言論のアリーナ

第31回 「加害者の側に立てる勇気」とは

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

映画『福田村事件』をめぐって

森達也(もりたつや)監督の映画『福田村事件』を観た。『A』『A2』『FAKE』『i~新聞記者ドキュメント』など、ドキュメンタリー映画の秀作を撮ってきた森達也の、はじめての劇映画である。常々森は、自分は元々ドキュメンタリーを撮りたかったわけではない、劇映画の監督を志望していたのだが、最初に就いた仕事がTV・ドキュメンタリーの製作で、その流れでそちらの世界の仕事をしてきたと言っていた。『福田村事件』は、まさに満を持しての初劇映画作品だが、やはりこれまでのドキュメンタリー映画製作の経験は森の心身に焼き付いているのか、映画は日本で実際に起きた100年前の事件を、可能な限り史実に基づいて描き、同時に森自身のメッセージを観るものに突きつける、迫力ある作品となっている。

1923年9月1日に発生した関東大震災は、多くの人命を奪う未曾有(みぞう)の被害をもたらし、その猛威は人々の心をも襲った。震災直後に多くの在日コリアン、そして大杉栄ら左翼活動家が殺害される。教科書にも載ったそれらの事件の陰で、長く隠されてきた陰惨な事件が、「福田村事件」である。

大震災後、世は徐々に平安を取り戻すどころか、「朝鮮人が集団で襲ってくる」「朝鮮人が略奪や放火をした」という風評が広がり、人びとは疑心暗鬼に陥っていた。地震発生6日後の1923年9月6日、利根川(とねがわ)沿いの千葉県東葛飾郡福田村(かつしかぐんふくだむら)を訪れた香川からの薬売りの行商団が、讃岐(さぬき)弁で話していたことで朝鮮人と疑われ、自警団員らに襲われ、15人のうち、幼児や妊婦を含む9人が殺害されたのだ。映画『福田村事件』のクライマックスは、その殺戮(さつりく)シーンである。

折から、内務省発の通達により、村の人々は「不逞鮮(ふていせん)人」から身を守るために自警団を結成していた。行商団の人たちを朝鮮人と疑った彼らは、武器を手に身構える。民主派の田向村長(豊原功補)は、行商団が持っていた行商用の鑑札の真偽を確認するまで待てと制止し、直前に朝鮮から故郷の村に帰ってきていた元教師澤田智一(井浦新)と妻静子(田中麗奈)は、静子が現実に行商団から薬を買っていた経緯もあり、彼らが日本人であると証言する。だが、鑑札の真贋(しんがん)の報告を待つことなく、行商団のリーダー沼部新助(永山瑛太)の次の叫びが引き金となったかのように、殺戮が始まってしまう。

「鮮人やったら、殺してもええんか!? 朝鮮人なら、殺してもええんか!?」

この言葉は、その場にいる人すべてを告発する爆発力を持つ。映画は、明らかに関東大震災直後の左翼や朝鮮人殺戮を糾弾するものとして進行していた。しかし、この福田村の殺戮の場面では、「殺す/殺さない」が「朝鮮人か/日本人か」とイコールで結ばれてしまっている。行商団を救おうとする村長や澤田夫妻も例外ではない。「行商団の人びとは、朝鮮人ではなく日本人だから、殺すな!」と訴えているからである。さらに、「その場にいる人すべて」は、スクリーンのこちら側の人々をも含むのだ。行商団が香川県からきたことを知っている観客の多くもまた、極めてサスペンスフルな場面に立ち会い、行商団の人びとが日本人であることが判り、助かって欲しいと思いながら見るからである。

沼田新助の叫びは、それらをすべて否定、糾弾する。

映画は、福田村の人びとを、いくつものプロットを交錯させて描いてきていた。映画の冒頭で福田村に帰ってくる主人公澤田智一は、朝鮮で憲兵隊による朝鮮人虐殺の現場を目の当たりにし、通訳として加担した自らを責めつづけてきた。そのことを4年間妻に話すこともできなかった智一は性的不能にも陥っていた。妻は村の若者に身を任せる。その現場を目にした夫が、遂に朝鮮での出来事を妻に語るシーンが、映画のもう一つのクライマックスである。

この映画は、澤田夫妻の危機と再生の物語でもあった。澤田智一が妻を制して自ら、血気はやる福田村の人たちに行商団の人たちが日本人であると訴える行為は、その再生の証(あかし)だった……はずだ。だが、それは朝鮮での虐殺事件に苦しんできた彼が、「朝鮮人ではなく日本人だから、殺すな!」という論理を採用してしまうことでもあった。澤田夫妻も、そして鑑札の真偽を確かめさせようとした田向村長も「日本人である」ことを、行商団を守る根拠とする限り、思考の枠組みは、行商団の人たちに手をかけた福田村の人々と、同じだと言える。「行商団の人びとは、朝鮮人ではなく日本人だから、殺すな!」という論理に依拠している限り、関東大震災直後の6000人前後とも、実際にはもっと多いとも言われている在日朝鮮人殺戮の、「加害者」の側にいるのである。

「朝鮮人だったら、殺してもええのか!?」という沼部新助の叫びは、自分たちを殺そうとする人たち、守ろうとしている人たち双方に、鋭く突き刺さるのである。

「普通の人が普通に人を殺す」

劇中人物だけではない。夫妻や村長らに感情移入して見ていた観客にも、沼部新助の言葉は突き刺さるはずだ。この場面の感想を直接話したとき、森は、沼部を演じる永山瑛太(ながやまえいた)に、観客席に向かって叫んでくれと注文したと言った。

その森自身も、決して安全な場所にいるわけではない。「映画を撮りながら、自分がもしもその場にいたらと何度も想像した。殺される側ではない。殺す側にいる自分だ」(辻野弥生『福田村事件』五月書房新社、p228)と、森は言っている。森は自分自身もそちら側に置きながら、加害者側の、福田村の人びとを重点的に描いているのだ。永山瑛太に「観客席に向かって叫んでくれ」と指示したとき、彼は「俺に向かって叫んでくれ」と言っているのである。

「様々な考え方、あえて言えば『階級』が入り乱れる、価値観の群集劇にもなっています」というノンフィクション作家前川仁之(まえかわさねゆき)の感想を受けて、森は次のように言っている。

「多声性は意識しましたね。やっぱり加害側をきっちり描きたかったので。こういう映画の場合、どうしても被害側にウェイトを置きがちです。そうすると加害側がモンスターになっちゃうので、それは僕が意図したものとは一番離れてしまう」(『世界』2023年9月号、p248)

映画の冒頭近く、行商団は香川県西端の村を出発する。その行商団に密着して、悲劇へと至る道行を描くというつくり方もあり得たであろう。行商団の悲劇を描く映画としては、それが自然なやり方だったかもしれない。しかし、汽車で福田村に向かう澤田夫妻と、やはりプロットの中で大きな役割を果たす、戦死した夫の骨壷(こつつぼ)を抱える島村咲江(コムアイ)が言葉を交わすシーンを幕開きに置いた森は、もちろん行商団の人たちも、集団ではなく一人ひとりの人間として個性的に魅力あふれる仕方で描きながら、それ以上の時間と輻輳(ふくそう)するいくつものプロットを使って福田村の人たちを描いた。

前川の「虐殺の場面を撮るのは心身ともに過酷だったと思います」という感想を受けて、森は、「殺される側(の演出)はある意味楽です。楽というのは変な言い方だけど、ふつうの芝居でいい。殺す側の芝居は本当に現場でいちいち考えて撮りました。殺して平気でいられるのか、たぶんそうじゃないはずで、銃を撃った瞬間に『当たっちゃった』と思うかもしれない。いやきっと思うはずです。そういった注文は俳優さんたちにしました」と言う。

森の演出は、質量ともに加害者側に、より注力している。それは、森が自分自身を加害者側に置く作業でもある。前川が「過酷」という言葉にこめた以上に、それは森にとって「過酷」な作業であったのかもしれない。その「過酷」な作業ゆえに、沼部新助の言葉が、より強く突き刺さる。

だが、その「過酷」な作業の中で、おそらく森はこれまで何度も繰り返して言い、書いてきた自身の直観の正しさを、改めて確信した。だから森は、「何度でも書く」。 「何度でも書く。凶悪で残虐な人たちが善良な人たちを殺すのではない。普通の人が普通に人を殺すのだ」(『福田村事件』p236)

「普通の人」に「普通に人を殺」させるものこそ、個が個として判断し行動するのではなく、「集団」の一人として行動すること、――一方で、それは人類が生き延びてきた理由でもある――、そこに強い「同調圧力」が働くことである。

「独り」と「集団」

森は、かつて、それまでのテレビディレクターの仕事を離れて、「地下鉄サリン事件」後の(事件の犯人ではない)オウム真理教信者たちのドキュメンタリー映画『A』を撮ったときのことを思い出している。

「後ろ盾がまったくない。仲間もいない。徹底的に一人だった。施設内でカメラを回しながら、(信者は別にして)話しかける相手もいない。だから自問自答の時間が続く。その主語は一人称単数だ。テレビがナレーションなどでよく使う『我々』ではない。だから述語が変わる。変わった述語が自分にフィードバックする。視点が変わる。ならば世界は変わる。これまで見えてこなかった景色が見えてくる」(『福田村事件』p232)

「徹底的に一人」であることが、「集団の中の一人」でないことが、オウム真理教信者たちの、「これまで見えてこなかった景色」を、他の人たちには見えない景色を森に見させた。そうしてドキュメンタリー映画の傑作『A』が、同時に稀代(きたい)の映画作家・森達也が誕生したのである。

興味深いことに、『福田村事件』を書いた辻野弥生(つじのやよい)も、事件後のあるエピソードの中に、「一人」であることの大切さを見ている。生き残った一人の少年を、ある巡査が「うちに同じくらいの息子がいるから家にこんか」と言って少年を二晩ほど保護した」(同p192)というくだりである。

「おそらく吉田刑事は『独り』だったからだ。独りだったからこそ、人として何が正しいかを自分の力で考えることができた。対象的に自警団は『集団』だった。集団だったからこそ、独りなら決して考えも実行もしなかったであろう凶行に走ってしまったのだ」(同p194)

辻野はこの本を、2003年、事件現場近くの圓福寺(えんぷくじ)の霊園内に追悼慰霊碑が建立された場面で終えている。そして「犠牲者はもとより、八十年近く沈黙を続ける加害者側をも解放しよう」(千葉福田村事件真相調査会)という言葉を引用して締めくくる。そこに至るまで、事件のことを長く黙して語らなかった加害者たちやその周囲の人びとに、何度も焦点を当てている。辻野の視線もまた、被害者だけではなく加害者にも届いているのだ。

これは、とてもとても大切なことだと思う。被害者だけではなく、加害者にもしっかりと目を向ける。その視線は自らにも向かうかもしれない。すなわち、自分自身を加害者の中に見出すかもしれない。他者に「加害者」のレッテルを貼るだけであるなら、その危険はない。加害の内容を、加害の経緯を、加害の動機をしっかりと見つめたときに、自分もまた加害者であったかもしれない、あるいは今も加害者であるかもしれない可能性が、浮かび上がってくるのだ。そのことを恐れてはいけない。そこまで加害を見つめてこそ、被害と加害は止揚(しよう)される。被害者と加害者双方が解放されるのである。

他者にレッテルを貼るだけで、その内容を見ない、あるいは隠すことが、どのような行き方につながるかを、先に引用した「何度でも書く。凶悪で残虐な人たちが善良な人たちを殺すのではない。普通の人が普通に人を殺すのだ」に続けて、森は次のように書いている。

「殺す側は邪悪で冷酷。その思いが強いからこそ、過去に自分たちがアジアに対して加害した歴史を躍起になって否定しようとする」(『福田村事件』p236)

これは、今現に、ぼくたちの目の前で起こっていることだ。そして、逆にこうした歴史修正主義に対してレッテルを貼るだけでその中身を見ない、あるいは隠す行き方も、正反対に見えて、同型なのである。

前川仁之(まえかわさねゆき)による森のインタビューが掲載された『世界』2023年9月号には、「徴用工訴訟の弁護人になったわけ」という記事もあった。徴用工裁判、ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺事件の裁判に携わる韓国の弁護士林宰成(イム・ジェソン)は、そこで、「平和な社会に関し、具体的なイメージはありますか?」という質問に対して、「平和とは加害者の位置に立てる勇気だ」と答えている。

「被害者の席は多いですが、加害者の席に立てるかどうか。過去にあった過ちの上に現在があるということは、自分もまたそこに関係しているという認識です。過去の出来事について謝罪して終わりというのではなく、今の自分との関係についても考えてみる勇気が必要です。加害者の位置で自らを振り返る勇気を持つ社会が、水準の高い社会だと思います」(『世界』2023年9月号、p81)

2023年9月25日更新 (次回更新予定: 2023年10月25日)

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