落語的了見

第4回 戦争

やりたくてうずうずしている

 ものごとの真理を探す場合、とりあえず逆側から見てみればよい。

 アメリカはレディファーストの国だが、放っておくと皆が女性を差別してしまうから、あえてレディファーストを唱えたのだ。いじめはいけないと教育者が言うのは、そのように教えないと、間違いなくいじめが起こってしまうからそう言っているにすぎない。

 「人の命は地球より重たい」とよく言うが、落語的了見からすれば「そんなはずはない、地球が沈んじまうよ」である。なぜ、地球より重たいと誰もが口をそろえるようになったのかというと、そうでも言わないと人間はいとも簡単に命を粗末にしてしまうからである。

 だいたい、人間の命が地球より重たいと誰もが本気で思っていたら、戦争なんか起こるはずがない。己(おのれ)の利益のためならば人間の命なんか屁(へ)のようだと思っている輩(やから)がいるから、戦争は起こる。

 もっと言えば、戦争をしたくてうずうずしている輩(やから)がいつの時代にも必ずいる。ゲームとしてこんなに楽しいものはないということを、人間は知っている。戦争が野蛮な行為であることは言わずもがな。だが非人間的行為かというとそうではないのだ。

粋か野暮か

 戦争の問題は、私が言わずともこれまでに多くの人々が語り合ってきた。だが、次のことは誰も論議していない。

 戦争は、はたして粋(いき)なのか野暮(やぼ)なのか。

 答えから言えば野暮である。粋と野暮の定義付けは難しい。感覚的なものだからである。あえて簡単に言えば、一生懸命さを見せるかどうか、さらにそこに照れがあるかないか。

 戦争と競技スポーツは似ているが、スポーツなんかは野暮の象徴である。選手の一生懸命な姿に人々は拍手を送る。さらに、やれ死んだお母さんのためにだとか、苦節何年とか、野暮をより野暮にする感動秘話がついてまわる。つまり大衆にとっては野暮のほうがわかりやすいのだ。

野暮が粋を駆逐するとき

 しかしそのスポーツにだって、粋なことをする奴がたまに出てくる。たとえば私が敬愛するプロ野球の落合博満(おちあいひろみつ)。選手時代、ホームランを打っても当然という顔でいた。三振をしてもバットをたたきつけるような野暮なまねはせず、何事もなかったようにベンチに下がっていった。

 監督になってからも喜怒哀楽を出さず、その姿をマスコミは「俺流」と表現したが、私からするとこれが粋なのである。落合が好きな人はその粋さがたまらない、となる。ただし、応援は野暮だからしない。ただ観るのだ。

 逆に落合を嫌う人は、落合が野暮の塊(かたまり)であるプロ野球にまったくそぐわない粋を持ち込むから、理解ができないのである。

 私が危惧(きぐ)するのは、この粋を理解できない人が増えてきたということだ。

 世の中から粋が消えたら、間違いなく戦争は起こると、私は思っている。

2012年9月25日更新

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