私とミャンマーとの出会いは、ほんの些末(さまつ)な出来事を契機とした。それは2006年のことと記憶する。私は当時、18年間勤めた酒とジュースの会社を辞め、法科大学院に入学して法律の勉強に初めて取り組む、司法試験受験生であった。
ある土曜日の午前中のことである。高田馬場にあるミャンマー料理店で食事をするミャンマー人留学生数人がテレビに映し出されていた。マッチ箱を思わせるその小さな店構えの一角に彼らは陣取り、二人並んだらはみ出してしまいそうな狭いテーブルを囲んで談笑していた。インタビュアーの問いかけは覚えていない。が、答える彼らの表情は明るいものであったとの印象が残っている。
しかし、私は、日本に暮らす彼らの苦労が、いかばかりかを想像した。慣れない日本食は食べられるのだろうか、風邪を引いていないだろうか、そして何よりも、日本人と仲良く付き合っているだろうか。
このような余計な心配をしたことには若干の事情がある。私はサラリーマン時代、上海(シャンハイ)の現地法人に2003年から2年間弱駐在したことがあった。同じ会社から派遣されていた日本人は比較的多かったし、当時の上海にもあふれるばかりの数の日本人が暮らしていた。けれども、中国語が飛び交い、自動車のクラクションがひっきりなしに鳴り響く街を自宅へと帰る途上や、喧噪(けんそう)の中華料理屋で一人ビールグラスを傾けている時に、その騒がしさとは対照的に、いわれもない寂寥感(せきりょうかん)を覚えた。上海の町から自分だけが孤立しているかのような錯覚に陥った。
赴任直後に、同じマンションのイタリア人と知り合い、言葉を交わしたことがある。彼は私よりも半年前に上海に赴任していた。彼は中国文化に溶け込めずノイローゼに罹(かか)っていた。「僕はもう駄目だ、ここにはいられない」と青白くしゃべる彼に、そのうち慣れるさ、と声をかけたものの、自分がこれから強く過ごせるかどうか、まったく自信はなかった。
私はテレビのミャンマー人留学生たちを見ながら、弁護士になったら外国人の力になるような仕事をしようと改めて思いを強くした。会社を辞めて弁護士になろうと考えていた時に、困っている人たち、特に外国人の力になりたいとの決心は固まっていた。日本で誰も助けてくれず、誰に相談をしたらよいかさえも見当がつかない、そのような外国人に少しでも寄り添ってあげられないだろうか。その背景には、私のサラリーマン時代の上海経験があるのである。
それと同時に、ミャンマーという国もひどく気になった。ミャンマーについてのごく初歩的な知識、たとえばその大まかなロケーションや、旧称がビルマであること、当時鎖国に近い状況だったこと、独立に大きな功績を果たしたアウンサン将軍の娘がアウンサンスーチーであり、彼女は不遇の真っただ中にいること、については報道等を通じて知っていた。また、大学受験の世界史の勉強により、同国はイギリスや日本の植民地であったという知識も得ていた(世界史を勉強していた時代には、ビルマは社会主義であった)。一体ミャンマーはこれからどこに向かうのだろうか。
私は、司法試験に合格したら、ぜひミャンマー語を習ってみようと心に決めた。ミャンマーとミャンマー人とをもっと知りたくなったのである。
2013年9月12日更新 (次回更新予定: 2013年10月25日)
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