前回は、落語を楽しむ観客の「やわらかな知性」にまつわる各論に触れた。とくに、「スキーマ」という概念に基づいて落語のおかしさについて論じたが、今回は、同じく認知心理学の基本的な概念である「スクリプト」と「フレーム」の観点から、人が落語を楽しむ仕組みをみていこう。
江戸っ子フレーム
落語を聴き始めたときには、そのおもしろさがあまりわからなかったのに、何度か聴いていくうちに、どんどん楽しめるようになったというエピソードをよく聞く。誰かに誘われて落語を聴き始めるようになった人の感想に多いようだ。
この現象は、単に落語に慣れてきたとか、繰り返し聴く中で噺(はなし)を覚えたということだけで起こっているのではない。じつは豊かな人の知性の働き方を反映した現象なのである。
同じ噺でも聴いていくうちに、おもしろさがわかるようになってくるのは、フレームとスクリプトが関係している。
フレームとは、知識を表現することができるひとまとまりの枠組みのことで、その一つひとつに具体例としての特徴が入る。たとえば、「江戸っ子フレーム」というと、性格(行動傾向)という枠に、喧嘩(けんか)っ早い、物見高い、人情に厚いなどの具体例が入る。また、ひととなりという枠には、こざっぱり、それほど背は高くない、粋(いき)といった具体例が入る。
つまり、 前回取り上げたスキーマどうしが関係し合って、江戸っ子という一つのフレームができあがる。だから、フレームはスキーマの親分みたいなものだといえるだろう。
そもそもフレームというのは、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)人工知能研究所創設者の一人で、人工知能の父と呼ばれたマービン・ミンスキーという天才肌の研究者が、人の知識をコンピュータを使って表現しようとしたときに作られたアイデアだ。Googleでなにかを検索しようとしたときに、予測機能で候補として出てくる単語が、一つひとつのフレームに当てはまる具体例だと理解すればよいだろう。
頭のリソースを何に使うのか
さて、落語を聴くときの話に戻ろう。落語では、同じ登場人物が別の噺にも、さらにまた別の噺にも出てくる。こういった種々の噺のなかに頻繁に登場する人物たちは、出てくるたびに性格を事細かに説明されることはない。その代わりに、その名前にふさわしい振る舞いをすることが期待されていて、ほとんどの噺では実際に期待通りに振る舞う。
町内の若い衆が熊(くま)さん、八(はっ)つぁんで、横町には知ったかぶりの隠居(いんきょ)がいる。勘当されそうな若旦那(わかだんな)に馬鹿の与太郎(よたろう)、吝嗇(けち)なのが赤螺屋(あかにしや)といった具合だ。つまり、名前がその人物らしさを表しているのであり、この意味で、どの人物もフレームを背負って登場してくるともいえるだろう。
はじめて噺を聴く人は、このようなフレームを持ち合わせていない。だから、省略された部分を推測しながら内容を理解していかなければならない。そのため、埋まらない部分が残ったり理解するのに必死だったりで、噺を十分に楽しむことができなくなるのだ。
ところが、噺を何度も聴くようになると、落語世界の人物や状況についてのフレームを使って補うことができるようになる。だから、理解に使っていた頭のリソースを、楽しむことだけに向けることができる。そしてこの余裕が、聞き手が自分に起きた過去の出来事や体験を、登場人物の心の動きに重ね合わせて楽しむことを可能にするのだ。
落語にハマる人のスクリプト
さて、今回取り上げるもう一つの観点スクリプトについてである。スクリプトとは、物事の手続きや出来事の流れについての知識のまとまり、つまり、スキーマが順番に連結したものだと考えればいい。
たとえば、床屋へ行って、髭(ひげ)を当たってもらう場合を考えてみよう。江戸っ子は、まず床屋の主人に声をかけ、椅子に腰かけると、主人はしばらく江戸っ子のあごを湿して、髭をそり始める。そり終えると江戸っ子は代金を置いて帰る。こういった一連の流れがあたりまえのこととしてある。
このスクリプトがあるので、ただ椅子に腰かけて「やってくれ」と言えば、それ以上説明しなくても事は進むのである。
だが、噺の中では、このスクリプトは別の意味で縦横無尽に活用されている。連載第7回で論じたように、スキーマからの逸脱や不調和がおかしさを引き起こしたように、一連の流れであるスクリプトからの逸脱もまたおかしさを生む。
この例でいえば、当然思い浮かぶ噺が『無精床(ぶしょうどこ)』の大将の振る舞いである。ことごとくスクリプトから逸れる大将がおかしさを生んでいる。
認知科学の観点からは、噺がスクリプトを自在に創る自由さと、その豊富さに感銘を受けずにはいられない。噺の中で展開するのは、すでに観客が持っているスクリプトだけではないからだ。
たとえば、一度教わったことを別のところで真似しようとして失敗する、『子ほめ』『道具屋』『青菜(あおな)』などは、やり方を教わるところでスクリプトが創られ、それを真似するところでスクリプトから逸脱するという、極めて効率的で秀逸な構造になっている。『つる』や『鈴ヶ森(すずがもり)』で、教わった一連の説明のスクリプトが上手く再現できずに失敗するのもこれに似ている。
また、『金明竹(きんめいちく)』(の前半)や『一目上がり(ひとめあがり)』では、その場面で期待されるスクリプトと実際の言動とが順にずれていき、逸脱が生まれる。
このように、落語では多くの噺において、観客に新たなスクリプトが提示され、それを参照の基準としてズレが起こっていく。これ自体もずいぶん創造的なことだが、観客のほうでも、それを危険で避けるべきものとしてではなく、おかしく笑い飛ばすべきものとして楽しめるということは、なによりもここに人の知性が発揮されているのだ。
このような知性は、なにもせずにいきなり現れるものではない。落語を何度も聴いて、登場人物に共感して、泣き笑いしながら、知らず知らずのうちに江戸っ子フレームを覚え、スクリプトから展開を期待するすべを身につけることで、初めてできることなのである。
今回は、フレームとスクリプトという観点から、人が落語を楽しむためにはそのためのすべを身につけることが大事だと論じた。
次回は、いわゆる前座噺(ぜんざばなし)の一つを取り上げ、スキーマやフレーム、スクリプトの観点から噺の構造を実際に見ていくことにしよう。
2014年12月20日更新 (次回更新予定: 2015年1月20日)
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