落語的了見

第10回 文明と文化

吹っ飛んじまいましょう

 今はスマートフォンで映画が観られる時代だそうだが、ぜひやめていただきたい。携帯の普及で世の中は一変したが、文明の発展が文化の崩壊につながるということを電話屋はわかっていない。携帯から発せられる電磁波が身体に悪い、などと当初はいわれていたのに、もう誰もいわなくなった。世間は「原発をなくせ」と大合唱であるが、「携帯をなくせ」とは誰もいわない。もし携帯電話の産業が潰(つぶ)れたら、その損害たるや大変なことになるから、もし本当に身体に悪くても誰もいわないのだ。

 原発も同じ。事故が起これば国の滅亡につながることはわかっていたが、未来を明るくする夢の技術だといわれ続けてきた。チェルノブイリをまのあたりにしても、対岸の火事だと思い込んできた。

 私は、原発はなくせるものならばなくすべきだとは思うが、人類は崩壊のリスクを承知で快適さを選んだのだから、事故が起こったのをみてから「ああ怖い、だからやめましょう」というのはあまりに幼稚な気がする。携帯が社会からなくなったらもはや社会は機能しないが、原発がなくなったら携帯どころの騒ぎではないということを覚悟の上で議論しなくてはいけない。

 落語的了見からすれば、なるようになれ、だ。原発を使い続けるのなら、このまま突き進んでとことん快適になって、最後は吹っ飛んじまいましょう。太く短くってやつだ。原発をなくすのなら、冬は火鉢、夏は団扇(うちわ)。風鈴を聞きながら「涼しいね」ってな生活を楽しむ。

 落語的了見とは、いかに人生を馬鹿馬鹿しく生きるかである。それを貫く見返りは、楽に生きられること。自殺という発想から逃れられる。ストレスが軽減される。落語的了見は、好き嫌いを何より重視して、感覚で本物か偽物(にせもの)かを見極める。世の中に対して文句はいわないが、愚痴(ぐち)は大いにいう。

 当然、政治的思想はない。面白いかどうかで判断する。私はどちらかというと日本維新の会より日本未来の党の方が好きなのだが、それは嘉田由紀子(かだゆきこ)さんという実にクリーンな人が表にいながら、ひっくり返すと小沢一郎(おざわいちろう)さんが出てくるところが面白いからなのだ。

スマホじゃ伝わらない

 話が脱線した。スマホで映画だ。なぜスマホで映画はいけないのか。

 映画とは、ビッグスクリーンで観るために作られている芸術なのだ。

 野球だって、本当に楽しみたければ球場に足を運ぶ。テレビ観戦はあくまでも試合を確認しているだけ。だから野球に興味のない人がテレビで見たって面白くないが、球場に行けばがぜん面白くなる。クラシックのオーケストラ演奏も、テレビだとまったく面白くない。あれはクラシックファンが確認しているだけ。実際の演奏会に行けば、みなが感動するだろう。落語も同じ。絵画だって、美術館に行って初めてその魅力を理解できる。

 同じように、映画はビッグスクリーンで不特定多数の人と観るから面白いのだ。単純に、画面が大きいと迫力がある。音も身体に響き渡る。固唾(かたず)を飲んでみなが見ている緊張感、そしてそこに生まれる空気感。

 百歩譲ってビデオだ。過去の名画を気軽にわが家で観られるということは、映画ファンにとっては最上の幸せであるから、レンタルビデオやDVDの普及は画期的なことである。そのかわり街から名画座が消えてしまったが。

 でも、本当はビデオで映画を観るというのもよろしくない。ビデオを見る部屋は、日常の空間。電話も鳴れば、家族の話し声も聞こえてくる。監督が作り上げようと意図した空間が壊れてしまう。

 川島雄三(かわしまゆうぞう)監督の最高傑作「洲崎(すさき)パラダイス 赤信号」をビデオで観たとき、世間がいうほど面白いとは思えなかった。ただただ、かったるい流れで、だらしない男女のどうでもいい恋物語に思えた。それがあるとき映画館で観たら、面白いのなんの。かったるい空間こそが命で、二人の男女の生きざまが真に迫り、気がついたら涙が流れていた。映画というものはビデオで判断してはいけないのだ、と私は肝(きも)に銘(めい)じた。

 「ジュラシックパーク」をスマホで観たらどうなる? ビデオでも駄目。初めて映画館で観たあの恐竜のすごさ。あの感動は絶対にスマホじゃ伝わらない。昔のMGMのミュージカルの素晴らしさ、チャップリンの面白さ、小津安二郎(おづやすじろう)の楽しさもスマホじゃ伝わらない。伝わらないどころか、壊れてしまう。

この原稿なんぞは

 今は、小説までスマホで読めるらしい。小説の楽しさは、購入して真新しい本を開く瞬間、さらにそれが徐々に手垢(てあか)が付いて汚れてくるところにあるのだ。

 私は昔、すべての原稿を万年筆で書いていた。自分が文豪になったように錯覚して楽しかった。値段の張った、書きごこちのなめらかな万年筆で原稿を書く快感。そして下手ながらも味わいのある手書きの文字を眺める楽しさ。

 それがいつしかワープロになり、パソコンで書くのが当たり前になった。この原稿なんぞは、携帯で書いている。電車の移動中なんかで書けてしまうから便利なのだ。

 ただ、確実に、私の中から風情(ふぜい)が消えている。

2012年12月25日更新

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