舞台
居酒屋「ムーン・アイランド」は、東京の下町、もんじゃ焼で有名な月島(つきしま)にある。すぐ近くに帝都大学がある。店内には歴代の宇宙飛行士の写真や、ノーベル物理学賞受賞者などの写真やサインが並んでいる。どういうコネクションがあるのかわからないが、実際にNASAから宇宙飛行士がやってきたりするサイエンス居酒屋である。
登場人物
糸川真凛(いとかわ・まりん)
帝都大学理工学部3年生。宇宙物理学を学ぶ。ひょんなことから、月島にある居酒屋「ムーン・アイランド」でアルバイトをすることに。美人で背が高く、モデルのような外見だが、超理系の負けず嫌いな性格と、科学に命を懸けているため、恋人はいない。
朝永佐織(ともなが・さおり)
「ムーン・アイランド」の女将。上品で和服の似合う美人。理科好きの男性が好きで、科学居酒屋「ムーン・アイランド」を始める。性格はしとやか。しかし、話が宇宙や深海など科学的な冒険のことになると、人が変わったように熱が入る。
国友一雄(くにとも・かずお)
「ムーン・アイランド」の常連客。大会社の役員待遇の研究者。20年前に「ノーベル物理学賞か」と騒がれたことも。頑固で無口だが、ほかの客が間違った科学の話をすると、「国友です」ともっさり名乗って、間違いを正す。
川端誠司(かわばた・せいじ)
帝都大学法学部政治学科3年生。真凛と付き合いたくて天文部に入る。真凛と同じ歳。
だが、理系の知識はゼロ。金持ちの息子で勉強にも興味はないが、なんとか真凛に振り向いてもらうために、科学知識を得ようと「ムーン・アイランド」に通う。
サングラスの男
夕焼け空がゆっくり、ゆっくりと暮れていく。
(それにしても、違うわよ……)
ママつながりで、科学オタクが集まるのは仕方がない。学者や研究者、科学系のジャーナリスト、天文マニア、等々。が、もう一つ、この店には異質な客がやってくる。
「ごめんよ」
あきらかに、そっち系が、入店してきた。
店内は一瞬、静まり返る。
サバのような青光りするスーツに、バラ模様のネクタイ。頬骨が出て、頭は坊主に近い刈り上げ。おまけにガッシリした体格で、声が野太い。
「あらやだ、もう、言ったでしょ? お店の中は暗いんだから、サングラス外さないと、危ないわよ」
男はサングラスを外した。
外見に似合わぬつぶらな瞳に、思わず男の顔を凝視する真凛。
「なんだぁ、伸さんかぁ」
「びっくりしたよー、変な客かと思っちゃったよ」
「今日の背広はまた、見事に光ってるねぇ」
常連たちは口々に、このヤクザ風の男に声をかけた。
「伸さん、真凛ちゃんは初めて?」
「そうですね」
「真凛ちゃん、こちら、藤堂伸一(とうどうしんいち)さん。昔からのお客様」
「糸川真凛です。よろしくお願いします」
一度止まり木に腰を下ろしていた藤堂伸一は、わざわざ立ち上がって、
「藤堂伸一です。どうぞお見知りおきを」
と、礼儀正しい。
その後も、口数は少ないが、冗談には笑うし、他の客とも普通に接し、飲み方も品がいい。青いサバ背広やバラネクタイ、迫力満点の容貌(ようぼう)を除けば、実に良い客なのだ。
そのうちに、真凛にも一杯おごらせてくれ、という話になった。
「うれしいです。でも、きょうは帰ってからレポートの続きを書かなきゃいけないので、ウーロン茶でいいですか」
「ええ、もちろん結構ですよ」
藤堂伸一は、ホテル業を営んでいるらしい。人は見かけによらないものだ、と思いながら、真凛はこの礼儀正しい中年にすっかりなじんだ。
「いらっしゃい」
ドワワワワーという、例の轟音と共に店の扉が開いた。
「また、来ちゃいました」
真凛はカウンター越しで、来店した川端誠司(かわばたせいじ)に気づいた。
「あんた、また来たの!?」
露骨にイヤな顔をする真凛だが、誠司はお構いなしである。
「へへへ。ま、そう言わずに。ね、佐織ママ」
佐織ママは、騒ぎもしないしお金もきちんと払うこの学生を、嫌いではなかった。
「ええ、どうぞ。このお店は、人に迷惑をかけなければ、誰でも歓迎よ」
「ぼっちゃん、お久しぶりです」
それまで誠司に背中を向けていた藤堂伸一が振り返った。
誠司は、「えっ」と絶句したまま。
「さあさあ、いいから座りなさい。ネ。伸ちゃんの隣なら、カウンター越しに、真凛ちゃんとお話もできるわよ」
佐織ママが止まり木の椅子をすすめたが、
「あ、いや、その、」
と言って座ろうとしない。真凛が不思議に思い、
「藤堂さん、川端のこと、知ってるの?」
と尋ねると、「ええ、まぁ」と、藤堂はいわくありげに答えた。
「ぼく、用事思い出しました」
真凛は面白くなった。
「ちょっと、川端誠司くん。一杯付き合いなさいよ」
初めての真凛からの誘いだが、誠司は帰ろうとする。
「あ~あ。いっぺんくらい、デートしてもいいかなって、思ってたのに」
「え、本当?」
男は単純で可愛いい、と佐織ママは言っていたが、こういうことか。いや、単純で、バカなんじゃない? まあ、どっちでもいい、このヤクザっぽいオジサマを使って、川端誠司をからかってやろう……。
誠司は藤堂伸一の隣に、おそるおそる座った。
(こういう外見の人に、恐怖を覚えるわけね。頭空っぽの金持ちボンボンの弱点、見つけたり!)
真凛は、わざと二人へと話題を振って面白がった。
「藤堂さんの趣味って、何なんですか?」
「わしは、ちょっとだけ、釣りをします」
「まぁ。そうそう、川端君も、釣りをするのよね」
「ぼくは、釣りはしません」
「あらー、この前学校に乗りつけた格好いい車に、釣りざおのってたじゃない?」
「あれは、オヤジのだよ。ぼくはオヤジの運転手代わりで、海に行ったりするだけ」
「あらー、じゃあ、いい場所知ってるのね。今度藤堂さんを、お連れしたら?」
ひえッ、と、誠司が椅子からひっくり返りそうになった。
しかし。どうも、変だ。一見してヤクザっぽいが、話してみれば普通以上に紳士な藤堂に、誠司がここまで腰が引けているのはなぜなのか。楽天主義と厚かましさが服を着て歩いているような誠司にしては、反応がおかしい。
と、ドワワワワーという、新たな来客を告げるロケット発射音がした。
「いらっしゃーい」
「じゃまするよ」
よれよれのトレンチコートに、もじゃもじゃの頭。手にはタバコを持ち、もう一方の手で頭をポリポリかいている。
「あ、石井のダンナ」
「おう、藤堂。元気か」
「ええ、おかげさまで」
(ハデハデのサバ背広の次は、刑事コロンボ? きょうはおっさんのコスプレ大会なの!?)
刑事風の男は、まさに刑事だった。それも、警視庁の敏腕警部だという。
「久しぶりねぇ、警部どの。もう、警視になってもいいんじゃない?」
「ははは、俺みたいなノンキャリ、出世はエスカルゴだ」
カタツムリ、つまりのろい、ということか。完璧なオヤジギャク……。
「あら、藤堂さんも誠司(せいじ)君も、飲み物がないわね。石井さんも、何をお飲みになる?」
藤堂が、「珍しいものを飲みたい」とリクエストした。
「珍しいものねぇ」
佐織ママが迷っていた時、奥から国友(くにとも)がやってきた。
「ママ。『レインボー』は、最近やってないんじゃないか?」
「国友さん、あれは難しいのよ」
「でも、きょうはこんなにいろいろなお客さんがお見えだ。つくってみてはどうかね」
佐織ママはちょっと考えてから、
「それじゃあ、一杯だけおつくりするわ。時間がかかりますよ」
そう言って、カウンターの奥に消えた。
店内には、映画『アポロ13』のサウンドトラックが流れている。
藤堂伸一、川端誠司、石井警部、国友の4人は、しばし無言で、『アポロ13』の主題曲に耳を傾けた。国友が、口を開いた。
「アポロ13号は、地球に帰れる可能性は、ほとんどなかった。たび重なる不運が襲って、絶体絶命。でもね、思うのですよ。人生は幸・不幸が行ったり来たりするが、たった一つでも、幸が不幸を上回れば、それで生きていける。アポロ13号は、不運の数より幸運の数が一つ上回ったから、帰ってこれた」
誠司が聞いた。
「国友さん。一つ上回っていた幸運って、何ですか?」
国友は、誠司に向かって言った。
「人だよ」
機械の不具合、宇宙環境という過酷な状態、酸素欠乏の恐怖、電源消失のおそれ。しかし、宇宙飛行士やNASAの地上職員ら、人間の知恵が、過酷な不運を上回った。
「あの時、すべての者が役割を分担し、それが一つになってアポロ13は救われた。役割分担と、絶対に仲間を助けるという気持ちがなかったら、無理だったろう」
「人、か」
真凛のつぶやきが合図だったように、カクテル「レインボー」が一つ、運ばれてきた。
七つの層
「お待たせしました」
「おお」
誰もが息をのんだ。
黄金、黄、青、透明、グレー、緑、赤。
お酒がグラスの中で層になっている。
「す、すごい……」
真凛は思わず顔をグラスに近づけた。
どの層も、きれいに分かれている。
「どうして、こんなふうになるの? もしかして、ゼリー?」
国友が、解説した。
「ゼリーではないよ。いいかね。『比重』というのはわかるじゃろ。水と氷では氷のほうが比重が軽いから、水に浮かぶ。だから、比重の重い酒の順に注いでいけば、理論上は層をつくることになる」
科学がまったくわからない人間の誠司が、藤堂と目を合わさないようにしながら、藤堂の背中越しに質問した。
「あのー、氷が水に浮く、っていうのはわかるんですが、お酒にも、重いお酒とそうでないお酒があるんですか?」
真凛が呆(あき)れながら言った。
「あんた、ほんとにバカね」
佐織ママが、「真凛ちゃん、怒鳴らないの。伸さん、さあ、ご注文のものよ」と言って、藤堂に『レインボー』をすすめた。
「あのー」
なかなか手を出さない藤堂にビクつきながら、誠司は、さらに質問をした。
「それじゃあ、具体的にこのお酒の比重って、なぜ違ってくるんですか?」
「糖度(とうど)、じゃよ」
国友が、続けた。
「酒にはおのおの、糖度がある。糖度の高い酒ほど、比重、まあ簡単に言えば、重いわけだ。わかりやすいのは日本酒。たとえば、ラベルの日本酒度が『-5』となっていれば、糖度が高い=比重が高い、つまり甘口。逆に『+5』ならば、糖度は低い=比重も低い。これは辛口。辛口のほうが軽く、甘口は重いんだ。ウィスキーなども、糖度は低めで、比重は軽いほうだな」
真凛は、目の前の七つの層でできているカクテルを、まじまじと眺めた。
「っていうことは、この層の下に行けばいくほど、甘いっていうことかしら?」
「そういうことよ。あ、藤堂さん、ストローいります?」
「お願いします」
藤堂伸一はストローを受け取ると、ゆっくりとカクテルに入れ、最初の層を飲んだ。いかつい藤堂がストローでカクテルを飲む姿は、なんともいえず可愛いと、真凛は思った。
「うん、うまい」
軽快なブランデー。それが終わると、シャルトリューズ(薬草のリキュール)。ベネディクティン(ブランデーベースのリキュール)、マラスキーノ(サクランボのリキュール)。ここまではわかったが、あとがわからない。
「佐織ママ、教えてください」
藤堂が真剣にお願いしたが、佐織ママは、「あとは企業秘密よ」と言って、教えなかった。
「でも、一つだけ。うちは、最後の層に、ノンアルコールのグレナデン・シロップは使わないわ。お酒ですもの、最後まで、筋を通さないと、ネ」
そう言いながらほほ笑んだ。
「筋を通す。いいですね」
言いながら、藤堂が最後の層にストローを入れた。
「七色そろって、レインボーか」
藤堂は、佐織ママに向かって、
「わたしの人生の幸運は、こういう静かなお店で、普通にお酒を飲めたことと、素晴らしい仲間たちと仕事ができたことです。佐織ママ、ありがとう」
そう言って、石井警部のほうに向き直った。
「お待たせしました」
石井警部は、ちょっと間を置いて、「うん、行こうか」というと、立ち上がった。
藤堂は、石井警部に両手を差し出したが、
「店の中じゃ、ご迷惑になるだろう」
「はい」
そう言って、二人は店をあとにした。
川端誠司は、藤堂が行って空いた席を見ながら、ポカンとしていた。
真凛は佐織ママに、
「え、何なに? 何なんですか??」
と尋ねた。
「たぶん」と断って、「逮捕されたのね」と佐織ママ。
「な、何でですかっ?」
「真凛は、知らないのかよ~。あの藤堂っていう男は、関東天明会の親分で、この前、立て続けに手下が殺されて、報復として相手の組の親分が殺されたんだよ」
「ち、ちょっと待って。じ、じゃあ、藤堂さんって、本物のやくざ?」
みんな黙ったまま、いっせいにうなずいた。
「な、何で言ってくれないのよ!!」
誠司は、「本人の前で、『彼は本物のヤクザだから気をつけろ』なんて、言えないじゃん!」
佐織ママは、「変なことをしない限り、ウチの店はお行儀のいい人なら、誰でもOK」と、呑気(のんき)なことを言った。
「だってだって、ホテル経営してるんでしょ?」
「ラブホテルを、ね」
誠司は、藤堂がいなくなって緊張が解けたのか、口が軽くなった。
「僕のオヤジが持ってる土地を、買いに来たことがあるんだ。たまたま事務所に行った時に、藤堂さんと会ったことがある」
「で、で、何で、逮捕されちゃったのよ」
翌朝の新聞には、誠司が言った通りのことが書かれていた。藤堂伸一は、無理やり縄張りを広げようとした敵対組織に部下を殺され、仇(かたき)を討つため、子分を一人も連れずに単身敵の組事務所に殴り込みをかけ、相手の組長を殺したらしい。
扱いは、自首だった。
石井警部が連れていったのだから、普通は自首にならないはずだが、たぶん石井警部がそういうことにしたのだろう。
殺された藤堂の部下は6人だったという。
あのカクテルを、一層一層飲み干しながら、亡くなった部下のことを思っていたのかもしれない。
でも、カクテル「レインボー」と違い、藤堂伸一にとっては、六人の比重に軽重はなかっただろう。
その日、真凛はアルバイトを休み、客として「ムーン・アイランド」に行った。
そして、カクテル「レインボー」を注文した。
ストローで一層ずつ飲み干しながら、藤堂伸一の、つぶらな瞳を思い出していた。
お客の少ない、静かな夜だった。
2014年1月31日更新 (次回更新予定: 2014年2月25日)
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