ムーンアイランドへようこそ

第3話 不思議なハイボール

舞台

居酒屋「ムーン・アイランド」は、東京の下町、もんじゃ焼で有名な月島(つきしま)にある。すぐ近くに帝都大学がある。店内には歴代の宇宙飛行士の写真や、ノーベル物理学賞受賞者などの写真やサインが並んでいる。どういうコネクションがあるのかわからないが、実際にNASAから宇宙飛行士がやってきたりするサイエンス居酒屋である。

  

登場人物

糸川真凛(いとかわ・まりん)

帝都大学理工学部3年生。宇宙物理学を学ぶ。ひょんなことから、月島にある居酒屋「ムーン・アイランド」でアルバイトをすることに。美人で背が高く、モデルのような外見だが、超理系の負けず嫌いな性格と、科学に命を懸けているため、恋人はいない。

朝永佐織(ともなが・さおり)

「ムーン・アイランド」の女将。上品で和服の似合う美人。理科好きの男性が好きで、科学居酒屋「ムーン・アイランド」を始める。性格はしとやか。しかし、話が宇宙や深海など科学的な冒険のことになると、人が変わったように熱が入る。

国友一雄(くにとも・かずお)

「ムーン・アイランド」の常連客。大会社の役員待遇の研究者。20年前に「ノーベル物理学賞か」と騒がれたことも。頑固で無口だが、ほかの客が間違った科学の話をすると、「国友です」ともっさり名乗って、間違いを正す。

川端誠司(かわばた・せいじ)

帝都大学法学部政治学科3年生。真凛と付き合いたくて天文部に入る。真凛と同じ歳。

だが、理系の知識はゼロ。金持ちの息子で勉強にも興味はないが、なんとか真凛に振り向いてもらうために、科学知識を得ようと「ムーン・アイランド」に通う。

  

不思議なハイボール

  江戸切子(えどきりこ)の大ぶりなグラスに、琥珀色(こはくいろ)したハイボールがそそがれ、目の前に置かれた。ライムが添えてある。

  「さあ、どうぞ」

  「みんなで、乾杯といくか」

  国友の音頭で、かんぱーい、と言ってグラスに口を近づけた時、

  (え、これって……)

  真凛はあまりの豊潤な薫(かお)りに驚いた。

  「うわー、美味(おい)しいぃ」

  佐織ママは、にこにこしながら小首をかしげた。どうやら、うれしい時のママの仕草であるらしい。

  国友に言われて、真凛はグラスを傾け喉(のど)を鳴らしながら、豪快に飲んでみた。

  熟成した樽(たる)の薫りが、鼻からふぅ、と抜けて、喉からお腹に、香ばしく懐かしい味わいが広がる。

  「これ、何か特別な作り方をしているんですか?」

  真凛が佐織ママにたずねると、「あら、うちのレシピを教えて欲しい?」とニッコリ。

  「ハイボールの美味しさの秘訣って、なんだかわかるかしら?」

  「さぁ」

  「三つ、あるのよ。一つは、薫り。ウィスキーの熟成した旨みと薫りが、炭酸といっしょに弾けるの。だから、シュワって爽快な喉越しのあと、芳醇(ほうじゅん)な薫りが鼻から抜けるのよ」

  なるほど。だから、普通の水割りより、一瞬で薫りが駆け抜けるわけか……。

  「二つめは、キリッと冷たいこと。冷たくないと、炭酸の匂いが出てつまらない薫りになるの。で、三つめがその炭酸。いくら冷えていても、炭酸の刺激が強すぎると、やっぱりウィスキーの薫りが潰(つぶ)されてしまうの」

  国友が、佐織ママの言葉を継いだ。

  「ハイボールというのは、不思議な飲み物でな、金をたくさんつぎ込めば旨いもんができるわけじゃあない」

  「そうかなぁ、いいウィスキーなら、うまいんじゃないの?」

  真凛と二人の時間を邪魔されたと勝手に思い込んでいる誠司が茶々を入れた。

  「あら、おいしくないかしら?」

  佐織ママに言われて、誠司は、

  「いや、うまいっすよ。でも、これって高いウィスキー使ってるんでしょ?」

  佐織ママがふふふ、と小さく笑うと、

  「ごめんなさいね。これ、高くないのよ」

  佐織ママが持ってきたのは、国産のごく普通のウィスキーだった。

  「相性なんじゃよ。どんなに高いウィスキーでも、合わせる炭酸水によって、えぐみや苦みが出てしまうこともある。まずは炭酸だ。どういうウィスキーと炭酸の組み合わせを選ぶかが、ママの腕のみせどころだな」

  国友は、さらに続けた。

  「それから、このグラス。わしは、ここのグラスが気に入っているんだ。このグラス、ワイングラスのように、ふちが少しだけすぼまっているだろう?」

  たしかに、富士山のようだ。

  「このすぼまっている余白の部分に、香りの溜まりが生まれる。で、口を近づけたときに……」

  国友はグラスに顔を寄せた。

  「ウィスキーの薫りを楽しめる、というわけだ。店によっちゃあ、分厚いガラスのジョッキで出すとこ、あるでしょ。ビールじゃないんだからさ、あれはやめてほしいね。まあ、それでも冷やしてあればまだいいけど、生ぬるいジョッキで出てきたら最悪だ。ハイボールの器はね、あらかじめよく冷やしておかなきゃ。キリッと爽やかさを楽しむもんだからさ。それに器が冷えているほうが、炭酸が一気に泡になって出てしまうことも防げるんだ」

  たしかに、キンと冷えて、泡が少なめだから、炭酸の刺激が前面に出過ぎていない。真凛はさらにもう一度、ハイボールを口にふくんだ。

  「そうかぁ、炭酸の泡がジュースみたいにジャバジャバしてないから、美味しいのね。でも、炭酸の泡を出しすぎないようにするには、どうすればいいのかしら?」

  佐織ママが答えた。

  「よく冷やした器の内側に沿うように、静かに炭酸水を注ぐのよ。やさしく、ネ」

  国友は、ふふ、と不敵な笑みを浮かべ、

  「核生成こそが、旨い炭酸の秘訣じゃ。オイ、若いの、『核生成』、わかるかね?」

  と、上の空で聞いていた誠司に向かって質問した。

  「は? カクセイセイ?」

  真凛は、しかたないなあ、と誠司の方を向いて説明を始めた。

  「いくらお金持ちのボンボンでも、お湯くらい沸かしたことがあるでしょ。その時、どうなる?」

  「んー、熱くなる」

  「見た目はどう? 何が起きる?」

  「……ブクブク泡が出る」

  「その泡の中身、何だかわかる?」

  「え、そりゃあ、空気だろ?」

  「残念でしたー」

  勝ち誇ったように、真凛は言い放った。

  「気泡の中身は、水蒸気。液体である水を沸騰させると、水は蒸発するわよね? この蒸発するときにできるのが水蒸気。つまり、ブクブク沸いた気泡の中身は、水蒸気なのデース」

  「それが何なの?」

  「そ・れ・が、核生成」

  誠司は、まるでできの悪い小学生のようにふてくされた。

  「つまりね、熱とか圧力とか加えると、液体は沸騰したりするでしょ? たとえばそんな現象のことよ」

  「そりゃわかったけど、それと美味しい炭酸と、どう関係があるんだよ」

  やれやれ、といった感じで真凛は説明を続けた。

  「炭酸水は、圧力をかけて水に二酸化炭素を無理やり溶け込ませて栓をしてあるのよ。で、炭酸水の入ったびんの栓を抜くと、水に溶けていた二酸化炭素が気泡になって現れる。あんた、子どもの頃、コーラの缶とか思いっきり振って、開けたこと、ない?」

  「ああ、やったなぁ」

  「どうなった?」

  「ドヒャー、って、泡が噴き出た」

  「振ることで、核生成がたくさん起きて、噴出したわけよ。つまり、コーラに溶けていた二酸化炭素が、たくさんの泡になっちゃったわけ。あ、そうか!」

  真凛は、誠司に説明しながら、何かに気がついた。

  「そッかっ、ようよね、振ったあとのコーラ、まずいわよ。そうかぁ、一気に炭酸を出さないようにする、つまり核生成を起こさせないようにした方が、炭酸は美味しいのね!」

  誠司は、コーラのたとえで、なんとなく理解できた。

  (たしかに、炭酸だらけのコーラはまずい……)

  「なんとなくわかったけどサ、要は、静かにグラスに注げばいいわけだ」

  「まあ、それだけではないがな。真凛さん、核生成が起きやすい状態、説明できるかね」

  国友は、今度は真凛に質問した。

  「ええと、水の分子で説明できるかしら」

  「うむ、いいぞ」

  「水分子は、互いに引っ張る力が強いです」

  眉(まゆ)をしかめた誠司のために、真凛はまたもしかたなく、やさしく解説をした。

  「『表面張力』、わかる?」

  「ああ、コップとかに水を入れると、コップの淵より上に、水が盛り上がるやつだろ?」

  「そう。どうしてそうなるのかというと、水の分子どうしが引っ張り合っているからなのよ。人間も引っ張り合えば、自分一人では無理な姿勢を保つことができるでしょ? たとえば後ろ向きに腕を組んで、背中と背中をくっつけて持ち上げあう。その背中の間に、二酸化炭素というボールを挟んでいるわけよ。で、引っ張り合うのをやめて、人間がバラバラに動けば、当然ボールも落ちて勝手にポンポン跳ねる」

  「ああ、なるほど……」

  「振ったりすると、炭酸水に溶けていた二酸化炭素が、ポコッと気体になる。人間がバラバラに動いて背中のボールがボコボコ落ちる。つまり、核生成が起きるわけよ」

  国友は、目をつぶりながら何度もうなずく。佐織ママも、(よくできたわね)と、首を斜めにしてほほ笑んだ。

  「ちなみに……」

  国友が、グラスを持った。

  「炭酸で核生成が起きる原因は、炭酸水より高い温度、かき混ぜること、そして」

  コツコツと、グラスを指でつついた。

  「シャンパングラスで、ずっと同じ場所から炭酸の泡が立ち上っているのを見たことがあるだろう? あれはいかん。あれはな、その場所に傷や汚れがあるっていうことなんだよ」

  国友が手にしたグラスに、全員の視線が集中した。

  「うむ、これは大丈夫だ」

  「あら、国友さん、いやねぇ。傷のないきれいなグラスを、いつも用意しておかなくちゃ」

  誠司がまじまじと自分のグラスを眺めていると、真凛がいきなり立ち上がって、ハイボールのグラスを手に叫んだ。

  「わかったわ! つまり、よく冷やしたグラスにそっと炭酸水を注ぎ、そっとウィスキーと炭酸水を混ぜればいいんですね! こうすれば、余計な泡を出さずにキリッと爽快(そうかい)、雑味を抑えたハイボールを楽しむことができる!」

  一瞬、店内がシーンと静まり返ったが、次の瞬間、国友が言った。「なかなか面白い子じゃないか、ママ」

  「あらあら、国友さんに気に入られちゃったみたいね。真凛ちゃん、次はいつ来てくれるの?」

  こうして、真凛のバイト先が決まった。

  ちなみにこのあと、誠司も「『ムーン・アイランド』でバイトをさせてほしい」と佐織ママに懇願した。

  「そうねぇ、でも、もう少し科学のことを知っていないと無理かしらねぇ。あと、真凛ちゃんが承知してくれるなら」

  むろん、真凛は承知などしない。

  「なんでつきまとうのよ!」

  「いいじゃん」

  「核生成も知らないくせに」

  「そんなもん、いまの説明でわかったよ! 科学の知識なんか、すぐに僕にも習得できるさ!」

  といっても、数学も物理も化学も、理系科目全滅だからこその法学部。どうやって苦手な科学を習得すればいいのか……。

  「ったく、金持ちって、なんでも思い通りになると思っているのね。毎日、私やお店にくるお客さんから講義でも受けるつもり?」

  誠司はハッとした。

  (そうだ、お金ならある。この店にお客として通えば、科学のこともわかるし、真凛とも一緒にいられる……)

  「何ニヤついてるのよ!」

  真凛の不機嫌そうな、でも、そのちょっと怒って眉間(みけん)にしわを寄せ口を尖(とが)がらせる仕草に、見惚(みほ)れる誠司であった。

2013年12月31日更新 (次回更新予定: 2014年1月25日)

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