ことわざに求めるもの
今回のテーマは「ことわざ」です。そもそも、ことわざとはいったい何なのか。「対立」という視点で考えてみます。
取り上げる「名言」(というよりことわざなんですが)は、以下の二つです。
●「善は急げ」
●「急(せ)いてはことを仕損じる」
本連載の基本的スタンスは、一見対立しているように見える「名言」も、両方正しく、「それが対立して見えるのは置かれた状況が異なるためなので、その状況を見極める必要がある」ということです。
ある意味ではこれら二つのことわざも同じなのですが、これまで取り上げてきた(あるいはこれから取り上げる)他の対立し合う名言のペアに比べて決定的に違うと思えることがあります。それはこれらに関しては、どう考えても「使う人にとって都合良く使われている」ようにしか見えないということです。
これまでの対立構造においては「川上と川下」や「具体と抽象」あるいは「置かれた環境」という明確な判断指針がありましたが、今回のこれらのことわざに関してはそのような決定的な「軸」を探すことがほぼ不可能、まさに「どちらでもあり」としか言えません。強いていえば「慎重過ぎる人には前者、思いつきで行動しすぎる人には後者」という程度です。
世の中に絶対的な正しさとか間違いというものはほとんどなく、「置かれた状況による」という本連載のキーメッセージを少し違った角度から見る必要があるということです。したがって今回は少し見方を変えて、「そもそもなんで私たちの生活にことわざが必要なんだろう?」という視点でこの「矛盾」をとらえてみます。
人間はなぜ抽象化するか
結論として、これらの相矛盾することわざのペアから導かれる仮説は、「ことわざは自分が考えている(あるいは言いたい)ことの背中を押すために存在する」ということであり、人間の思考パターンと関係しています。
「事業の赤字を打破するためにリスクの高い製品の投入を明日までに決めて動き出さなければいけない」とか「家は高い買い物だからもう少し別の物件も考えて最終結論を出そう」という個人の具体的な状況に比べ、ことわざというのは非常に抽象度を上げた「誰にでも使える一般的な言葉」といえます。つまり、自分がやろうとしていることを一般化して客観視することによって、「自分だけでなく他の人もみなやってきたことだから正しい決断だ」と自分の行為を肯定することに使っていると考えられます。
ここから、人間が「個別の具体的事象を抽象化してとらえることの意味」を見出すことができます。
一般的に抽象化=法則化というのは、新しいことを学んで将来に適用していくために使われることが多いのですが、このケースの場合には、すでに「結論が出ている」個別事象に関して裏付けを得るために、後付けの言葉を求めているのです。そう考えれば、「説明できない」と上述した矛盾が説明できます。
これはことわざのみならず、人生における「言葉」の意味合いにも通ずるものがあります。よく本を読んで「もやもやしていたことがすっきりした」という読後感を持つことがありますが、この現象も上の結論に似ています。言葉(場合によっては図解)という抽象化を用いて説明されることで、自分の思っていたことを肯定してもらい、背中を押してもらう効用があるのです。
確証バイアス
心理学に「確証バイアス」という言葉があります。人は様々な情報や意見に触れるときに、自分が持っている仮説や意見に合致するものばかりがよく見えて、それ意外は無意識に排除・無視してしまうという心理的傾向のことですが、名言やことわざは往々にして良くも悪くもこの傾向に拍車をかけることに用いられるということです。
言葉はコミュニケーションや新しい知識を学ぶためのツールであることに加えて、元々人間の頭や体の中にあるものをすっきり整理させて納得させる働きがあることは明確です(とここまで書いてきた本文も、そのような目的を満たしていることを祈ります)。
名言やことわざは、「外から新たな知見を得るためのもの」ではなく、「内なる個人的見解を言語化して確証を得るためのもの」と考えるのがこれらのうまい使い方と言えます。特にそれが少数側に属する時には先人からの後押しとなることでしょう。
[イラスト:一秒]
2018年5月5日更新 (次回更新予定: 2018年6月1日)
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