本当に殺してるんじゃないか?
いじめによって自殺する子どもがあとをたたない。落語的了見からしたら、人間の数が多いから死にたい人は勝手にどうぞ、なのだが、そうも言っていられない。
なぜ子どもが死を選ぶのか。それは身近に死がないからである。そして、身近に現実の死はないが、架空の死は山ほどある。ゲームに漫画、映画、ドラマ。そのすべてがあまりにもリアル。昔は、テレビドラマで人間がビルから落ちる場合、誰が見たって人形だということがわかった。ゲームにしても、ピストルで撃ったら人間らしきものがパタンと倒れるだけ。現代のそれらはまったく違う。本当に殺しているんじゃないかと疑うぐらいリアルだ。
スピルバーグが「プライベート・ライアン」という戦争映画を作ったとき、映画ファンは画期的な映画だと絶賛したが、私は趣味の悪い映画だと眉(まゆ)をひそめた。「プライベート・ライアン」の何が画期的かというと、従来の戦争映画は戦闘シーンを引きのカメラで撮影していたのが、この作品の場合はカメラを戦場の真ん中に入れ込んだのだ。それによって観客は自分が本当に戦場にいるような気になる。戦争の疑似体験だ。
しかし私は、その映画を画期的だとは思わなかった。この手法はすでに深作欣二(ふかさくきんじ)監督が「仁義なき戦い」で使っていたからだ。深作監督はヤクザの喧嘩(けんか)の中にカメラを入れて迫力を出したのだ。
人間の死を楽しんでこしらえてやがる
では「仁義なき戦い」的な撮影法によってリアルな戦争映画になった「プライベート・ライアン」を、なぜ私は悪趣味だと思ったのかというと、作り手が人間の死を楽しんでいるさまが伝わってきたからである。人間の首が爆弾で吹っ飛ぶシーンをどうやったらリアルにできるのか。そんなことばかり考えて映画をこしらえていやがる。そのくせ、われわれは戦争批判をしていると主張する。嘘(うそ)つけだ。
最初から戦争バラエティーですよ、とうたっているのならば何ら問題ない。「仁義なき戦い」は反ヤクザ映画じゃない。だからすばらしいのだ。「ゴッドファーザー」もマフィア批判の映画じゃなかった。ゾンビ映画の巨匠ジョージ・A・ロメロ監督の「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」はおもしろかったが、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」になると、そこに社会批判が入り、別に社会批判が入るのはかまわないが、それが言いたいための作品になってしまい、とたんに嘘くさいつまらないゾンビ映画になってしまった。
淀川長治(よどがわながはる)さんが「タイタニック」を観て、これは映画じゃないと怒ったらしいが、理由は同じだろう。船が沈んで人々が溺(おぼ)れ死ぬさまをリアルに描いて、そこへ付け足しのように男女の愛を入れたものの何が映画だ、と淀川先生は言いたかったのだろう。
映画は、観客にどれだけ観客自身の想像力を駆使させるかが勝負になる芸術だ。人が死ぬのをリアルに見せるのは芸術ではない。淀川先生は次のように言っていた。「昔の映画『タイタニック』はCGなんかないから、人が溺れ死ぬところは見せない。船が沈みだし、水が船内に入ってきても貴族は表情ひとつ変えずにダンスを踊っている。貴族たちの恐怖を想像しただけで震えてくる。これが映画というものだ」と。
教育委員会よ、それはNGワードでしょう
話が脱線したが、現代は映画一つとってもこんな具合。ゲームにいたっては、とにかく人を殺しまくる。死を知らないガキが空想の世界ではのべつ死を体験している。だから何かあったら死んじゃおうか、とこうなるのだ。選択肢の中に死が簡単に入り込んでくる。いじめなんぞ一生続くわけではない。死ぬくらいなら学校に行かなきゃいいのだが、そのことすら想像がつかない。いじめる側も想像力がない。人の痛みなんぞ考えたことすらないだろう。そこへ持ってきて教師までも想像力がとぼしい。
いじめはなくならない。いつの時代にだっていじめは存在していた。ただ、自殺の練習をさせるなんて陰湿ないじめはかつてなかった。想像力が欠落した頭に、受験で良い点をとるための勉強を詰め込む。そりゃいじめのスタイルも陰湿になる。まずは子どもに想像力がつくような教育をすべき。これだけでもいじめは減るはずだし、死ぬ子も減ると私は思う。
教師についても、教師そのものをこしらえる機関を作るべきだ。人間としてきちんと子どもを教育できる教師に育てあげる機関だ。大津市の教育委員会の連中の会見を見れば、いかにくだらない人間が教育者になったかがわかるだろう。カメラの前で平然とNGワードを口にしていた。自殺といじめの因果関係を調べる云々(うんぬん)。それは警察、裁判所が使う言葉。教育者ならば、因果関係なんか置いておき、「死んだ子どもの無念をなんとか晴らしてあげたい!」と叫ぶはずだ。その姿に子どもたちは感銘を覚え、教師という生き物を信じるのである。
「たいこもち」になれ
まあ、いくら言ったところでこの社会が変わるはずもない。子を持つ親は子どもがいじめられないように守るしか手だてはない。わが子かひどいいじめにあったら、学校なんぞに行かせなきゃよろしい。学校に行ったがために殺されたのでは悔やんでも悔やみきれない。
子どもたちにも教えおく。いじめられたら我慢したり、逆らったりするから相手はますますエスカレートするのだ。落語によく出てくるヨイショのプロ「たいこもち」みたいになれ。いくらいじめられてもヨイショし返す。いじめがいがないぞ。
「憎いね大将、自殺の練習でゲスか、粋(いき)なことをおっしゃる、イヨッ! やりやしょう、あァたのためならば、たとえ火の中、水の中。そのかわり給食のおかず、多めにいただきたいなあ、イヨッ、日本一!」
2012年10月10日更新
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