落語的了見

第13回 暴力 前編

殺されたら殺さないと気が済まない

 暴力は、会話の延長上にある「結果」だ。戦争がまさにそうだ。良い悪いではなく、事実がそうなのである。どんなに「暴力が悪い」と叫んでも人間社会から暴力はなくならない。

 死刑なんぞ、法律による最大の暴力だ。法律では人を殺してはならないことになっている。なのに殺人を犯したら、場合によっては死刑。つまり「殺してはいけないのに、殺したら殺される」という矛盾。

 先進国の大半が死刑を廃止しているのは、いくら罪人でも殺すのは野蛮だし、おかしいだろうと考えられているからだ。だがあらゆる面で世界のトップを行く日本が、死刑廃止だけはまったく前に進まない。それは日本人の気質、そして伝統に起因している。

 日本人は敵討(かたきう)ちを是(ぜ)としてきた歴史がある。西洋式の裁判は合わない。「遠山(とおやま)の金(きん)さん」が大好きなのだ。理屈はいらない。「裁判官が犯人の犯行現場を見たのだから死刑!」こんなのは欧米人が見てもまったく通じない。犯人が「そりゃ人違いでしょ」と言えば終わりだからだ。

 つまり、日本人は「論理」より「感情」を重んずるのだ。だから、殺されたら殺さないと気が済まないのである。

「巨人の星」は虐待ではないのか?

 女子柔道の監督が暴力で選手から告発された件で、あるコメンテイターがこんなことを言っていた。「日本人は欠点を補う指導法で、欧米人は長所を伸ばす指導法。欧米人は怒らず選手のよいところを見つけて育てる。だから暴力はありえない。日本人も欧米の指導法を取り入れるべきだ」云々(うんぬん)。

 言っていることは正しい。映画監督にしても、日本の監督は怒鳴りまくる怖いイメージがあるが、欧米の監督は怒らず、まるでたいこ持ちみたいだ、なんという話を聞いたことがある。「デニーロさん、今の演技、すばらしかった、涙が出ましたよ、さすがにあなたは名優ですな。これ以上の演技を見せられたら卒倒しちゃいますよ。卒倒したいな。卒倒させてください。はい、もう1テイク!」ってなもんだ。

 ただ柔道にしても映画にしても、そのやり方は日本人にはあまり合わない。暴言を吐き、ときには張り倒し、それでもがんばって成功した、という話が好きなのだ。そんな話が美談として残っているくらいだ。

 漫画「巨人の星」の星飛雄馬(ほしひゅうま)なんぞ、幼いころから父親に「大リーグボール養成ギプス」をつけられていたんだぞ。でも飛雄馬はそれを虐待で訴えたか? 飛雄馬は父親を恨みはせず感謝した。視聴者もこの親子の愛に涙した。

 日本には元来、「愛の鞭(むち)」という言葉だってある。私は暴力を肯定しないが、言いたいことは「日本人はそれが好きだった」ということだ。

 まあ、私の正直な気持ちは暴力反対。私も学生時代に殴られた。恨みしか残っていない。口で言ってもわからない奴にかぶりを縦に振らせないと解決しない場合は、張り倒して従わせるしかない。暴力とはそういうものだろう。だが、殴らなきゃなんとかならないなんて、能無しのやり方だ。

 これについては次回に。

2013年2月10日更新

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