言論のアリーナ

第32回 揺籃としての書店

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

二者択一と多項的展開

西洋的ロゴスにとって、「Aかつ非A」は、端的に偽(ぎ)である。だから、Aを主張する者と、非Aを主張する者は、互いに相手を否定する「生死を賭(と)した戦い」(ヘーゲル『精神現象学』)の両項となる。ヘーゲルの議論では、その戦いの結果は、どちらかが死すか、奴隷となる。今日のわれわれにとって、こうした議論の決着は、どちらが真(しん)でどちらかが偽(ぎ)、どちらかが正しくてどちらかが間違っているという仕方で収まる。

一方、古代インドの論理学においては、「Aかつ非A」も、「非Aかつ非非A」も第3レンマ、第4レンマとして成立する。つまり、排中律(はいちゅうりつ)を採用しないので、議論の帰結は二者択一ではなく、むしろどんどん多項的に展開していく。

インドで生まれた仏教は般若心経(はんにゃしんぎょう)の、「不生不滅(ふしょうふめつ)、不垢不浄(ふくふじょう)、不増不減(ふぞうふげん)……」である。二項対立は、両項を否定しながら、どんどん他の二項に移って行くのだ。縁起説(えんぎとき)は、因縁を老死→生→有→取→……とどんどん辿(たど)っていく。

こうした二項対立の変遷が、われわれが生きる世界で、実にリアルで、きわめて起こりやすいことであるということを、映画「福田村事件」は改めて知らしめてくれている。

「福田村事件」が描いた「朝鮮人と間違えての日本人殺害」事件への批判は、もちろん「朝鮮人虐殺」事件への批判を包含する。人びとの「朝鮮人虐殺」への志向があったからこそ、「朝鮮人と間違えての日本人殺害」事件が起こったからだ。

だが、「この人たちは、日本人だ!」と言って福田村で起ころうとしていた虐殺を止めようとした言動には、その瞬間、「朝鮮人虐殺」批判が影を潜(ひそ)めていたことは否定できない。だからこそ、行商団の沼部新助の「朝鮮人やったら、殺してもええんか!?」という叫びが、沼部たちを守ろうとした人々、そして彼らに共感する観客に突き刺さるのである。「この人たちは、日本人だ」から「殺してはいけない」という主張は、厳しく論理的に見れば「朝鮮人は殺してもよい」という相手方の主張と整合してしまうからである。

ここに、「正義」を貫徹することの難しさがある。そして、カントの格率(かくりつ)がそうであるように、倫理的命題が抽象的なものであらざるを得ない所以(ゆえん)がある。「朝鮮人を」「日本人だから」「殺してはいけない」ではなく、「人を殺してはならない」でなければならなかったのだ。だが、あえて問うとすれば、では死刑制度はどうなるのか? どちらかを殺さなければならない状況での選択は?(参照として、サンデルの提出するアポリア「太った男を殺すべきか?」や『ソフィーの選択』

「書物の堆積」の意味

一つの、あるいは数個の命題でなすべき行動、語るべき言葉がすべて演繹(えんえき)するには、世界はあまりに多様で、複雑なのだ。さまざまな情況が人に決断を迫るとき、無謬(むびゅう)で確かな答えはない。だから人間は悩み続けた。だが、五里霧中(ごりむちゅう)であったとしても、思索や試行をやめることはなかった。その所産が、これまで膨大に残されてきた書物の堆積なのである。

書店や図書館には、そうした書物が静かに並んでいる。一冊一冊が、情況との、世界との対決の記録である。既刊書とまったく同じ内容の本には存在理由がないから、同じテーマを扱っていても、主張内容は少しずつずれている、あるいはまったく正反対であることもある。後者の場合は全面対決、そうでなくても書棚に静かに並んでいる本は、手に取る読者を媒介としてある場合は穏やかに、ある場合は激しく戦闘を繰り広げているのだ。第一次世界大戦における膠着(こうちゃく)した塹壕(ざんごう)戦ではなく、熱戦である。

すべての書物は、先行する本の影響を受けて生まれてくる。その主張がまったく相反する本にも、「まったく相反する」という形で、むしろ強い影響を受けていると言える。一冊の本は、それらの本を自らのうちに映し出しているのである。先行する本一冊一冊は、それぞれの仕方で世界と切り結んでいるから(そうでなくては影響を与えることなどできないであろうから)、すべての書物は、自らのうちに世界を映し出しているのである。すなわち、ライプニッツがいう「モナド」なのだ。掌(てのひら)に収まる小さな本の中にも、世界が映し出されている。

その「モナド」=書物たちが、さまざまに切り結ぶ戦場が、書店である。さまざまな切り結びが生み出す火花が、新たな言論、それゆえ新たな切り結びを生み出す。そのプロセスが、社会を動かす、願わくはより良い方向に変えていく原動力となる。ぼくが、「言論のアリーナとしての書店」と読んだ自らの職場から、それを構成するいかなる書物をも、安易に排除する(隠す)ことを躊躇(ちゅうちょ)する所以なのである。

「安全地帯」から語ることの「グロテスクな残虐さ」

ある日、強い衝撃がぼくを襲った。

石川義正(いしかわよしまさ)の『政治的動物』(河出書房新社)を読み進めているときである。衝撃は、本書の序章にあたる「二〇一七年の放浪者(トランプス)」で、石川が柄谷行人(からたにこうじん)『坂口安吾論』(インスクリプト)を論じている次の箇所を読んでいるときに訪れた。

「このように見いだされた安吾のファルスは、すでに政治的なものが放棄されている大衆消費社会のシニシズムとほとんど区別がつかない。わたしたちは現在でも安吾を違和感なく読むことができるが、それは安吾とわたしたちに共通するシニシズムによってである。対象からの距離を保証する崇高は大衆消費社会における倫理の代用品となったのであり、安吾の『評価が高まったのは、むしろ(一九)八〇年代後半からである(『坂口安吾論』)』という事実はそのことを意味している」(『政治的動物』p29)

衝撃のあと、軽い鬱(うつ)が、ぼくを覆った。

安吾とぼくたちのシニシズムの共通性にショックを受けたわけではない。平成期のシニシズムを論じるものは、北田暁大(きただあきひろ)の『嗤(わら)う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版)ほかいくつもあるが、それらの議論の多くが含むシニシズムの、全否定ではない両義的な評価を、ぼくも共有している。 ぼくにショックを与えたのは、「対象からの距離を保証する崇高」である。

「我々が安全な場所に居さえすれば、その眺めが見る眼に恐ろしいものであればあるほど、これらの光景は我々の心をひきつけずにおかない」

カントの『判断力批判』を引いたあと、石川は、言う。

「読者=批評家は作品を前にして無力で無能な存在にすぎないが、にもかかわらずかれらのよって立つ安全地帯は作品の崇高さを理解する自由を確保するために必須の足場なのだ。こうした読むことの倫理の存在は柄谷以降の若い批評家たちにかれらのアイデンティティを保証する結果となった」(『嗤う日本の「ナショナリズム」』p28)

石川は、安吾と、安吾を論じる柄谷、そして柄谷らに続く批評家たちが「安全地帯」から書いていることを指摘する。そして、続ける。

「しかし安吾がエッセイ『特攻隊に捧ぐ』で特攻隊を『可憐な花』かつ『崇高な偉業』と記しているように、たとえそれがアイロニーであったとしても安吾自身はもはや戦争で死ぬことがありえない――超越論的と形容しうる――場所から語っていたのであり、そのような視点のありかそれ自体がすでにグロテスクな残虐さに汚染されているのである」(同p27-28)

「グロテスクな残虐さ」という言葉は、石川が、安吾や柄谷、「若い批評家たち」が「超越論的と形容しうる場所」に拠(よ)って立つことを、(断罪とまではいわないまでも)強く批判していることを明確に示している。

返す刀は、現代の日本文学を代表する村上春樹にも振り下ろされる。『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社)のシベリア抑留と『騎士団長殺し』(新潮社)の南京事件の扱い方の差を取り上げ、石川は次のように言う。

「端的にいって村上には日本人が被害者とされるシベリア抑留を直接的に描くことはできても、日本人が加害者である場合にはそれができない。この点では村上に手の届く想像力は、いかにも戦後民主主義的な自閉した圏域にとどまっているというしかない」(『嗤う日本の「ナショナリズム」』p34)

書店は「安全地帯」にすぎないのか

「作家:作品の対象」と「読者(批評家):作品」はパラレルである。読者もまた作家同様(おそらく作家以上に)「安全地帯」の中にいる。それが、作品が生み出され、読書が成立し、作品の崇高さが認められるための条件なのだ。作品の対象の選び方・描き方が作家の、本というメディアそのものが読者の、それぞれ「安全地帯」の防護壁なのである。対象を作家の防護壁が囲み、そのさらに周りを編集者や読者の防護壁が囲む。その場所が安全であればあるほど、防護壁が厚ければ厚いほど、対象との距離は大きくなる。

ならば、われわれ書店員は、そのさらに外側にいて「安全に」守られ、その分対象との距離がきわめて大きなものになってしまっているのではないのか?

ぼくに衝撃を与え、鬱をもたらしたのは、その図式である。作家、批評家、編集者、読者、書店員の順に安全度が高くなり、防護壁が厚くなり、対象との距離が大きくなっていくならば、本は、書店は、「言論のアリーナ」にはなりえないのではないか? 書店員が「闘技」に加わっていくことなど、夢想に過ぎないのではないか?

およそ10年前の東日本大震災のとき、ぼくたちの多くは見たことのない津波が東北地方の町を襲うさまを、テレビの画面を通じて目にした。「安全地帯」にいたぼくたちは、津波に追われて逃げ続けている人たちに襲いかかる自然の猛威に、「崇高」を感じていたのではなかったか?

「崇高は、どう見ても不快でしかなく構想力の限界を越えた対象に対して、それを乗り越える主観の能動性がもたらす快である。カントによれば、崇高は、対象にあるのではなく、感性的な有限性を乗り越える理性の無限性にある(柄谷行人『坂口安吾論』インスクリプト)」(『政治的動物』p21)という言葉は、むしろ「理性の無限性」のグロテスクさを語っているのではないのか?

読書体験においても、ぼくたちは、「どう見ても不快でしかなく構想力の限界を越えた対象」を経験する。それを「崇高」と見ないとしても、普段体験しないそうした対象と本を通して接することで、その対象について知り、考え、意見を持ち、ときにはそのことについて発信する。そうしたプロセスの場となることを、ぼくは「書店」という場の価値であり存在理由だと主張してきた。それが、「言論のアリーナとしての書店」だと思ってきた。

だが、その「アリーナ」で繰り広げられる「闘技」が、何重もの防御壁で守られた疑似闘技に過ぎないとしたら。

ぼくは、「ヘイトスピーチ」や「ヘイト本」について本で読み、さらに戦後日本の「在日」差別の歴史も本から学び、書評などの形でそれらについてコメントしてきた。あるいは、辺野古基地の建設や、沖縄に米軍基地が集中している理不尽について学び、トークイベントを開催した。だが、「カウンターデモ」に参加したわけでも、基地建設地の座り込みに参加したわけでもない。

書店での、そして本を媒介しての活動や発信は、防御壁に囲まれた「安全地帯」からのものに過ぎなかったのではないか?

ここまで自分を追い詰めたとき、ぼくは我に返った。

むしろ、この衝撃を、大事にしようと思った。

「危険なもの」にとっても「安全な居場所」

一人の人間にできることには、限りがある。まずは、そのことを自覚しよう。それゆえにこそ、バトンを誰かに渡すべく、人は言葉を発し、文章を書くのだ。言葉の力を、言葉を届ける本の力を、その本を運ぶ仕事の意義を信じよう。メッセージは必ず誰かに届く。『政治的動物』という本がぼくをここまで追い込んだことが、そのことを証している。

本は、人びとの心に種を撒(ま)く。岩波茂雄(岩波書店創業者)が出版社を興すときのシンボルマークに「種蒔(ま)く人」を選んだのは、まさに慧眼(けいがん)である。種は静かに育ち、いつか実を結ぶ。その実がまた芽をふかせる。

さまざまな本がある。多様な考え方がある。人は、そこから本を選ぶ。あるいは、本に選ばれる。「安全地帯」であるからこそ、武装していない人でも「選びの場」に入ることができる。

思想や学問の揺籃(ようらん)として、本のある場所は、さしあたり「安全地帯」でなくてはならないのだ。ここでいう「安全地帯」とは、「危険」なものがない場という意味ではない。「危険」なものにとっても、「安全」な居場所であるという意味である。それが、ぼくの「書店=言論のアリーナ」論である。

揺籃といえば、石川は日本の近代文学史を、ちょっと面白い視点から見ている。まず石川は、平山洋介『都市の条件』(NTT出版)の次の文章に着目する。

「高度成長期の大都市は、拡大し続けた。そこに流入する低所得の若年人口を受け止めたのは、おもに木造アパートであった。その家主は、地価に見合う家賃を設定していないという意味において、借家人に『補助金』を供与していた」

平山は、高度経済成長期、公営住宅の建設がその需要にまったく追いつかなかった中で、民営借家の家主が「低質ではあるが、低所得者が入居可能な場所をつくっていた」ことを、「補助金」と表現しているのだ(『都市の条件』p44-p45)。

それを受けて、石川は次のように続ける。

「これが明治期以来の『民営借家』の慣行であったとしたら、二葉亭四迷(ふたばていしめい)『浮雲』(1889年)夏目漱石(なつめそうせき)『こころ』(1914年)に代表される日本近代文学もまた、つまるところ家主の『補助金』によって成立していた、と断定してもよいはずなのだ」(『政治的動物』p76)

「要するに民営借家の家主が安い家賃を通じて作家に『補助金』を与え、文芸誌を刊行してきたといっても決して大げさではない。(中略)『投資と利回りの関係をほとんど意識せず、収支計画さえもっていなかった』零細家主によるオイディプス的な善意(パターナリズム)が日本近代文学の育まれる素地となったといってもいいのである」(同p77)

思想や文学が生まれ、育っていくには、さまざまな意味での揺籃=場所が必要なのである。


*本コラムは2024年2月、書籍として刊行予定です。

2023年10月25日更新

言論のアリーナ の更新をメールでお知らせ

下のフォームからメールアドレスをご登録ください。


メールアドレスを正しく入力してください。
メールアドレスを入力してください。
言論のアリーナ 一覧をみる