ミャンマーへの道

第6回 「零細」文化から復権の機会を奪うアルファベット化 − 可能性としての「ミャンマー文字アルファベット化」論(2)

ひとつの言語をすべてアルファベットによって表記し、その言語固有の文字を廃することに、どのような長所・短所があるだろうか。身近な日本語がすべてアルファベット(ローマ字)表記になった場合を想定して考えてみる。

「国際化」を目指す立場からの視点

長所として考えられることは、日本語を母語としていない学習者が、アルファベットの読み方さえ知っていれば、新たな努力を必要とせずに、日本語を音読することが即座に可能になるという点である(もちろんアクセント等を含めた正確な発音には訓練を要する)。この長所は、きわめて大きな意義を持つ。なぜならば、外国語学習にとって大切なことの一つが、その言葉を読めるようになることだからである。言葉が読めれば、基礎的な文法を習得することによって、辞書を引きつつ文章を解することができるし、読むことは会話力の向上にもつながる。

日本語のアルファベット表記が日本語学習に資するという考えは、日本語を学ぼうとする外国人の視点に立脚したものであり、日本語のいわば「国際化」を目指す立場ということができる。日本語が「国際化」することによって、日本語が政治や経済の国際交流の場で使用される機会が増えるし、外国人が日本文化を知ろうとする場合、日本語で書かれた文献や記事を直(じか)に読むことが容易になる。日本人も日本語を用いて自国をアピールしやすくなる。こうして、日本に対する外国からの理解も深まる。

日本語のアルファベット表記の長所は大要このようなところだろうか。これは、ミャンマー語のアルファベット表記についても共通して言えることだろう。

母語としている者の視点

反対に短所としてはどのようなことが考えられるか。日本語の特徴として、同音異義語が多いという点が挙げられる。私たち日本人は、表意文字ともいわれる漢字を手掛かりにして同音異義語の異なる意味を区別する場面が多いから、漢字を廃してはこの区別が判然としなくなって困るという点が想定できる。

同音異義語を問題にしないまでも、日本語を母語している者にとってみると、アルファベットだけで書かれた日本語の文章など読みづらくてしかたがない。我々は、知らず知らずのうちに、漢字を頼りに文章を解しているのである。ただし、この短所は、日本語に馴染(なじ)んだ者の視点からの指摘であって、この不便を、外国人学習者にとっての便宜よりも重く見るべきだと自信を持って言うことは、少なくとも私にはできない。

もっとも、ミャンマー語には漢字かな混じり表記のような制度はないし、ミャンマー文字は表音文字といわれているので、上の例は、ミャンマー語のアルファベット化を論じるための手掛かりとしてはふさわしくないかもしれない。ただ、慣れ親しんだミャンマー文字を完全になくすことには大きな抵抗を感じることであろう。

経済原則の介在で失われる「零細」文化

私が考える日本語アルファベット表記の最たる弊は、我々が時に応じ自己の血肉として吸収している文字文化の一定部分が、消えてしまうおそれがあるという点である。

ヤンゴン(ミャンマーの旧首都)のすし屋
日本語がローマ字表記されている

私たちは、強くは意識していないけれども、文字文化の中で生きている。日々読む新聞や雑誌、インターネットの閲覧、文学作品や学術論文など、文字を介した文化は圧倒的な量を誇る。そしてこれらの文字文化は日々生成され累積していく。私たちは過去から現在に至るまでに積み重なった文字文化を、必要に応じて取捨選択して用い、味わっているのである。私たちがこれらの文字文化を堪能することが可能なのは、当然のことながら、その文化で使われている日本語が読めるからである。

けれども、たとえば200年後の日本人が、ごく一部の学者を除いて、日本語文字を全く読めなくなったらどのような現象が起こるだろうか。過去から累積した日本語文字による文化を、用いられている文字を直接読んで理解することができなくなるのである。

もちろん、性能のよい機械が、現在の日本語を自動的にローマ字に変換してくれるに相違ない。しかし、ローマ字変換の対象は、過去から累積している文化を網羅するだろうか。夏目漱石や村上春樹の作品は心配なかろう。源氏物語も大丈夫である。だが、自費出版に頼っている名もなき作家の著書、手作りのミニコミ誌、工場の倉庫に眠っていた中小企業の創業者による日記などは、ローマ字変換の恩恵に浴するのだろうか。ローマ字変換にも一定の手間がかかることから、そこに効果・効率という経済原則が介在し、累積した文字文化をすべて変換することは望むことができない。そうすると、ローマ字変換の光栄にあずかることのできない「零細」文化は、人々の目に触れても理解がされず、人々の血肉となる機会が奪われていく。

文化の「淘汰」は今日でも起こっているが

これに対しては、日本語をローマ字化しなくとも、文化の「淘汰(とうた)」は今日でも起こっているのだから、ローマ字化を契機とする「淘汰」を論ずることには意味がない、との反論があろう。しかし、日本人がローマ字を介さずして日本語が読める現在においては、いったん「淘汰」された文化にも復権の可能性が残されている。なぜならば、その文化にアクセスしさえすれば読んで理解が可能なのだから。一方、日本人のほとんどが固有の日本語を読めなくなったならば、文化の痕跡を手に取り目にしたところで、読めない以上、復権の機会さえ与えられない。痕跡はただの「モノ」としか映らないだろう。

「淘汰」された日本語「零細」文化から復権の機会が奪われることは、価値の多様性を狭めることにつながるし、日本文化の厚みを損ねることにもなる。文化の創造者は、決して文化人だけではなく、無名の一般人でもあるのだ。そして、このことは、日本語を学んだり、日本に興味を持ったりしている外国人からも、幅と奥行きがある日本文化を味わう機会を奪うことを意味する。

以上の理由で、私は日本語のアルファベット(ローマ字)表記には反対である。ミャンマー文字のアルファベット化にも、同様のことが言えるのではないだろうか。

次稿では、ミャンマー語を完全にアルファベット化することについて、ミャンマー人による意見を探ってみたい。

2014年2月25日更新 (次回更新予定: 2014年3月25日)

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