ミャンマーへの道

第7回 未来に向かって変化、成長していく言語 − 可能性としての「ミャンマー文字アルファベット化」論(3)

「非経済的な」「採算のとれない」文化が淘汰される可能性

ミャンマー人二人を選んで、自分の母語の文字が完全にアルファベット化されたらどう思うか、という質問を投げかけてみた。仮定の話なので想像しにくいようであったが、次のような反応が返ってきた。

まず、一人は、ミャンマー北東部に位置し、タイ国と接するシャン州の民族であるパラウン族の女性である。パラウン族の人口は、ミャンマーに十数万人とも二十数万人ともいわれ、少数民族の範疇(はんちゅう)に属する。彼女は、ミャンマー語も操れるが、その母語はパラウン語である。パラウン語は文字を持つ。そこで、パラウン文字が、完全にアルファベット表記に置き換わって廃絶されることになったらどう思うかと尋ねた。彼女の返答は、文字は自分たちの文化である、というものだった。

「パラウン語の文字が全部アルファベットになったら、私たちの文化が無くなってしまうのと同じこと。そうなったらとても寂しいし、それはおかしい」

彼女にとって、文字は、単に意思伝達の道具にとどまらず、文化そのものであり、文字それ自体に愛着を持っているのである。

また、彼女の発言には、大きなうねりを前にして感じる漠然とした不安という、少数民族ならではの感情も窺(うかが)えたような気がする。アルファベットという西洋由来の文字に母語が飲み込まれてしまうという危惧(きぐ)。前稿で、日本語がアルファベット化された場合に、社会の片隅に細々と存続している「零細」文化から復権の機会が奪われる可能性に触れたが、経済合理性の原理が過度に働けば、固有の少数民族文字がカバーする「非経済的な」「採算のとれない」多くの文化は淘汰(とうた)され、その結果、民族固有の文化全般が失われる可能性もあるのではないだろうか。

新たな概念の表記はアルファベットでは困難

次に意見を聞いたのは、ミャンマーでマジョリティを形成するビルマ族(ミャンマー族)のチーハン先生である。彼は、次のように言う。

「ミャンマー語でも日本語でも、すべてアルファベットに置き換え、本来の文字をなくすことには反対です。ある言語を難しいからといって単純にしようとするのはおかしいのであって、言葉は難しいから面白いのです。また、日本語から漢字を取り去ってしまったら、意味が分からなくなる場合があります。たとえば、同じ『みる』でも、監視するとか、看護するといった異なる意味があるのに、そのようなニュアンスが伝わらなくなる。それに、ミャンマー語は、これから外国の文化や概念を、言語の中にどんどん採り入れて成長しようとしています。これは、ミャンマー文字だからこそうまくいくのです」

なかなか難解だが、最後の点は私なりに咀嚼(そしゃく)すれば、日本語の場合に置き換えて次のように解釈する。

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収穫を祝う踊り。2011年、国立劇場に招待されて

たとえば、英語で「philosophy」という言葉がある。日本語では「哲学」と訳され、これは明治期に本格的に外国文化が輸入されるに至り、ある思想家がつくった訳語であるといわれる。この訳語は、「哲」という字が「事理を明らかにする」といった意味を持つことにより、「philosophy」の持つ性質を的確に表している。もし、日本語がすべてアルファベット表記にされてしまっていたなら、もともと日本になかったか、または意識されにくかったこの「philosophy」という概念に、このような見事な翻訳語を割り当てることは不可能であっただろう。ミャンマー語は基本的に表意文字ではないから、漢字の場合とは事情が異なる。しかし、新たな概念を表現するには、アルファベットのみでは困難で、現存のミャンマー文字による単語を組み合わせ、調合することによってこそ達成可能だ、というチーハン先生の考えにも理がある。

二人の主張、すなわち、文字は文化そのもので、文字が失われるということは文化のアイデンティティの喪失と同義であるという主張と、言語は単に過去や現在を映す鏡にとどまらず、未来に向かって変化、成長していくという動態的な視点からの主張は、言語のアルファベット表記を検討するにあたって、考慮に入れなければならない観点であろう。

2014年3月25日更新 (次回更新予定: 2014年4月25日)

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