やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第1回 落語を聴くときに働く知性とは?

ただ楽しめばいい落語だが、落語をよく聴くようになると、人によっては落語とは何だとか、噺[はなし]とはこういうものだとか、批評家のように論じたくなる方がいると聞く。ところが、改めて考えてみると、うまく説明できないこともままあるのではないか。

一人ひとりが自分なりの落語論を掘り下げていくためには、ちゃんと言葉にされた一揃い[ひとそろい]の「ものの見方」があると便利かもれない。その見方に賛成するにしろ異論を述べるにしろ、それを足場にして議論を組み上げることができるからだ。

私の研究分野は認知科学である。認知科学とは、情報を処理する内的な過程を想定しながら、知性の起源やはたらきを解明することを目指す学問である。一方で、大学時代は落語研究会に所属し、さまざまな会場で口演して回っていた。だから、いくらかは演者としての経験もある。

この連載では、落語にまつわる演者、観客、噺をより深く理解するために、研究者の視点に立ったものの見方・考え方をシンプルに提供していく。

連載を始めるに当たって簡単に自己紹介をしよう。

私は九州大学大学院人間環境学府で修士課程を修了し、2008年に心理学の博士号を取得した。同学で助教を経て2012年から東京大学大学院で特別研究員として研究活動を行っている。研究では、安易で平坦な道よりも、大変であってもおもしろい道を選ぶことを信条にしている。

現在、どの寄席にも30分で行ける東京・文京区本郷の長屋に住んでいるが、落語会や寄席に行くのは月4回までにしている。

落語を楽しむ知性

私たちは、落語を聴いて噺の世界を楽しむことができる。

落語をよく聴く方にとっては当たり前のことに思えるかもしれない。けれど、噺の世界を楽しめるのは、私たちがいま生きているこの場をいったん脇に置き、噺の世界を思い描いてありありと体験できるという特別な知性を持っているからだ。

曖昧さを許容する知性

私たちは、知性と聞くとクールな思考や判断のことをまず思い浮かべがちだが、落語を聴くときに働いているのは、むしろ曖昧[あいまい]さを許容する知性である。

噺家が登場人物のせりふで「美人が歩いてくるよ」と言ったとしよう。すると、どんな目鼻立ちだとかどんな風姿[なり]なのかを言わなくても、客のほうで好き勝手に美人を思い浮かべる。

客が想像力を駆使して具体的なところを補完しているのだ。客が曖昧さを残す情報からでも想像できるからこそ、全部を説明してあげなくても噺が成立する。このような客のやわらかな知性が落語を楽しむ一つの鍵なのである。

この知性はもちろんあらゆるところで使われているのだが、落語はとりわけこの力を活性化させ、極限まで利用するように仕立てられている。

そもそも、上下[かみしも]を振っただけで別の人物が話していると感じるためには、噺家と観客のやりとりをいったん脇に置き、同時に登場人物のどうしのやりとりを想像するという複雑なイメージ能力がなければならない。

事実、まだこの能力が未成熟な小学校低学年では、噺家の発言と登場人物のせりふをうまく切り分けられない。学校寄席で噺家が隠居として「おう、八[はっ]つぁんじゃないか」というと、誰か来たと思った子どもたちが、いっせいに後ろを振り返ってしまうというエピソードを聞いたことがあるのではないだろうか。

ほかにも、噺家は座ったまま噺をしているにもかかわらず、客のやわらかな知性に支えられて、やすやすと時間や空間を超えて別の場所へ行けるし、舞台には存在していない背景を見ることができる。とはいっても、もちろん観客の想像には噺家の工夫も不可欠だ。

たとえば、扇子[せんす]を刀に見立てても、ただ持つだけではまだ扇子のままだ。柄に手をかけ刀身[とうしん]を抜くときに、その長さと重さが現れていなければ刀には見えない。この意味では、噺家が骨格を示し、客のほうでもってそれに肉づけをするというのが、噺の世界が創出されるときの基本的な過程である。

共感する力

落語を楽しむために重要なもう一つの知性は、共感する力である。これは自分以外の誰かの感情をその身になって共に感じることである。ざっくりといえば、他者への感情移入のことだ。落語の楽しみは、日々のちょっとした出来事をきっかけに引き起こされる登場人物の人間らしい振る舞いや心情に共感することにある。

『初天神[はつてんじん]』の父親が凧[たこ]を揚げてみたり、『青菜[あおな]』で植木屋が屋敷の主人の真似をしてみたりする、そういった振る舞いをしたくなる心情に共感するのだ。この共感の作用があるからこそ、別世界の誰かさんに起こった出来事としてではなく、噺の世界の人物に身を重ね、自分のこととして楽しむことができる。

大人になるにつれて、子どもの頃よりも文脈や状況を理解できる幅が広がり、感情の機微まで感じられるようになる。だから、例えば同じように『子ほめ』を聴くにしても、自分に子どもがいるかどうかによって、当然、味わいは違ったものになる。

言い換えれば、落語では、聴き手がどこまで噺の世界をきめ細やかに感じとれるかによって、噺に奥行きが出たり、逆に表面的なもので止まったりするということだ。落語が大人の娯楽だといわれるのは、そういった豊かな共感が起こりうる芸としての懐[ふところ]の深さがあるからなのである。

もっとも共感の仕方には客によってバリエーションがあり、結果として落語の楽しみ方にも彩りが見られる。

一つには、あたかも自分の身を重ね合わせて「なるほど、その通りだ!」と感動するという楽しみ方がある。その一方で、噺の筋の中で「こいつはこう考えたんだ、しょうがねぇな」と頭の働きで心情を理解するという楽しみ方もある。

もっと落語を聴くようになると、噺自体を楽しむことを超えたメタレベルの楽しみ方も出てくるのだが、それはまた別の論点になるので、次回以降に論じることにしよう。

今回は、落語を聴いて噺の世界を楽しむには、曖昧なものを許容するやわらかな知性と人物の振る舞いや心情に共感する力が不可欠だと論じた。これらはさまざまな場面で発揮される一般的な知性だが、それらが楽しみの前提条件になる落語は、人が直面するなかでも極めて特異な状況の一つである。

2014年5月19日更新 (次回更新予定: 2014年6月20日)

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