やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第2回 落語の面白さは「創造的問題解決」にあり!

前回は、落語を聴いて噺(はなし)の世界を楽しむためには、曖昧(あいまい)なものを許容するやわらかな知性と、人物の振る舞いや心情に共感する力が不可欠だと論じた。

今回は、落語のもう一方の主役である噺家(はなしか)に目を向け、噺家が噺をするとはどういうことか、認知科学の視点から論じていく。

「落語」「噺」「噺家」の定義

噺家について論じるにあたって、まずは本論における用語の使用法について確認をしておこう。

この連載では、落語を歌舞伎、能、狂言などと並ぶ芸能の一領域を指す語として用いる。それに対して、噺は人が話す行為のうち、楽しませること(entertainment)を目標とするものを指す。ただし、広義には滑稽噺(こっけいばなし)、人情噺(にんじょうばなし)、怪談噺(かいだんばなし)というように、パフォーマンスとして行為化されたもののことを噺と呼ぶこともあるので、その場合はこれに従おう。

たとえば、噺家が噺をするといった時には前者の意味、客が噺を楽しむといった時には後者の意味である。

噺家とは、この定義での噺を活動の中心に据える実践者を指す。

落語家ではなく噺家という表現を用いるのは、その実践者が噺で勝負する立場にあることを単に強調するためである。もちろん、これとは異なる観点から落語家という語を用いる方もいらっしゃるだろうが、本論のなかではこのような用語法にしばしお付き合いいただきたい。

ダイナミックな行為を動的に見る

改めて言うまでもないが、落語には大まかな筋(すじ)があるだけで、セリフや身振りはあらかじめ決まってはいない。だから、噺家は覚えたセリフをただそのまま口に出しているのではない。

噺家は客の様子を見ながらネタを加えることもあるし、場面ごと省略することもしばしばある。

この意味では、落語はかなり即興的(そっきょうてき)な要素の強い演芸である。

だから、落語の噺についての議論では、噺家が口演する以前になにかしら定まった噺があるという静的な見方をしていてはダメだ。口演しているその瞬間に、絶えず噺が組み上げられているという動的な見方をしなくてはならない。

噺をすることは、その本質からいってダイナミックな行為なのである。

噺家の多くが、文字として残された速記と、実際の口演とを同一視することを避けるのもこのためだ。文字という一面から、かろうじてつなぎとめた記録では、活き活きとした噺の本性が捨て去られてしまっているように感じられているのだ。

創造的な問題解決

状況に応じた噺を即興的に生み出していくためには、ときどき温習(さら)ったり、身近な客が多い落語会に何度か掛けたりすることで、噺を身になじませることは欠かせない。

しかし、それだけではまだ十分ではない。その日の自分の調子と客の様子を考慮して、その場に適切な表現を絶えず探索し、発見していく必要があるからだ。

ここで噺家が行っているのは、記憶した噺の正確な再現なのではなく、種々の制約の下で自分が実現しうるもっとも適切な表現の創出である。

噺家が行う表現の創出は、一種の創造的問題解決である。

通常、私たちが問題解決と聞くと、算数とかパズルのように手続きや手順が決まっているものを考えがちだ。
だが、表現の創出においては、何をすれば解決になるのか自体が不透明であるため、最終的に目指すべき目標も、明確には定義づけられてはいない。

このため噺家は、まずどんな噺になれば納得できるのかという問題の根本から、自分の肚(はら)で決めなければならない。

何を問題にするかによって「腹の底から笑わせる」や「江戸の雰囲気を感じてもらう」といった独自の基準が生まれ、この基準に照らして適切な解としての表現を探し求めていく。

これは一筋縄ではいかない、じつに手ごわい問題である。

なぜなら、噺家が直面する高座には、場の雰囲気や番組の進行など多くの要因が複雑に絡み合っているからだ。

しかも表現の創出問題には、表現をリアルタイムで具体化せねばならないという強い時間的な制約があり、一つひとつ順を追って理知的に解くことは原理的に不可能なのである。

独創性はどこから生まれるのか

熟達した噺家は、この難題に素人(しろうと)には思いもつかない独創的な方法で解を与えることができる。

そして、この表現を目の当たりにした客は、離れ業(わざ)をみているような気持ちになって、思わず「ここでそんな表情があるのか」と感嘆の息を吐いたり、「上手いな、ちくちょう」などと嘆(たん)じてしまうことになる。

この事実は二つの示唆(しさ)を含んでいる。

第一に、表現の創出は、頭の働きだけで解決できるものではなく、噺家が実践を通して鍛えた感性と直観を頼りに、実際にやってみて初めて解ける類(たぐい)の問題だということである。しかも、一つの解として具現化された表現は、問題の根本から生まれ来るので毎回新しいにもかかわらずいつも本質を突く。

第二に、創出された個々の表現には、噺家の体つきや声といった身体の特徴はもちろん、噺や表現に対する考え方によって豊かに彩られているということである。結果として、たとえ噺家自身が意図しなかったとしても、個々の表現にはいつも噺家のオリジナリティが現れる。

噺家にとって噺をすることとは、状況が常に揺れ動く瞬間の連続にあって、自分が納得できる基準を胸に秘めながら、適切な表現を絶えず創出しようと試みる行為なのである。

今回は、創造的な問題解決という視点に立ち、ダイナミックな行為としての噺を理解してきた。落語が即興的な表現の創出の積み重ねだとしたら、そんなあやふやな状況で噺家はどうして上手くなることができるのか。
次回は、噺家の熟達化について、人がものごとを学ぶときの原理から論じていく。

2014年6月20日更新 (次回更新予定: 2014年7月20日)

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