言論のアリーナ

第1回 「アリーナ論」の発端

本コラムの筆者・福嶋聡氏は、40年近くにわたり、書店の棚を通じて言論や時代の変化を見続けてきた。そこからは、いくつもの著書も生まれた。書店の棚にはどんな役割があるのか、書店員は何ができるのか。その自問自答から導きだされた帰結が「書店は言論のアリーナである」だった。「言論のアリーナ」の40年を振り返り、本や書店の果たしてきた役割を見つめなおし、「これからの本と書店」を考える。

「ヘイト本を返品できるか」という自問

はじまりは「苦し紛れの理屈」だった。

人がある主張を掲げ、それがその人の思想として認知されるほどに醸成されるには、他の人たちと何度も議論を重ね、自ら練り直していくための一定のプロセスが必要である。そのプロセスの時間的始まりは獏として定められぬ場合が多いが、ときに明確に日時を指定しうる場合もある。ぼくの「書店=言論のアリーナ」論は後者のケースであった。明確に「はじまりの日時」を指定できるのは、それがあるイベント会場で始まったからだ。

はじまりの日時は、2014年12月14日(日曜日)、午後9時~10時である。

その夜、大阪は宗右衛門町のロフトプラスワンウエストでは「日本の出版業界どないやねん!?物書きと出版社出て来いや!スペシャル」という、長いタイトルのイベントが開催された。ぼん、どぅーどぅるという二人がパーソナリティを務めるインターネットラジオ「凡どどラジオ」の公開中継である。ゲストとして、安田浩一、木瀬貴吉が登壇し、「嫌韓嫌中本」、「ヘイト本」の氾濫を批判するイベントであった。

安田浩一は『ネットと愛国』(講談社)で在特会など、いわゆるネトウヨを取材、その心情や実態をルポし、木瀬貴吉は「ヘイト本」を量産し販売する出版・書店業界の人間の考えや悩みを一冊の本に結晶させた『NOヘイト!』を出した、出版社ころからの代表である。

刊行前から『NOヘイト!』に注目し、刊行記念フェアを企画したぼくは、木瀬とメールで連絡を取り合う中でその日のイベントのことを知り、一観客として参加していた。

イベントは、開始早々から、壇上と観客席が一体となって、在特会やヘイト本の糾弾で盛り上がった。司会の二人は、朝鮮学校の生徒たちにまで暴言を浴びせる在特会のヘイトデモに対抗し、それを追放しようとするカウンターデモを、臨場感あふれる語りで報告し、木瀬は、出版者の製造者責任を言い、在日の人たちに大きな心の傷を与える「嫌韓本」はヘイトクライムであり、規制して当然と語った。安田は、在日の人たちの「表現の自由」をあらかじめ奪い、沈黙を強いる者たちの言説は、「表現の自由」には値しないと断言した。

会場全体が熱気を帯びた前半部が終了した幕間に、客席の最前列にていたぼくは、木瀬、ぼん・どぅーどぅるのお二人、そしてすでに面識のあった安田に挨拶をした。そのとき、木瀬から「あとで一言しゃべってください」と言われた。

後半が始まって50分ほどが経ったとき、木瀬が「今日は会場に書店の人が来られています。一言お願いしましょう」といきなり会場のぼくにマイクを回した。ぼくは、急な指名にやや戸惑いながら立ち上がり、「ジュンク堂書店難波店の福嶋です」と名乗った。

「このイベントに参加できて、とてもうれしく思っています。壇上の方々が語られたことに、心から共感し、これまでやってこられたことに心から敬意を表します」

それは、本心だった。ヘイトスピーチやヘイトデモ、ヘイト本を糾弾する会場に、ぼくは完全に一体化していた。異論はなかった。しかし、否だからこそ、書店人として次の一言を続けないわけにはいかなかった。

「しかし、それでも、書店の人間として〈ヘイト本〉を書棚から外すという選択はしません」

それは、裏切りの言葉だった。会場の参加者は皆、「アンチ・ヘイト」で、一体化していたのだから。そして、『NOヘイト!』に大いに賛同して参加していたぼくも、その一人だったからである。しかしそうであったからこそ、「このイベントに参加できて、とてもうれしく思って」いたからこそ、嘘はつけなかったのだ。

発言を求められたとき、反射的に「明日、店に出て、ヘイト本をすべて棚から外して返品できるか?」と自問した。答えは「NO」だった。

頭の中を駆け巡った「棚から外す」困難

明らかに在特会と同じスタンスの出版社、青林堂の本を抜くだけなら難しくはない。だが、「呆韓」「恥韓」「嫌韓」や、それに類した言葉がタイトルに冠されている本は、文庫・新書レーベルを持つ大手からも出されている。ものによっては、よく売れている。朝礼で返品を指示しても、「でも、店長。この本、売れているんですよ!」と反論が返ってくることは目に見えている。

「売れる本が、良い本だ」「売れるのなら、何を売ってもよい」というわけではない。しかし、書店もあくまで商売である限り、「売れる」ことは、唯一ではないにしても大きな価値を身にまとう。「売れている本を切らすな」とは、日ごろからスタッフに言い続けている言葉である。

「売れるなら、何を売ってもよい」わけではないことは、スタッフとも共有しているつもりだ。だが、だとしても、今度は「どこまで外したらよいか」が決められない。

前述のように、一部の出版社の書籍を抜くだけでは「ヘイト本をすべて棚から外して返品」したことにはならない。ヘイト本に類する本、ヘイト本に連なる本まで入れると膨大な量になり、ケント・ギルバードや百田尚樹の著書を含むと、40万部超のベストセラーが何点もある。他にも、ヘイト本に連なると言える本を書く人気の著者を数え始めたら、すぐに十指に余る。そして、売れ部数や、巧妙な書きぶりを鑑みれば、「純粋な」ヘイト本よりも、それらの本のほうが影響力は大きく、危険度は高いと思われるのだ。雑誌で言えば、『WILL』は明らかに『世界』よりも売れている。

そして、それらの書籍・雑誌の著者、出版社は、決して自らの出版物を「ヘイト本」とは呼ばせない。うかつに「ヘイト本」呼ばわりすると、「そういうレッテルを貼るお前のほうこそ偏見に満ちている」と逆襲される。

「ヘイト本をすべて棚から外す」ことへの、それらの困難が頭の中を駆け巡った。しかし、それをヘイト本を書棚から外さない理由にはできない。そのときの会場の雰囲気からは、そうした困難は書店が克服すべきものであり、まして売上のためにヘイト本を売り続けるなど許せない、という意見が態勢を占めていることは明らかだったからだ。そうした、書店サイドの都合による受動的・ネガティブな理由ではなく、問題の解決に向かう能動的・ポジティブな理由を提示する必要がある、と思った。そうして、次のように続けた。

「現にそこにある事実を覆い隠しても、それがなくなるわけでもなく、見えなくするのは結局良い結果を生まないと思うのです。むしろ、そうした批判すべき本を、実際に読んでみる必要があると思います」

つまり、書店の書棚から本を外すことによって、ヘイト本が現に存在していることを覆い隠すことは表面的に駆逐するに過ぎない、むしろそうした本が存在することを「見える化」し、実際に読んでみて「ヘイト」の動機と「論理」を掘り出し、批判することで真に駆逐することが大切だ、という理屈である。

この理由付けは、実は「ヘイト本を書棚から外す」という書店員の行為の問題を、「ヘイト本を読んで批判する」という批判者の行為の問題にすり替えている。だから、書店サイドの人間としては、あくまでの理由付けと言わざるを得ない。ただ、内容的には、この理由付けは間違っていないと思っていた。

産声を上げた「書店アリーナ論」

その思いを支えてくれたのは、その年(2014年)の6月に開催した『歴史に学ぶな』(dZERO)刊行記念トークイベントでの、著者鈴木邦男(一水会名誉顧問)の発言だった。

「最近、本は月に1冊しか読まない大学生が4割もいる、と新聞で読んだ。そんなの大学生じゃないだろう、本を読むのが商売だろう、読まないのなら大学生なんてやめちまえ、と思う」

と嘆いたあとで、鈴木は若き右翼活動家として左翼学生たちと対峙した頃のことを述懐した。

「かつては、いろんな思想全集があった。筑摩とか、河出とか。最初は必要なものから読んだのです。〈国家神道〉や〈保守主義〉とか。でもそのうち欲が出てきて、せっかくだから全巻読んでみようと欲が出てきて、〈反戦の思想〉とか〈平和の思想〉とか。そのときはわからなくても、考えて、悩んで。それがよかったと思いますね」

そして、次のように続けた。

「自分の考えが崩される、自分の思い込みが崩れると、うれしい。ああ、そうだったのか、と。そういう異質なものに出会うために本というものはあるんですよ。自分と違う考え、自分とは全く反対の、自分には理解できない考えが、なぜそうなるのかを知るために、本というものは読む必要がある」

読書によって、鈴木の右翼的な思想が揺らいだわけではない。獲得した知識は、自身と同じ方向の考えを持つ著者の本を読むよりもずっと大きな糧となり、むしろ鈴木の右翼思想をより強靭なものにしていったのだ。

本好きの鈴木は約束の時間よりも早く来店し、店内を見回り、『呆韓論』(室谷克実著、産経新聞出版)、『マンガ嫌韓流』(山野車輪著、普遊舎)、『恥韓論』(シンシアリー著、扶桑社)などというタイトルを目にした上での発言であった。

鈴木邦男氏と筆者
鈴木邦男氏(右)と筆者。2014年6月21日、ジュンク堂書店難波店で開かれた「『歴史に学ぶな』刊行記念トークイベント」で

そんな鈴木に倣(なら)うかたちで、ぼくは話を続けた。

「一水会の鈴木邦男さんが、トークイベントで言われていました。〈自分の考えを強めるためにする読書は、実はあまり重要ではない。むしろ、なぜこいつはこんな考え方をするのか信じられないと言いたい人の書いた本を読むことが、勉強になった〉と。だから、ぼくが今最も読みたい本は『大嫌韓時代』(桜井誠著、青林堂)かもしれません。もちろん、そうした本に感化されない自信があって言うのですが、実際に『大嫌韓時代』を読んでみたいと思っています。それは、『NOヘイト!』フェアのラインナップに『大嫌韓時代』を加えるためです」

そう、ぼくはヘイト本の代表格である『大嫌韓時代』を『NOヘイト!』フェアに並べることを宣言したのだ。その瞬間、ぼくの「書店アリーナ論」は、産声を上げたと言っていい。

『大嫌韓時代』を加えたのは、『NOヘイト!』ならびに他のヘイト本批判書が糾弾するターゲットがどのような本かを、実際に確かめていただくためである。決して両論併記やバランス感覚のためではない。『大嫌韓時代』を読みたいと言ったのは、それが批判されるべき本であることをぼく自身が確信し、店頭での質問に答えるためだ。自分が読みもしないで、「ヘイト本」の烙印を押したくはなかった。だから、約20点のフェアの中で、ヘイト本は『大嫌韓時代』1冊だった。あきらかに戦力不均衡だが、旗幟鮮明(きしせんめい)にはなった。

のちに『NOヘイト!』フェアにクレームをつけてきた男性が、「アンタは、〈この野菜は腐っている〉という札をつけて、それを売ろうとしてるんやな!」と言ったが、確かにその通りである。「上手いこと言うなあ」と思い、「そうです!」と即答した。

アウェーにいると気づかされて

「ぼくは明日、『大嫌韓時代』を読みます」と宣言して話を終えたとき、予期せぬことに、会場から拍手が湧き起こった。決して共感の拍手ではなかったはずだ。それまで壇上の4人が熱弁を奮い、会場が一体となった議論の方向とは真逆のものだからだ。「この会場で、よくそのようなことを言った」と蛮勇を褒める拍手だったのだろうか?

壇上から、木瀬が次の言葉で引き取ってくれた。

「完全にアウェーであるこうした場に、書店の人が来てくれ、そして話してくれたことが、とてもありがたい」

実を言うと、ぼくはこの言葉に虚を突かれたのだ。うかつにも、ぼくはそのときまで自分がアウェーにいるなどとは、まったく気づいていなかった。考えてみれば、イベントのタイトルには「物書きと出版社出て来いや!」とあるが、書店は「出て来い」と言われていない。書店は、ヘイト本の乱立という事件が起きている場であるが、書店の人間は蚊帳の外か、議論の相手にはならないと思われているのか……。

書店の人間も当事者であり、ときに加害者であるのだ。そのことに思い悩み、葛藤しながら、本を並べているのである。その一端が示されていることが、『NOヘイト!』に魅かれた理由のひとつでもある。

それでも、木瀬の言葉は、本当にありがたかった。それは、書店の人間を当事者として迎え入れる言葉であったから、そして何よりもぼくが今アウェーにいるのだということを気づかせてくれたからだ。不思議と、そのことがぼくには嫌でなかった。雰囲気に呑まれて完全に同化することはなかったし、嘘をついたりごまかしで逃げることなく済んだからか。

あとから考えると、アウェーである場に出向く人間がいることは、「アリーナ」が成立するための必要条件なのだ。皆がホームの人間であれば、闘技=討議は、起こりようがない。

ぼくの「書店=アリーナ論」は、こうして、ときに大きく荒れる海へと、船出したのである。

2021年1月22日更新 (次回更新予定: 2021年2月25日)

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