名言は対立する

第2回 「知識は力なり」×「想像力は知識よりも重要」

 

ベーコン × アインシュタイン

昨今のAI(人工知能)の飛躍的な発展は、人類の知的能力への大きな挑戦であり、我々の価値観を大きく揺さぶる可能性があります。連載第2回のテーマは「知識」です。

今回取り上げる名言は以下の二つです。

●「知識は力なり」”Knowledge is power.”(フランシス・ベーコン)
●「想像力は知識よりも重要だ」”Imagination is more important than knowledge.”(アルバート・アインシュタイン)

イラスト:一秒
イラスト:一秒

私たちが日々の生活を送る上での知識の重要性については言うまでもないでしょう。知識は私たちの生活を豊かにするだけでなく、楽しみも与えてくれます。人間と動物を区別するものの一つが圧倒的な知識やその応用の蓄積であり、ある意味で人間の存在意義が知識と言っても過言ではありません。

それを反映して私たちの社会は、学校でも会社でも家庭でも「知っている人は、知らない人よりも優れている」という価値観が「常識中の常識」として完全に浸透しています。また教育の目的は何かと聞かれれば、「知識を得る」ことであると多くの人が答えることでしょう。

知的能力が高く、世論をリードする人のことに対して、「知識人」「有識者」「博学」という表現がよく用いられます。その意味で冒頭の哲学者ベーコンの言葉はあまりに説得力があります。

 

「〇〇って知ってますか?」

知識が重要であることの裏返しとして、世の問題には「正解」があり、人の意見は「正しい」ものと「間違っている」ものがあるという(本連載が問題を提起している)基準でものを考える人がほとんどです。クイズ番組には誰にでもわかりやすい「正解」がありますし、世の議論は「どちらが正しいか」を判断するためのものであるという考えが浸透し、したがって議論では「どちらが勝った(負けた)」とか「どちらが『論破』したか」が関心の的になります。

巧妙に議論をマイペースに持ち込む(いわゆる「口がうまい」)人が意識的、あるいは無意識に用いているテクニックの一つに「〇〇って知っていますか?」という問いかけがあります。少数しか知らないようなニッチな知識の有無を問うことで(したがって当然相手は「知りません」と答えることは想定済み)、議論を自分の「得意な土俵」に持ち込み、そこで「知っている vs. 知らない」の関係を作り出すことで議論を優位に進めようというものです。

そこで持ち出されている知識が本来、議論においては瑣末(さまつ)なものだとしても、知らない側が「それは枝葉の話だ」と反論しても、それは上記の価値観の下では単なる「負け犬の遠吠え」に聞こえてしまうことが多いのです。

これらの価値観は、いわば「過去の集大成」としての知識の内容が「確定していて正解がある」ことから来ているということができます。

 

知識量で勝負する人たちとAI

このような「知識偏重」の価値観に対して問題提起をしているのがAI技術の発達です。「確定している情報」の蓄積保有量で人間がAI(人口知能)に敵うわけがありません。単なる「博識」であることが要求されるならAI+ロボットで用が済んでしまうことになるし、「知識量で議論を圧倒する」ことの付加価値は下がる一方になっていくことが予想できます。

「知識量で勝負する」人たちの能力が次々とAIに置き換えられつつあります。中国では医師の国家試験(の一部)にAI+ロボットが「合格」したことがニュースになりました。医師や弁護士等、膨大な過去の症例や判例を活用することが求められる仕事の一部はAIが最も得意とする領域です。この他にも世界中の情報を迅速に入手することが求められる金融のトレーダーや膨大なボキャブラリーが必要とされる通訳等、従来であれば膨大な知識を有することが高いステータスにつながっていた職業の強みが(むしろそういう人たちは報酬が高いがゆえに)AIに置き換えられていきます。

人間がやるべき付加価値の高い仕事はもはや、コモディティ(誰でも同じように手に入る)となった膨大な知識を使っていかに創造性を発揮したり意思決定をしたりするか、といったことになっていくでしょう。先の議論の話でいえば、「知っているか知らないか」ではなく、「全員が同じ知識や情報を共有した上で、特定の場面でどちらの論が適切か」に議論の論点が移り、議論のレベルを1段階上げることにつながります。

そんな価値観の逆転が起きる時代に思い出すべきが、冒頭のアインシュタインの言葉です。現状のAIには「膨大な知識量」はあっても「創造性」や「想像性」はほとんどないからです。もちろん創造性や想像性の源に基本的な知識が必須であることはいうまでもありません(情報化社会においても工業製品が必須であったものの、それらは差別化が難しいコモディティに変わっていったのと同じ構図です)が、ある程度以上の知識については、人類が積み重ねた知的資産に誰もが同じようにアクセスできる時代が到来しつつあるのです。

 

「知識社会」の終焉

アインシュタインは他にも以下のような言葉を残しています。

「ある一定の年齢を過ぎたら、読書は心を創造的な探求から遠ざける。本をたくさん読みすぎて自分自身の脳をほとんど使っていない人は怠惰な思考習慣に陥る」(“Reading, after a certain age, diverts the mind too much from its creative pursuits. Any man who reads too much and uses his own brain too little falls into lazy habits of thinking.”)

ここでいう「ある一定の年齢」程度の知識をベースとして身につけたら、あとはむしろ知識を増やすよりもそこにある知識からどこまで新しいものを生み出せるかに重要性がシフトしていくというのが、AIが普及していく時代に必要な価値観ということができます。

そんな世の中のニーズも反映して、入試問題や企業の入社試験、あるいは教育や研修の方法も思考力や判断力といった「知識をどのように活用できるか」といった要素にシフトしつつありますが、そこにも「知識教の価値観」が大きくたちはだかります。それは「試験は〈客観的に〉採点できなければ公平でない」とか「〈全員を一斉に底上げする〉ことが必須である」といった知識型の教育と表裏一体の価値観から抜けるのが容易でないからです。

ピーター・ドラッカーやダニエル・ベルといった経営学者が「知識社会の到来」を唱えたのは20世紀の終わりでした。もちろんこれは、それまでの「工業社会」に対するパラダイムとして「物的資産よりも知的資産が価値を持つ」という意味で「知識」という言葉を用いたのであり(このこと自体が知的能力≒知識という価値観を物語っているのですが)、情報化を中心とする第三次産業革命を象徴する言葉でした。いま我々が直面するAI+BigData+IoTの3点セットを中心とする第四次産業革命では、この価値観に疑いを向ける必要性も示唆しています。

いよいよ近い将来に訪れるかも知れない「知識社会の終焉」を論じる時代に入って来たのかもしれません。

2018年3月1日更新 (次回更新予定: 2018年4月1日)

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