やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第3回 噺家の修行、その熟達化の原理

前回は、創造的な問題解決という視点に立ち、ダイナミックな行為としての噺(はなし)を理解してきた。噺は即興的な表現の創出だという新鮮な見方である。

しかし、そんなあやふやな状況で噺家はどうして上手くなることができるのか。

学ぶには自由すぎる状況

ふだんよく聞く演目でも、うまい噺家の手にかかるとこんなにもおもしろかったのかと驚かされることがある。

たとえば、同じ『青菜(あおな)』を聞くにしても、入門したばかりの前座の口演はなんだかパッとしないのに、脂の乗った真打ちがさらりと演(や)ったのは可笑(おか)しくってしょうがない、といったことだ。

ダイナミックな行為として噺を捉えれば、両者は端(はな)から別物である。

だから、前座の『青菜』と真打ちの『青菜』が、もはや同じ演目には思えないとしても不思議ではない。

このように、噺家が上手くなれば、行為化されたパフォーマンスに変化がある。しかし、本当の意味で噺家が上手くなる過程(専門用語でいえば熟達化)や、その仕組みをちゃんと理屈として考えるためには、噺を創出するのを支える要素にどんな変化があるのかを見てみなければならない。

たとえば、空気を読む(状況を瞬時に把握する)身体技法や、状況に応じて自在に表現をコントロールする能力には変化が見られそうだ。

とはいえ、日々の実践を通して上手くなっていくのは、口で言うほど容易ではない。日によって体調は異なるし、会場や客は異なるからだ。
同じ演目をするにしても、どんな噺が出来上がってくるかは演ってみるまでわからない。それに噺家は、教わった噺を工夫したり新しく噺を作ったりできる。

だから、着物を着てしゃべるという程度の制限の下で、どんな噺でもできる自由さがある。

この自由さは必ずしもよいことではない。噺を創出する秘訣を身に付けるという観点からいえば、状況の変化が大きすぎる。

学ぶにはあまりに自由なのである。

制約こそが表現を創造的にする

舞台に立って自由に何でもいいから即興でやりなさい、と言われたらどうするだろう。芸がない人がそんなことを急に言われたら、どうしていいかわからなくて困ってしまう。

たとえば、好きな楽器で自由に音を鳴らしてごらん、というように何でもありの状況というのは、行動の自由度が高すぎて、かえって何をするか決められない。

それならいっそのこと、カスタネットを鳴らすリズムだけ変えて音楽を作ってみて、というように限定してくれたほうがやりやすいだろう。

じつは、ある程度の制約があったほうが人はその制約の中で自在に、そして創造的に振る舞えるのだ。

落語が優れているのは、状況の移ろいやすさを見越した制約が、修業の形としてあらかじめ制度として組み込まれていることだ。

前座になっても、初めのうちは一つか二つの演目しか教えてもらえない。できる演目が限られているのはとても窮屈な感じもするが、これにより、状況によって変わってしまう部分と、状況が変わっても共通している部分に気づくことができる。

そこでは、演目が限られているからこそ、その範囲の中で表現を工夫することができるし、その工夫に対して観客の反応がどう返ってくるかを、大まかにではあるが確かめることができる。

このような、ある時点において一つの要素だけ動かしてみるという操作は、VOTAT (vary-one-thing-at-a-time)と呼ばれ(*1)、科学的な実験にも共通する発想である。

噺家の熟達化過程

入門して初めに教わる演目は、無作為に決められているわけではなく、一門や師匠によって決まっていることが多い。

ほとんどの場合それらの演目では、八(は)っつぁんや熊(くま)さん、横町の隠居、人がいい甚兵衛(じんべえ)さん、馬鹿の与太郎(よたろう)といった落語ではおなじみの人物たちが登場し、日常の他愛ない出来事が話題になる。

技術的にも人物どうしの会話を表現する上下(かみしも)の基本型が含まれており、シンプルに楽しめるお手軽な笑いも多い。

初めて教わる演目には、学ぶべき落語のエッセンスが入門当初からすでに組み込まれているのだ。

これ以降、多くの演目ができるようになると、自由度は飛躍的に高まる。

自分で考えたネタを入れ込もうとしたり、盛り上げる演出を考えたりし始めると、表現の選択肢は限りなく多くなるからだ。

ここでは、連載第2回で言及した“どんな噺になれば納得できるのか”という、噺家ごとの肚(はら)に据えるテーマが新たな制約になる。やってみればできるやり方でも、納得できないものはしない。そうやって噺家ごとに、表現が一定の方向性で収束していくのだ。

噺家の立場からみた視点をより正確に言えば、肚に据えたテーマに沿った噺を、いつも実現できるのを目指して、技法や能力を磨いていくことになる。

熟達化の研究では、チェスや音楽、スポーツなどどんな分野でも、名実の伴った熟達者になるためには少なくとも10年かかるという経験則があり、10年ルールと呼んでいる(*2)。

噺家が真打ちに昇進する目安も10年程度だから、この経験則が当てはまっているのだろう。

しかしながら、生涯現役ともいわれる落語の世界では、真打ち昇進以降にこそ、噺家の熟達の真骨頂があるはずだ。だが、名人についてのエピソードから想像する以外に、これは知る由もない。

今後、長期的な変化を捉える実証的な研究が実現すれば、落語界だけではなく熟達化研究にも興味深い知見になるだろう。

今回は、入門当初は厳しい制約が逆に学びを可能にすること、また、その後は自分自身が決めたテーマが制約になって熟達していくと論じてきた。

ここまでの連載を通じて、落語の見方について読者との間で共通の土台ができたと思われる。そこで次回は、野村が研究を進めている最新の内容について触れたい。多くの観客がただ一つの噺を楽しむことがなぜ可能なのか、そのメカニズムを論じよう。

 

引用文献

(*1)Tschirgi、 J. E. (1980). Sensible reasoning: A hypothesis about hypotheses. Child Development、 1-10.
(*2)Ericsson、 K. A. (2006). The influence of experience and deliberate practice on the development of superior expert performance. In K. A. Ericsson、 N. Charness、 P. J. Feltovich、 & R. R. Hoffman (Eds.) The Cambridge Handbook of Expertise and Expert Performance、 683-703.

2014年7月22日更新 (次回更新予定: 2014年8月20日)

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