やわらかな知性~認知科学から視た落語~

第6回 噺家のうまさは客観的に読み解けるのか?

前回は、まばたきという客観的で定量的な指標に注目した観察によって、現象がより細やかに描き出されると論じた。しかし、このような現象がどのような仕組みで実現されているのかについては、実はまだ何も述べていない。

今回は、そのメカニズムに迫っていこう。

配分と解放のタイミング

噺家(はなしか)のうまさを客観的に論じることは難しい。噺家自身はもとより、評論家さえもそんなことはできないと端から思い込んでいる。落語愛好家の方は、そんなことは野暮(やぼ)だとお考えになるかもしれない。噺家のうまさなどというものは、一人ひとりが感じればいいからだ。

だが、たとえ見込みが薄くても野暮の極みであってもやらなくてはならない。落語という演芸の場で、噺家と観客の相互関係を成り立たせている「やわらかな知性」を解明するのが、認知科学の立場から落語と向き合う私の使命なのだ。

さて、ひとくちに噺家のうまさと言っても、さまざまな側面が考えられる。ここではその中でも中核的なことを扱おう。

どんな落語であっても、客に聴いてもらわなければ成立しない。だから、噺一つで観客の思考の流れを導き楽しませるということは、噺家のうまさの基準として外せないということには異論はないだろう。

とすれば、噺家のうまさは、暗黙のうちに観客の注意をぐっと惹(ひ)きつけたり、あえて観客が自然とダレる場を作ったりする、そういうところに現れるはずだ。

前回の連載第5回で述べたように、落語会での観察によって、観客どうしのまばたき反応は同期することがわかってきた。これは時々刻々(じじこっこく)と展開していく噺の内容に対応していて、客がよく観ようとする(注意配分の)タイミングで少なくなり、意図せず気を抜いた(注意解放の)タイミングで多くなる。

ならば、熟達した噺家の口演はただ一通りであるにもかかわらず、多くの観客に注意の配分や解放をガイドし、観客のまばたき反応をよく似たタイミングで生じさせるはずだ。

仮説を検証する

これを確かめるため、噺家や演目についての知識がほとんどない初心者を対象に、ある実験を試みた。同じ噺を演じる熟達者と初級者の口演ビデオを視聴してもらい、まばたき反応を測定するというものだ。

今回は、熟達者として柳家三三(やなぎや・さんざ)氏が演じるものを、初級者として落語研究会員の大学生が演じるものを用意した。噺は両者とも、古典落語『青菜(あおな)』である。

その結果、やはり熟達者の口演ビデオを鑑賞したグループでは、初級者の口演ビデオを鑑賞したグループよりも頻繁に、かつ、より強く同期がみられた(*1)。

この結果から観客どうしのまばたき同期が演者のうまさによると考えるためには、他の解釈が排除されなければならない。

第一に、観客があらかじめ持っている演者や噺についての知識については、初心者を対象に実験を行ったので、これは必ずしも必要ではないことがわかる。

第二に、周囲の観客の影響も考えられる。実験に使ったビデオには、周囲の観客の笑い声は含まれていたが、その姿は映っていなかった。笑い声がない場面でも同期したため、笑い声や他の観客の姿が、同期を引き起こす主たる影響源ではないこともわかった。

第三に、演者のまばたきに観客がつられることも予想されたが、観客のまばたきは演者のまばたきのタイミングとは独立して同期しており、この可能性も排除された。

他の解釈が排除された上での結論として、同じ『青菜』を演じていたので、まばたき同期は、噺の筋(すじ)やくすぐりといった構造自体というよりも、演じ方に依存していることがわかった。

やはり、演者の演じているときの表現がまばたきを同期させていたのだ。

熟達者の口演は、暗黙のうちに観客の注意配分と注意解放をガイドする。それに対して、初級者の口演は、観客はいったいどこに注意を向ければよいのかはっきりせず、観客によってばらつきが生まれたのだと思われる。どちらの場合にも、観客は自分の振る舞いを意識していない。これらは意識しないレベルで起こっているのだ。

この研究では、客観的に論じるための第一歩として明らかに熟達の程度に差がある演者で比較をしたが、この視点は、一人の噺家がうまくなっていく過程を追いかけていくときにも同様に有効であることは言うまでもない。

客観的に捉えるための視点

ここに示した結果は、まばたきの同期をみれば演者のうまさがわかることを表している。この見方を可能にしたのは、ありとあらゆる形が存在しうる無限の落語の表現パターンの細部を、それを見た観客の注意配分・解放をガイドする作用へとくりこむことで、まばたきの生起タイミングという一次元の世界に落とし込むという新しい視点だ。これまで誰も思いつかなかった発想の転換である。

熟達した噺家がダイナミックに創出し続ける表現は、確かに観客に作用して思考の流れを導いていく。とすれば、これまで芸談や評論において“間(ま)”や“呼吸”という表現で論じられてきたのは、つまるところ噺家と観客とのあいだの微妙な関係性のことではないか。

この関係性は絶えず揺れ動いており、ことばをもって巧く説明するのはきわめて困難だ。だが、無意識的な行動として表れてくる観客のまばたき反応に着目すれば、両者の関係性をその一端ではあっても客観的に知ることができる。この延長線上に、“間”や“呼吸”と呼ばれる現象の解明があると私は信じている。

今回は、観客どうしのまばたきの同期に注目することで噺家のうまさを客観的に検討していけることを見てきた。そして、これまでの6回の連載を通して、落語の認知科学的研究の概略図を描くことができた。

次回からは、落語を楽しむやわらかな知性にまつわる各論に触れていく。

参考文献
(*1)野村亮太・岡田猛(2014)話芸鑑賞時の自発的まばたきの同期 認知科学 21(2)、226-244.

2014年10月20日更新 (次回更新予定: 2014年11月20日)

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