やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第7回 『蒟蒻問答』をスキーマで読み解く

前回までは、落語を観る観客の「まばたき同期」に注目することで、噺家(はなしか)のうまさを客観的に検討していけることを論じてきた。

今回からは、落語を楽しむやわらかな知性にまつわる各論に触れていく。まずは、認知心理学の基本的な概念である「スキーマ」をキーワードに、落語の世界を眺めてみよう。

知識のまとまりを共有する

人はなぜ笑うのかを学術的に説明した理論は、1970年以降2002年まででも380種を越える言及があるそうだ。理論を考えるほうも考えるほうだが、それを数えるほうも数えるほうで随分と物好きだ。

そのほとんどの理論において、笑いが起こるための条件として共通して挙げられているのが、
(1)身に危険が及ぶことのない状況で、
(2)何か「おかしい」物事に気づく、
ということである。

では、「おかしさ」はどこからやってくるのか?

この問いは、なぜ笑うのかを追究するよりはずいぶん易しい。なぜなら、おかしさについては、人の頭のはたらきを解明してきた認知科学の立場から視てみると、案外すっきり整理できるからだ。

人はスキーマと呼ばれる知識のまとまりを持っている。これがあるから、落語の話の流れを理解できる。

たとえば、観客は湯屋(銭湯)と聞けば、お湯が張ってある浴槽やその脇には洗い場があることをぱっと思い浮かべることができる。イメージをもっと広げていけば、壁には富士山が書いてあり、男湯と女湯が仕切られているのもわかる。このような知識のまとまりが湯屋スキーマである。

湯屋スキーマがあることで、何がおかしいのかがわかる。たとえば、『粗忽長屋(そこつながや)』のマクラで、マメな粗忽が湯屋へ行こうと、おかみさんに声をかけるが、当の手拭いがなかなか出てこず、「バケツ」「雑巾(ぞうきん)」「鉄瓶(てつびん)」などことごとく別のことを言ってしまう。これが「おかしい」のは、どれも湯屋スキーマに照らしてうまくあてはまらないからなのである。

『湯屋番(ゆやばん)』で若旦那が妄想を膨らませて番台から落ちたことがわかるのも、観客が湯屋スキーマを持っているからにほかならない。

スキーマは理解を助ける。しかし、スキーマは経験を通して初めて身に着くものだ。だから、海外で生活する人のように湯屋スキーマをまったく持たない者にとっては、きっと何がおかしいのかがわからない。より正確に言えば、そもそも何がまともなのかわからないので、そのおかしさも理解できないのだ。つまり、人が物事についてのスキーマを持ち、何がまともな状態なのかをちゃんと理解しているからこそ、そこからのズレが際立つのである。

『元犬』の二元結合

落語では、このようなスキーマによって単純なズレを生み出すだけではない。その応用例はいくらでも見つかる。

たとえば、『元犬(もといぬ)』で人間になった犬のシロの振る舞いはおかしい。それは、私たちがあらかじめ犬についてのスキーマを持っており、人間になってもシロが犬スキーマに照らして「適切な」行動をしているからである。通常交わることのない二つの事柄(ここでは犬と人)が一つの振る舞いとして実現されているのだ。

アーサー・ケストラー(Arthur Koestler)は、二つの文脈が結びつくという意味で二元結合(bi-sociation)と呼んだ。

このようなおかしさも、シロの振る舞いが人スキーマから逸脱していると考えれば、スキーマからの逸脱の特殊例として理解できる。あるいは逆に、人の振る舞いが犬スキーマからどれだけ逸脱しているのかに注目すれば、もっと滑稽(こっけい)かもしれない。

この場合ももちろん、先に述べたように身に危険が及ばないという条件は忘れてはならない。これは、人間になった経緯を知っている観客は楽しむことができるが、口入屋(くちいれや)の上総屋(かずさや)や物好きの旦那は、ただおかしくて笑うというよりは、シロの行動に困惑したり、叱ったりすることになることからもわかるだろう。

スキーマの逸脱や対比を笑える知性

繰り返しになるが、すでに持っている知識のまとまりであるスキーマは、物事を解釈したり、出来事を予測するために使われている。しかし、それは皆が同じスキーマを持っているということを意味してはいない。

たとえば、同じリンゴでも、八百屋が見るときとピカソが見たときには違って見えるはずだ。持っている知識のまとまりが違うからだ。ニュートンだったらもっと別のものに見えているだろう。

このことがよくわかるのが、『蒟蒻問答(こんにゃくもんどう)』である。この噺は、蒟蒻屋の六兵衛(ろくべえ)と禅僧の沙弥托善(しゃみたくぜん)が勘違いをしつづけ、一つの一つの振る舞いをまったく別の意味で解釈してしまうという構図になっている。

この噺は、スキーマが大きく異なる二名を劇的に出会わせ、多様に解釈しうる動作だけでやりとりをさせることで成立している。

「三尊(さんぞん)の弥陀(みだ)は目の下にあり」と「あっかんべー」というそれぞれの解釈が最後まで成り立つのは、互いの不理解のためではない。解釈の違いに気づく余地がないほど、それぞれのスキーマに照らしてちゃんと解釈され続けているからだ。

ほとんどの観客は、蒟蒻屋スキーマも禅僧スキーマもそれぞれ少ししか持ち合わせてはいないだろう。それでも、登場人物の言葉や振る舞いからスキーマを紡ぎ合わせ、物語の世界を構築し、人物の心情を推し測ることができるのは想像力のなせる技だ。

スキーマからの逸脱を相対的なものとして描き出す『蒟蒻問答』の構図は、私たちが生きている世界もまた、一人ひとりが勝手に抱くスキーマとそれに基づく解釈で成り立っていることを暗に示す。

だが、スキーマを相対化し、日常の「まともな」世界を脅かしかねないこの気づきさえ、落語なら「おかしな」ことだと笑い飛ばすができる。

『粗忽長屋』の例に見られるスキーマからの逸脱や『蒟蒻問答』の例に見られるスキーマの対比を楽しむことができる背景には、やはり人のやわらかな知性がある。

今回は、スキーマをキーワードに、落語のおかしさについて論じた。
次回は、同じく認知心理学の基本的な概念である「スクリプト」と「フレーム」の観点からこの論をさらに展開していく。

2014年11月20日更新

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