「水洗トイレ」なのだ。

先の引用の中で、金塚は「水質汚染等のいわゆる外部不経済」について述べている。「外部不経済」とは、内部に留めては不利益を生じさせるものを「外部」(具体的には発展途上国などの、より立場の弱い地域)に押し付けることによってその不利益を解消する、資本主義の常套(じょうとう)手段である。金塚は、糞便以外のゴミ、産業廃棄物などとともに、放射性廃棄物を発生させ蓄積する原子力、大気汚染を引き起こす自動車など、現代文明を支える装置が、「外部不経済」によって成立していることを述べ、「水洗トイレ」もその一環であると見ている。

「外部不経済」は、資本主義にとって必要不可欠であり、かつ、世界的な格差の原因であり、世界的な危機の温床でもある。それゆえ、富者は、権力は、そのことを隠す。とりわけ、「水洗トイレ」は、誰にも身近な装置であり、誰もが毎日目にしているものでありながら、その機能は、外部不経済を引き起こす糞便を「一時的にあなたの目の前から、見えないどこかへ移す」ことであり、そのことが蓋(ふた)付きの清潔な外観によって隠されているのだ。

そこに、ぼくは、「ヘイト本」を書店の棚から外すべしという「正義」と同質のものを感じるのである。

これまで何度も言ってきたように、「ヘイト本」の書店店頭からの放逐は、「ヘイト本」の殲滅(せんめつ)ではない。「ヘイト本」の存在を隠すだけだ。「ヘイト本」を書く、読んで共感する心性(しんせい)、すなわち差別感情は、それだけではなくならないし、おそらく弱体化もしない。むしろ、目の前から見えなくなったことで、対峙(たいじ)・攻撃することが難しくなるだろう。「ヘイト本」が書店店頭からなくなったのを見て安心する「正義派」にはそもそも差別感情と正面から闘う決意がないのではないか、と言う所以(ゆえん)である。

「水洗トイレ」が「一時的にあなたの目の前から、見えないどこかへ移す」糞便は、差別感情そのもののメタファーなのである。差別感情を真に闘うべき相手と見定めるならば、「目の前」に「動かぬ証拠」を置き続けるべきなのだ。

ところで、糞便はすべての人間の「製作物」;食物を原料とする加工製品である。一部の人間だけの「作品」ではない。ならば、ぼくが今「糞便」がそのメタファーであると言った差別感情もまた、一部の人間のものではなく、すべての人間が抱く感情なのか?

然(しか)り。少なくとも、すべての人間が抱き得る感情である。そのことには合理的説明が可能だ。人間は、あるいは生物は、「敵/味方」の区別が適切にできることによって生き延び、子孫を残すことができるからである。今生きている人は、「敵/味方」の区別が適切にできた生命体の長大な歴史の末裔(まつえい)であり、そして自身「敵/味方」の区別をする能力を持っているのである。

その能力が間違った情報によって作動して生じるのが、差別感情といえるのではないか?

いくつもの情報のあやまった布置(ふち)、統合によって、間違った「敵/味方」の線引が行われること、それが「差別」なのではないか?

人間は、間違う。人間はそのことによって学習するから、間違いは必然であり、必要である。自身の間違いに気づき、気づけば糺(ただ)すことができる人間が、差別感情から自由になり、差別と闘うことができる。間違い、気づき、糺すという作業能力は、多くの情報に接し、その情報を処理していく経験によってのみ獲得される。

「隠す」ことではなく「知る」ことこそ差別と闘う道であると、ぼくが再三主張する所以である。

エスカレートする「戦争ヒステリー」

「当時ナチスのレイシズムによる虐殺が数百万人ものユダヤ人に及び、他の犯罪をも含めると膨大な犠牲者がでたことは確かだとしても、同時に、連合国軍による三千メートル上空からの無差別爆撃によって、数十万人もの市民の命が奪われたことも確かなのである」(エドガール・モラン『戦争から戦争へ』人文書院、p14)

第二次世界大戦を対独レジスタンスの闘士として経験した、100歳を越える哲学者エドガール・モランは、戦争に勝った側の大量殺戮(さつりく)、略奪、非戦闘員の殺害などの戦争犯罪的行為が隠され、忘れられがちであることを指摘する。

「ナチスの恐ろしさ、ナチスが占領した国々、とくにソ連において行ったことのおぞましさのために、連合国軍によるドイツの市民の恐るべき大量殺戮――それは戦闘員以上に女性や子どもや老人を含み街全体を破壊するものであった――については、われわれ反ナチスのレジスタンス活動家は概して無頓着(むとんちゃく)であった。もうひとつ、連合国軍のノルマンディー上陸作戦のとき、ノルマンディー地方の市民の死者の六十パーセントは連合国軍の爆撃によるものであった」(同p9)

モランが、戦勝国の「戦争犯罪」を言挙(ことあ)げしているのは、歴史修正主義者たちのように、戦勝国を断罪し、敗戦国の戦争犯罪を免罪しようとするためではない。あらゆる戦争が必然的にもたらす悲惨、戦争当事国双方の「正義」など吹き飛んでしまう悲惨を訴えているのだ。

モランによれば、その悲惨をもたらす最大の要因は、戦争当時国となった両国民の、敵国民への憎しみ=「戦争ヒステリー」のエスカレートである。

「戦争ヒステリーはとりわけ憎しみの爆発として表出される。その感情は敵を犯罪者として扱い、その責任を集団的なものと見なすようになる。つまり連帯責任ということだ。個人的犯罪あるいは小部隊の犯した犯罪でも敵軍全体の責任になるだけでなく、敵国の指導者の犯罪とされ、さらには敵国民全体の責任とされるのである。たとえば、ドイツ人全体がナチスの犯罪に責任があるとみなされたということである。逆に、敵国の文化に対する憎しみは、ナチスドイツの大きな特徴のひとつであった。フランスのシャンソン、ロシアの音楽、民主主義国の〈退廃芸術〉が、ナチス統治下のドイツでは禁止されたのである」(同p25)

かつて太平洋戦争中、英語を「敵性言語」として禁止し、連合国の文化を受容し愉(たの)しむ人びとを「非国民」とラベリングした過去を持つわれわれ日本にも、想像に難くない話である。

先に自国の戦争犯罪的行為は隠されがち、忘れられがちであると言ったが、敵国への憎しみがエスカレートしたとき、それらは隠される必要も、忘れられる必要もなくなる。そうなると、さらに危険である。敵国民への非道な行為は、むしろ「戦意高揚」の材料になる。先の戦争中、そうした「戦意高揚」の材料を、新聞、ラジオなどのメディアは、自らの存在意義の伸長のために利用した。それが、国民の「戦意」を高揚させ、差別感情を増長したのである。

モランは、そうした「国民的」状況を、誤った考えを持つ国の統率者、指導層よりもずっと危険なものと見ているのだ。

「一九一四~一九一八年の戦争ヒステリーは、敵を憎み、敵を全面的に犯罪者扱いし、すべての犯罪を敵が犯したものと見なした。そして自軍の行為や成果を一方的に正当化して称揚し、とりわけ塹壕(ざんごう)戦のむごたらしい現実を隠蔽(いんぺい)するものだった」(同p18)

「敵への憎しみに取り憑かれた兵士たちは普通の市民を平然と殺すことになる。また軍の階級が上位の兵士は殺害命令を兵器で出すことにもなる。加うるに、兵士たちは、敵の町や村の征服に陶酔して無軌道になり、盗みや略奪だけでなくレイプや殺害を行うようになる」(同p28)

そして、今まさに目の前で起こっている事態に、悲惨な過去と共通した状況を見出す。

「ウクライナ戦争においてもエスカレーションは日増しに深刻化している。抵抗する被侵略者に対する憎しみの爆発が大ロシアナショナリズムをかき立て、プーチンの専制政治を激化させ、ウクライナではウクライナ人のあいだで分有されていたロシア語、なかんずくすべてのロシア文化の拒絶が始まった」(同p46)

モランが、本書を、急いで書き上げ、出版した所以である。

他国(隣国や地理的に近い国の場合が多い)の指導者、あるいは一部の人びとの行為、志向を、その国の国民全体のものと取り違える、決めつける。そうした「ヒステリー」は、過去のものではなく、一部の地域に限定されるものではない。現代に生きる我々にも、常に起こりうることである。そして、「ヒステリー」のエスカレートの端緒(たんしょ)は、さして危険な考えの持ち主でなくとも、誰もが持ちうる心性である。

「北朝鮮のような国にも核爆弾を落としてはいけないのか」という問い

2016年に、この年に刊行された『近代仏教スタディーズ』(法藏館)をテーマとしたジュンク堂書店難波店でのトークイベント「『近代仏教スタディーズ』刊行記念連続講座『学校では教えてくれない近代史』」で、会場から次のような質問が発せられた。

「繰り返しミサイルを飛ばし、核弾頭の使用も仄(ほの)めかしている北朝鮮に対して、どうしても敵意を感じざるを得ないのですが、それはやはりいけないことなのでしょうか?」

仏教書のトークイベントの質問コーナーにおいて、どのような流れでこのような質問が出たのか、明確には覚えていない。思うに、法藏館は浄土真宗系の仏教書版元で、浄土真宗は特に差別の問題に取り組んできたから、トーク本編で差別問題にも触れられ、その流れでこうした質問が出たのかもしれない。この質問の主は、おとなしそうな中年男性で、「嫌韓派」には見えない。質問の趣旨も、北朝鮮への敵意にではなく、敵意を持ってしまうことへの煩悶(はんもん)にあるようだった。

核ミサイルの使用を仄めかす国家への怒りは当然であり、ぼくも共有する。加えて「拉致(らち)事件」を思えば、北朝鮮の国家指導層への否定的評価は、当然であろう。

だが、国家指導層への怒りと、その国家に住む人々への感情は別物であるべきだ。他国を核兵器で攻撃、少なくとも威嚇(いかく)しようとする国家指導者は、自らの統治する地域の人民に対しても、同様の姿勢で接している可能性が大だからである。このふたつを混同することが、モランのいう「戦争ヒステリー」のエスカレーションにつながるのだ。

くだんの男性の心のゆらぎも、放置すれば、かつて、米軍が投下した劣化ウラン弾によって被爆した女性の衝撃的な写真を世に問うたフォトジャーナリストの豊田直巳(とよだなおみ)のトークショーで、一人の若い男性によって発せられた次のような質問へと「エスカレート」しかねないのである。

「豊田さんは、金正日(キム・ジョンイル)が支配している北朝鮮のような国にも、核爆弾を落としてはいけないと言うのですか?」

2023年8月28日更新 (次回更新予定: 2023年09月25日)

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